ゲストブック(やまとうた・はるのゆき芳名帳)

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 お詫びと訂正 お礼と紅葉と質問などなど    ..招き猫    
      2005/11/23(水) 22:59  No.865
 
 
【お詫び】 前回11月12日の私の書き込みの中で、桂太郎のお墓が勝國寺にあると書き記しましたが、これは私の勘違いでした。松陰神社の隣の若林公園と松陰神社との間に桂太郎の墓所がありました。吉田松陰のそばに眠りたいとの遺言からそこを墓所としたそうです。間違いを深くお詫び申し上げますと共に、謹んで訂正させていただきます。

 水垣様 前回書かせていただいた『「かる」心情』は、「枯る」「離る」の「かる」ですが、ある一面を表現するのみでわかりづらかったかも。冬の野辺をみるような心情と紅葉とは違うということを仰りたかったのかなあなどと思いをめぐらせたりもしました。
 
 五島美術館の特別展『やまとうた一千年』は、いよいよ今月27日(日)までですね。なんとか見に行きたい(!)。逸爾散士様、貴重なご体験の報告とその中での考察をまとめて下さり、感謝しながら読ませていただきました。「分かることは分けること」(反対だったかな?)といいますが、そんなことを感じながら読んでおりました。それぞれを比較することで特色を浮き立たせ、理解を深めておられる様子がよくわかります。
 提示された4人の女性の歌の違いは、私としてもとても興味深く感じられて、それぞれの人間像や立ち振る舞いなど空想することもあります。しかしながら、そこに時代の歌風を読み取る知識や感覚はまだ持ち合わせていないので、今後そのような感じが持てたらいいな、と思いました。また、新たにご理解が深まる出来事がおありにありましたら、お聞かせいただけたらと存じます。

 紅葉を見る機会に恵まれました(写真)。籠もり籠もった内なる情熱が次第に表出して、気がついたら赤々と染まっていた、といわんばかりの紅葉でした。寒暖の差が激しいほど色鮮やかに美しく染まるというのも、諸行無常の理でしょうか、紫草様。

  さにつらふ色いでにけりしのぶ山たまらぬおもひに紅葉ぢそすやも

 絵画館前の銀杏がそろそろかな、と思い途中下車して立ち寄りましたが、まだ緑の多い色合いでした。しかしながら、緑から黄色に移りゆくグラデーションの景観はとても美しかったです。落葉直前は、樹木が大きいことと葉の多さゆえに、都会の狭い空間と雑踏のなかにあって大変な重厚感があります。きれいに同じ形に刈り込まれた銀杏並木とその奥に見える絵画館との美しいながめは、はらはらとゆく黄葉に風情を感じながらも、自然を堪能するというより芸術を鑑賞するといった方がぴったりかも。今年は地方や郊外の紅葉を楽しむ機会が多かったので、なおそう感じました。どちらも美しい日本の風景です。



 覚園寺    ..八重葎    
      2005/11/22(火) 12:18  No.864
 
 
覚園寺の錦木の写真を拝見しました。

この寺は私にとっては非常に懐かしいもので、
ひなびた茅葺の諸堂やご本尊薬師如来の佇まい
を思い出しました。さらに私が訪れた20年
くらい前は、住職が時間を決めて拝観者を
案内していて自由には入れなかった記憶があります。

厳しい方でしたが、お説教を含めいろいろ
お話をいただきました。こういうことがやはり
一番に残るようですね。あの方は今もご健在なのでしょうか。



 楓が色付きました    ..紫草    
      2005/11/22(火) 11:30  No.863
 
 
春は赤ちゃんの手のようだった幼葉が風と共に爽やかな緑に被われ
皐月の空に佇むと眩いほどに心を清め和ませなてくれる、梅雨を迎えると雨の雫を傘のように葉を広げ受け止めてくれなから、日差しが強まると緑陰となって涼しさを醸し、俺は今暑さにめげず、こんなに頑張って大きく枝を伸ばし葉を広げているんだよと、言いたげな様子で顔お覗かせ、野分などやってくると一枝一葉にもたれ合いながら或るものは傷つき病葉となり朽ちるけれども残った楓の葉は色付きはじめると真っ赤に染まり燃えるような美しさを輝かせ、最後の彩リを賞玩させてくれる。生きとし生ける者の生命はこれで終わり冬を迎える。人間どもは諸行無常とも云う



 八代集の歌風    ..逸爾散士    
      2005/11/20(日) 18:49  No.861
 
 
 この前、五島美術館で聴講した小町谷照彦氏の「八代集の歌風と変遷」は、専門の講義のように整然としたものではなく、三夕の歌や六玉川の歌を描いた錦絵(というのかしらん)を『紅葉百人一首姫鑑』という江戸時代の本の現物なども示されての親しみやすいものでした。
 その広汎なレジュメから、勅撰集の流れという部分を抜書きします。ここの辺が本論に当たるよう。

○勅撰集の流れ
 *古今集で自然や人事の詠歌の方法の大まかな枠組みができる。
 添付資料
 『古今和歌集と歌ことば表現』「四季歌の世界:
 「古今集のことばの魅力」「古今集歳時記」
 『墨』成立千百年記念特集古今和歌集 平成十六年七・八月号 *以後、古今集の発送や表現の継承と修正的な発展が続く。
 *和歌史的には、三代集時代、後拾遺集と以後の院政期、千載集・新古今集時代に区分けされる。
 *歌語の開拓が新風を導く。添付資料『古来風体抄』四季の歌 *卓越した花壇の指導者が方向性を定める
  紀貫之 藤原公任 源経信 藤原俊成
 *特異で優れた才能を持つ歌人たちによって飛躍的な進展がもたらされる。
  源順 曾禰好忠 和泉式部 能因 源俊頼 西行 定家
 *在野の佳人の集団的な活動が進展の契機となる。 
  河原院の歌人たち 和歌六人党 歌林苑
 *入集した歌人によって勅撰集の特色がわかる。撰集の時期の歌よりも時代を長く設定していることが多い。

 としてこの後に、古今集から新古今集までの特色がしるしてあるのですが、長いのでめげて以下略。

 ふーん。能因法師はそんなに大きな存在なの、などともの知らずな私は思いました。
 
 そぞろに思うのは、歌人の個性と時代との関わりあい。そんなに歌を知らない私でも、和泉式部の歌は式部らしいと感じます。後拾遺時代の詠みぶりとは思わない。(というほどあれこれ知らないともいえますが)
 でも、和泉式部の歌は古今調とも新古今調とも違う時代の歌とは思えます。小野小町はさておき、(片思いとは別に)憧れの伊勢の御の歌と式子内親王様の歌と和泉式部の、それほど知られてない同じような恋の歌を並べられたとき、私は作者の名をどれも当てられる自信はないけど、この歌は古今・後撰ぽいなあ、とか、うーん、新古今調だとか思うことはあると思えます。
 女流の三つの高峰とも思える三人はかなり際立った個性の歌人たちでしょうが、時代のほうを強く感じるようにも思う。

 で、別の思考実験として、新古今と後拾遺の歌を匿名で並べた中では、(私は大概の歌を覚えてないから、式子様の歌も式部の歌も誰の歌だか思い出せないながら)、なんか和泉式部みたいねえ、と思えるようにも思う。
 つまり歌人の個性というものも、名を伏せておいても感得せられるぐらいの実体はあるとも思えるのです。
 
 全然、実証とか実験とかしていないでの論述ですが、和歌においては時代>個性ではないかしら。しかも(しかしながらかな)個性の際立つ歌人は時代をぬきんでているとも思えます。 



 おすすめ    ..とも    
      2005/11/17(木) 22:57  No.860
 
 
はじめておじゃまさせていただきます。知り合いが、枕詞についてまと
めた本を作りました。わかりやすい内容ですので、よろしくお願いします。「私撰枕ことば辞典」鏡山昭典、中央公論新社です。部数が少ない野で、もう店頭にないかもしれません。



 ありがとうございました    ..阿部 [URL]    
      2005/11/16(水) 23:14  No.859
 
 

水垣様

いつもながらの、ご丁寧なご教示、ありがとうございました。
じつは私の発行するマガジンに「とか」について載せたかったのです。以下のようにしました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 (とか)

当時でも(・・・とか)という用い方をするということが不思議
でした。私の感覚では現在的な言葉のようにも思いました。
手持ちの古語辞典にも広辞苑第二版にも「とか」の記載がありま
せん。日本語大辞典からのみ引用してみます。

1 とか 〈副助〉(種々の語に付く)
         並べあげる意を表す。
  『用例』 紙○○鉛筆○○、みんな用意した。

2 とーか〈連語〉(格助詞「と」に副助詞「か」のついたもの)
        他人から聞いたか、忘れたかで情報がはっきり
         しない意を表す。
  『用例』 確か小林さん○○という人、そう言った。

西行歌では「とか」の用例はこの一首のみです。「2」の意味で
用いられていることがわかりました。それでも散文的感覚なり、
用法のように感じて、いまひとつすっきりとしません。
「とか」の用例歌を一首。
    
秋の月山辺さやかにてらせるはおつるもみぢのかずを見よとか
                 (作者不詳 古今集)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ということで教えていただいた歌も、気になりながら掲載させていただきました。

私の不手際で現在「山家集の研究」が閉鎖中です。
掲載したマガジンについては以下です。ありがとうございました。

http://blog.mag2.com/m/log/0000165185




 RE:「とか」という副詞について>阿部様    ..水垣    
      2005/11/14(月) 22:46  No.858
 
 
お久しぶりです。これは面白い歌を出して下さいました。

>むかしかな炒粉かけとかせしことよあこめの袖にたまだすきして

この「とか」ですが、広辞苑第五版を見ますと、二通りの用法に大別しています。

--------------------引用はじめ-------------------

一、(「と」も「か」も並立を表す助詞)
1.例示し列挙するのに用いる語。例示する事項のあとに一々「とか」を付けるのが本来の使い方だが、最後の例示のあとに付けないことがある。「雨―雪―」「地位―名誉には関心がない」
2.一つの物事だけを挙げ、他を略して言う、または、それと特定しないで言う表現。近年の用法。「コーヒー―飲んだ」

二、(格助詞「と」に係助詞「か」の付いたもの。多く、「言う」「聞く」などを伴う) 内容が不確かである意を表す。「うまくいった―いうことだ」「結婚した―」

--------------------引用おわり-------------------

阿部様は「一」の用法を考えておられるようですが、西行の歌の「とか」は「二」の用法であろうと思います。「炒粉かけとか、○○とか、したことよ」というのでなく、「炒粉かけだったかな、そんなのをしたことよ」と、記憶の内容が不確かなことをあらわす「とか」ではないでしょうか。
「二」の用法の「とか」の平安時代の用例としては、

 古今集289  題しらず   よみ人しらず
秋の月山辺さやかにてらせるはおつるもみぢのかずを見よとか

この「とか」は「ということであろうか」の意味で、広辞苑の「二」にあたる用法ではないでしょうか。



 RE:和宮おもひて>招き猫さん    ..水垣    
      2005/11/14(月) 22:21  No.857
 
 
>「かる」心情

というのが解らず、文意がつかめませんでした。

豪徳寺・松陰神社…懐かしい名前が出てきました。私は世田谷線沿線の生まれです(中学生の時に横浜へ引っ越してしまったのですが)。幕末維新にゆかりのある場所とはあまり意識したことがありませんでしたけれども。
過日、世田谷区の税務署に用があって、近くの松陰神社に寄ってみますと、松下村塾の復元建物がありました。吉田松陰の銅像があることは知っていたのですが(写真を掲げます)。

和宮と言えば墓所は芝の増上寺ですね。お参りしたいと一度訪ねたのですが、徳川家霊廟は閉門していて、虚しく帰って参りました。

>落ちて行く身を知りながら紅葉ばの人なつかしくこがれこそすれ(和宮)

和宮東下りの途上、美濃国呂久川での詠と伝わる歌ですね。川へ落ちて行く紅葉に、東へと落ちて行く我が身を重ね、京の人を懐かしく思い出していたのでしょうか。



 どういたしまして>一人静さん    ..水垣    
      2005/11/14(月) 22:02  No.856
 
 
私のも様々な先人に助けられての訳ですから…。
取りあえずご自分の感覚で読んでみて、色んな疑問を持つ――そこから始めるというのは、大変良い入り方ではないでしょうか。
五首のまとめの「現代語訳」、みごとに要を得ていると思います。
私も「遊び心」が足りないと言ってよく友人に嬲られますので、大嬢の気持がよく解るような気がします。



 RE:夏櫨>紫草さん    ..水垣    
      2005/11/14(月) 21:54  No.855
 
 
お庭の夏櫨、例年より色が斑とのことですが、十分美しく見えます。
我が家の櫨も今年は色付きが今一つです。尤も冷え込むのはこれからですが。
写真は鎌倉覚園寺の錦木です。やはり見頃はまだ先のようです。



 「とか」という副詞について    ..阿部 [URL]    
      2005/11/13(日) 02:08  No.854
 
 
水垣様

お久しぶりです。「山家集の研究」の阿部です。
困ったときの水垣様頼みで大変に申し訳ない気もするのですが、また、御教示していただきたいことができました。

むかしかな炒粉かけとかせしことよあこめの袖にたまだすきして

聞書集の「たはぶれ歌」十三首の中の一首ですが、この歌の中の「とか」が気になってしまっています。
「炒粉かけ」「せしことよ」で区切ると中の「とか」が浮いてしまいます。
現代風に(・・・とか)という形で言葉と言葉をつなぐ副詞、あるものとあるものを並び立てるための副詞として平安時代も「・・・とか」が用いられていたのでしょうか。用いられていたとしたら不思議な気もするのです。
ちなみに西行歌では「・・・とか」の用例はほかにありません。
他の歌人で、こんな散文的な「とか」の用例はあるものでしょうか。「とか」とは現在の副詞とは違う意味合いで使われていたとは思えないのですが、それにしても、現在風の用い方にとても違和感を持っています。
このことについて何かご教示いただければ、うれしく思います。
よろしくお願いします。



 和宮おもひて    ..招き猫    
      2005/11/12(土) 13:44  No.853
 
 
世の中にたへて紅葉のなかりせば冬の心はのどけからまし

桜の花の散り行くさまは、業平の心を揺さぶって止まなかったようですが、一方で、紅葉の落ちゆくさまは「かる」心情にあって、そのことに気がつくと、詠むのをためらったり慎重になったりしてしまいます。どんなに思いをよせて共に生きた人でも、最後にはお別れしなければならないことを考えると、悲しいけれど、だからこそ、生きているうちは精一杯愛したり尽くしたりするのが生きるということなのでしょうね。

落ちて行く身を知りながら紅葉ばの人なつかしくこがれこそすれ(和宮)

「招き猫」発祥の地、豪徳寺はかつて井伊家の領地で、大老・井伊直弼のお墓があります。一方、隣接する町、若林にある松陰神社には、吉田松陰のお墓があります。若林の丘陵地は、かつて毛利家の領地でした。そしてその丁度真ん中あたり、国士舘大学世田谷キャンパスに隣接した勝國寺には桂太郎の墓があります。なんだか・・・

和宮おもふるにあがこころねのことなきにして
歌のえよまざるといひつつよみけり

錦川くれなゐくくる紅葉ばのみだれおつるのなどいさぎよき

写真は、先日所用で埼玉県の川角という町に出かけたときに、農家の庭先で見かけた菊の花です。そこここに柿がたわわに実り、尾花の丘に小さな花が彩を見せる自然に深く囲まれた町並みに、心地よさを感じてきました。都会の住宅地に住む私は、戻ってみると自分が大きな植木鉢の中に住んでいるような感覚にとらわれて、都会の人々のけなげな努力に気づかされました。



 家持五首について    ..一人静    
      2005/11/11(金) 14:29  No.852
 
 
かみくだいてよくわかるように教えていただきありがとうございました。私たちの使っているテキスト(新日本古典文学大系)よりずっとわかりやすい水垣さんの訳でした。

大嬢からどのような歌が届いたのか・・を考えながら、水垣さんの訳に助けなれながら、この五首を読み返すと、以前思っていたのとは違う歌の姿が現れてきました。

770 会いに行かないからといって嫌ってなどないよ
771 嘘も上手につくんだよ、まだまだ僕の事わかってないね
772 もっと心がピッタリしないと夢でも逢えないよ
773 やられたね、練りに練った君の言葉を信じてしまったよ
774 だけど、その手は二度とくわないよ

少し現代語訳すぎたでしょうか・・・
私としては、この五首がとても楽に読めるようになりました。
あまり真面目に真剣に歌にとりかかりすぎる自分の性格・・・遊び心がたりないなぁ・・と反省しつつ、大嬢が親しく思われてきます。

773の歌を万葉集で読む前に、紫陽花の歌を読んだ歌が二首、万葉集にあると何かの書き物で紹介されていました。家持も大嬢もよく知らない頃でした。自分のもっている紫陽花のイメージなどとかけはなれいて、難しい歌だなぁ・・という印象をもちました。

実際にこんな形でこの歌が歌われていたのを知ったのは原本を読んだ今です。
ひっかかり、ひっかかり、拙い読みを続けていますが、この歌もまた私の中で印象深い歌となりつつあります。
原本を読むのが楽しいのはこういう時です。少しは私の血となり、肉となってきてくれているのでしょう・・・か

水垣さんのお返事、コピーして、次回の読書会に持っていきます。友人達の反応もまた楽しみです。
ありがとうございました。




 なつはぜ  (夏櫨)    ..紫草    
      2005/11/10(木) 11:15  No.851
 
 
紅葉の便りがあちらこちらから聞こえるように成ってまいりました庭の夏櫨(ツツジ科)も色付き始め龍田姫の訪れを告げております
もみじの季節に成るとまず最初に色付くのが夏櫨・錦木です。今年は色つきが斑で楓が紅色に染まるのはまだ先のようです
龍田姫と言えば古都奈良の都を流れる大和川の東の山を佐保山。西
の山を龍田山が有り秋を司る女神と云われ「春は佐保姫・夏は生田姫・秋は龍田姫・冬は春日明神」と云われております。
(五行説)よりますと東には春、西には秋が配当されますので伝説
も故なしではないようです。

  竜田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん

訳・竜田川に紅葉が一面に散り乱れて流れているようだ、歩いて川を渡ったりしたら、この紅葉の織り成した美しい錦は途中で切れてしまうだろうか。



 家持が大嬢に贈った五首について    ..水垣    
      2005/11/10(木) 00:25  No.850
 
 
問題の五首、ちょっと長くなりますが、私のサイトから引用いたします。

--------------------引用はじめ-------------------

大伴宿禰家持の、久迩京より坂上大嬢に贈る歌五首
人眼多み逢はなくのみそ心さへ妹を忘れて吾(あ)が思はなくに(04/0770)
(訳)他人に見られてしまうと咎めを受けることになるので、こっそり逢いに行くことも出来ないでいるのです。心だけは愛しい貴方を忘れずに思い続けているのですよ。

偽りも似つきてそする現(うつ)しくもまこと我妹児我に恋ひめや(04/0771)
(訳)嘘をつくにしてもそれらしく言うものです。愛しい我が人よ、貴方は本当に私に恋をしているのでしょうか。

夢にだに見えむと我は保抒毛友相し思はねばうべ見えざらむ(04/0772)
(訳)せめて夢にでも見えるだろうと私は(保抒毛友、訓義未詳)、お互い思い合っていないから、なるほど見えないのも無理はないでしょう。

言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)等が練のむらとに欺かえにけり(04/0773)
(訳)口をきけない木にだって紫陽花のように巧妙に人を欺くものがある。ましてや人の言うことなど信用してはならないのに、私は「諸弟らの練りのむらと」というやつを恃んで欺かれてしまった。
(注)「諸弟らが練りのむらと」は、意味不明。「諸弟」は上代、おそらく次男以下につけられたと思われる、ありふれた男子名。「練り」は練りに練った、練達の。「むらと」はおそらく「群詞」で、多くの言葉。「人を欺く上手な言葉」という意味の、当時の諺のようなものかと思われます。

百千遍(ももちたび)恋ふと云ふとも諸弟等が練の言葉は我はたのまじ(04/0774)
(訳)貴方が百回千回「恋うている」と言って寄越しても、「諸弟らが練の言葉」など私はもうあてにしません。

---------------------引用おわり------------------

この五首は内容からして一時に送ったものではないと思われます。大嬢との贈答の中で次々に生まれた歌を、後でひとまとめにしたものでしょう(最後の二首のみは同時に送られた可能性が高いと考えられますが)。
大嬢の歌が残っていればもっと解りやすかったでしょうね。
最初の一首は、おそらく大嬢が「なぜ逢いに来てくれないのか」と拗ねた歌に、真面目に答えたものでしょう。
二首目は、恋しさを訴える妻の歌に対する返事でしょうか。家持の歌にはからかいの調子を感じます。当時の歌の贈答は、押せば引く、引けば押す、という呼吸があったのです。その辺を考慮しないと、冷たい歌に見えてしまうかもしれません。
三首目は、「私はこんなに思っているのに、私の姿はあなたの夢にも現れないのですか」とでも言ってきた歌への返答でしょうか。「それは、どちらも思っていないからでしょう」とはぐらかしています。
四首目・五首目は、大嬢の歌を「諸弟等の練りのむらと」と呼んで信用しないと言っているのですが、こういう秘密めかした言い方からは、むしろ二人の関係の親密さが読み取れるように私には思われます。
伊藤博先生の『萬葉集釋注』にはこの歌群の最後の一首につき「こういう言葉が投げかけられるようになれば、夫婦関係も堂に入りはじめたということなのであろう」と言っておられます。

大嬢はその歌など見ましても、ひたむきな、真面目な女性だったのではないかと想像されます。母の坂上郎女の持っていたような洒落っ気は受け継がなかったようです。家持はそんな大嬢をからかい、困らせては楽しみ、しかし内心この上なくいとおしんでいたことがこの五首から感じられます。



 今晩は    ..一人静    
      2005/11/08(火) 20:23  No.849
 
 
今晩は。
こちらのコーナーには久しぶりに訪問させていただきます。

万葉集は相変わらずボツボツと読み進めています。今日は770〜774まで家持が久迩京より坂上大嬢に賜りし歌前後を読みました。
聖武天皇が大仏建立のために急遽都を敷かれた久迩から故郷にいる妻大嬢に送る歌五首ですが、とてもきつい歌が多くて、自分だったらこんな歌を夫から送られたらショックでたまらないだろうなぁ・・と思いました。

773 言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟らが練りのむらとに詐かれけり

(もの言わぬ木でも紫陽花のような七重八重咲くものがある。諸弟めの美辞零句にまんまとだまされてしまった)

774 百千度恋ふと言ふとも諸弟らが練りの言葉はわれは頼まじ

(たとえ百遍も千遍も恋しく思うと言っても、諸弟めの巧みな言葉など信用しないぞ)

普通に考えて、こんな歌を恋しい妻に送るでしょうか・・・
妻がとんでもないこと・・例えば不倫・・でもして、妻からよこした使者・・諸弟・・にまんまとだまされていた!と言うのでしょうか。
大嬢が不倫した・・というような話も聞きません。むしろ家持は大嬢と結婚後も多くの女性と歌を交換しています。

久迩京では、当時は政略が入り混じって大変な時代であったのではないかと・・・そう考えると恋の歌にまぎらして「自分は結構きびしい状況にある・・・」と愚痴をこぼしたのか・・と考えたくなります。解説にはそんなことは全く触れていませんでした。

どう思われますか?

その前後の紀女郎と交わしている歌が実にのびやかで茶目っ気があって楽しげなのでこの五首が重く感じられてなりません。

ぜひご意見伺いたく長々と書いてしまいました。よろしくお願いします。



 懐かしいヘルシンキ    ..水垣    
      2005/11/08(火) 00:08  No.848
 
 
紀州の姫様、フィンランドへ行ってらしたのですか。作曲家シベリウスの故国ですね。
ヘルシンキの夕暮、まさに「暮れやすき日の色」を感じます。あちらでは日本よりも日が短くなっているのでしょうか。

北欧は思い出深い土地で、懐かしいです。十数年前になりますが、二回に分けて四か国(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)を廻りました。季節は夏と冬だったので、お写真を拝見して、いつか今度は秋に訪れてみたいものだと思いました。
写真はピンボケですが、ヘルシンキ市街で撮ったものです。クリスマスシーズンだったのです。

ブログの方も見て頂いて有り難うございます。そう言えば紀州の姫様にお会いした時の「旅行メモ」が滞ったままでした^^; 
またどうぞお気軽にお訪ね下さい。



 RE:隠岐本    ..めるがっぱ [URL]    
      2005/11/06(日) 23:49  No.847
 
 
水垣さん、
さっそく隠岐本について教えて
頂いてありがとうございます。

目下、新古今を読んでいるのですが、
いつか隠岐本を読んでみたいものだと
思います。




 神無月    ..紀州の姫    
      2005/11/06(日) 15:24  No.846
 
 
水垣さま、暫く留守をしていましたらブログの画面がすっかり変わっており、別世界に入り込んだような気がしました。

>神無月暮れやすき日の色なれば霜の下葉に風もたまらず

>「日の色」の「色」は色彩というより気色、冬の陽射しの暮れやすいおもむきを言っています。

写真はヘルシンキの夕暮れ(10/25)です。
ブログの神無月を拝読し、この風景を思い出してしまいました。
もちろん出雲大社の「神無月」「神在月」とは何の関係もありませんが、

>雲の果て出雲へと去って行った神々、それと入れ替わるように空の果てから訪れる「神無月」という名の月――次第に冷え込む大気のうちに万物が衰えを見せ始める季節。

ヘルシンキで眺めた風景からも、何か重なり合う所がありました。

>八重葎さま、お久し振りです。
>話題についていけるだけの勉強ができていなく、書き込み
もできませんでした。

私など八重葎さま以上に何も解からない人間です。ブログの打てば響くような皆様の素晴らしいコメントには、和歌に疎い私など引いてしまいそうになりますが、皆様から多くの新しい事を教えて頂け感謝のみです。
そして、性格が厚かましいのでしょうか?時々、こうやって割り込んで書き込みをしています。(^_^;)

京都国立博物館『古今集1100年 新古今集800年記念 和歌と美術』のご案内もあり、行ってみようと思います。
気の利いた感想などは出来ないかも知れませんが・・・。(^^ゞ



 RE:隠岐本    ..水垣    
      2005/11/05(土) 22:25  No.845
 
 
>めるがっぱさん
>新古今の隠岐本を読みたいのですが、
>出版されているものはあるのでしょうか。

上の二冊が私の持っている「隠岐本新古今集」の本です(クリックすると拡大します)。
左は昭和二年岡書院刊、武田祐吉他編『隠岐本新古今和歌集』。
右は平成九年朝日新聞社刊、冷泉家時雨亭叢書『隠岐本 新古今和歌集』

左は隠岐本と言いましても、後鳥羽院の合点(残す歌であることを示す記号)が付いている写本を校合した校本です。右は近年発見されて話題となった冷泉家所蔵の文字通りの(すなわち削除歌は存在しない)「隠岐本」の写真版です。残念なことに前半十巻しか見つかっておりません。



 隠岐本    ..めるがっぱ [URL]    
      2005/11/05(土) 16:17  No.844
 
 
お尋ねします。

新古今の隠岐本を読みたいのですが、
出版されているものはあるのでしょうか。

よろしくお願いします。




 RE:古筆    ..水垣    
      2005/11/04(金) 23:47  No.843
 
 
八重葎様、お久しぶりです。お忙しい中ご投稿有り難うございます。
五島美術館がお近くとは羨ましいことです。私は引越後ともかく東京が遠く感じられて…。美術館からはすっかり足が遠のいてしまいました。
でも、今週末は無理そうですが、来週なんとか時間を見つけて、と思っております。



 RE:特別展 やまとうた一千年    ..水垣    
      2005/11/04(金) 23:44  No.842
 
 
楽しく読ませて頂きました。満足ゆかれる展示だったようで、何よりです。
私も書はずぶの素人ですから、仮名漢字そのままの読み下しが付いていないのは不親切に感じてしまうことでしょう。
「八代集の歌風と変遷」の講演、大変興味を惹かれます。簡潔な要約からあれこれと思いを馳せました。
講演会の講師はこの後も錚々たる人達で、私もせめて一回は聴講できないかと思っているのですが。



 古筆    ..八重葎    
      2005/11/04(金) 12:21  No.841
 
 
水垣様 皆様

大変ご無沙汰しております。
あわただしく過ごしていまして、ブログ/本Pageはお昼に拝見しているのですが、話題についていけるだけの勉強ができていなく、書き込み
もできませんでした。

寸松庵色紙/高野切の複製は持っていまして、たまに眺めています。
五島美術館は近いので本物にふれるいい機会と思い、この週末に
見てみようと思っています。



 特別展 やまとうた一千年    ..逸爾散士    
      2005/11/03(木) 23:58  No.840
 
 
五島美術館で開かれている特別展 やまとうた一千年〜古今集から新古今集の名筆をたどる〜 にいってきました。
書には全く疎く、仮名にも真名にもくずし字はまるで読めない私。美的というか造形的センスもないから、字がうまいのか素晴らしいのか癖があるのか、それすらわかりません。多くは切で軸に表装してありますから、ガラス越し50センチはあって読みにくいこともありますけど…。でもこんなことがなければ寸松庵色紙や佐竹本三十六歌仙(展示されていたのは清原元輔)を見ることはなかったでしょう。
心なき身にもゆかしとおもはれて、面白い展覧会でした。

展示は古今集から新古今集まで、書かれた歌の時代順に並べられています。最初のほうは殆ど「伝紀貫之筆」という形で、時代が下ると「藤原定家筆」と説明してあるものも増えてきます。
書かれている和歌の解説は、「新日本古典文学大系」などから該当する歌をぬいて解説してあるので、実際の展示品にある文字使いとは一致しません。解説をみて当たりをつけて読もうとすると、漢字だったり逆に仮名だったりするようで読みにくい。(そうじゃなくてもどうせ読めなかったと思うけど)
読めなくても俊頼や家隆やといった、すごい歌を詠むと感心する人たちの筆と伝えられるものを見るのは、やはりなんか嬉しいですね。

今日(3日)は、「八代集の歌風と変遷」という東京経済大学教授、小町谷照彦氏の講演があり、大勢の人が列を作りました。
私も聴講。八代集それぞれに歌風があるなら、「もどき」の歌を作り分けて遊ぼうかと思ったのですが、それほど明白に分かれるようではないようです。
講演は秋の夕ぐれの情趣を例に、「いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり」(古今集・恋一)から、新古今集の三夕の歌まで到達したことを中心に、古今集でできた和歌の枠組みが、歌語の開拓や個性的な歌人たちの活躍によって発展してきたことを解説。和歌に詳しい人には常識かもしれませんが、八代集それぞれの成立事情や特長などの話は興味深いものでした。
前代の歌を意識しつつ、当代の新味も出していく。それぞれの時代の勅撰集の選者たちの意識というのは興味深いですね。



 RE:道堅法師の歌    ..水垣    
      2005/11/01(火) 23:41  No.839
 
 
逸爾散士様、早速に有り難うございます。

>咲く花のけふのあるじに身をなしてしのぶも悲し故郷の春

「けふのあるじ」が「ちょっと曖昧」と仰るのは同感です。そもそも「けふ」がどういう「今日」なのか、花の盛りなのか、花の咲いた日なのか、解りにくいですね。読む方で言葉を補ってやらないと理解した気になれないという歌です。しかし故郷から隔てられた悲しみは調べとして切々と伝わってくる気がして、採りました。

>世のうさもまたやあひみん初瀬山いのりし道は花ぞふりしく

これも下句が良いので採った、ということです。

>里遠く野はなりにけり長き夜の月のゆくへをとふとせしまに

この歌も「あんまりすっきりしない措辞」かも知れませんねえ。上句は「野は里遠くなりにけり」の倒置と理解すればよいのでしょうか?

>なにか、中古の人より私たちに近い感じがします。

やはり応仁の乱のもたらした断絶は大きかったのかな、と思います。ずっと三条西実隆の歌を読み続けているのですが、この人には特に同時代人みたいな親しみを感じます。古典は遠くなりにけり…。




 道堅法師の歌    ..逸爾散士    
      2005/11/01(火) 00:47  No.838
 
 
 咲く花のけふのあるじに身をなしてしのぶも悲し故郷の春

 あんまりすっきりしない措辞だと思って参考歌を読むと、「花のあるじ」という言葉が定着していると知りました。「けふのあるじ」は違う感慨も含まれそうで強い言い方だけど、ちょっと曖昧。

 世のうさもまたやあひみん初瀬山いのりし道は花ぞふりしく

 下句は参道に花の散りかう華麗な情景がイメージされて、「ご出家、なぜゆえ上句が如き心細きことをのたまうぞ」と思ったけど、古人には、花が散るといえば憂きことと定まっていましたね。

 暮れゆけばただ春風の音羽川おとを聞きても花ぞ悲しき

 音羽川から出ているとはいえ、川音に花の散るあはれを取り合わせるのはゆかしい。

 吉野より外(ほか)には出でず日数へて同じかげなる花は見ねども

 すらっとした調べですね。確かに西行法師を思わせる。

 難波江や芦のしげみの下くぐる音にもちかき水の秋風

 参考歌で、すでに「水の秋」という語があるのを知りました。それを「水の秋風」とまで後代は応用するのですねえ。

 里遠く野はなりにけり長き夜の月のゆくへをとふとせしまに

 【校異】にあるように変えてみたくなる気はわかります。「里遠き野辺に来にけり」じゃいけないのか、と私も思いました。(私の改作案ではちょっと説明調でしょうね)

 秋ふかくなるとの海のはや汐におちゆく月のよどむ瀬もがな

 実際の渦潮に月光がさすとどんなかしらん。

 雑の歌も印象に残りました。なにか、中古の人より私たちに近い感じがします。



 古今・新古今の展示    ..水垣    
      2005/10/31(月) 23:23  No.836
 
 
>招き猫様、皆様

古今集1100年、新古今集800年ということで、この秋は和歌の様々な催しがあるようですね。
私もなるたけ出掛けたいと思いますが、やはり時間を作り出すには幾つものことを調整し克服しなければならず…。

私の知り得た限りでは、京都国立博物館のほかに、次のような展示があります。

うたのちから 和歌の時代史
2005年10月18日(火)〜11月27日(日)
国立歴史民俗博物館
http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index97/index.html

うたのちから─古今集・新古今集の世界─
10月28日(金)〜11月18日(金)
国文学研究資料館2階展示室
http://www.nijl.ac.jp/~koen/renkei.htm

やまとうた一千年 −古今集から新古今集の名筆をたどる−
10月29日(土)〜11月27日(日)
五島美術館
http://www.gotoh-museum.or.jp/tenrankai/index.html

観覧なさった方、こちらの方でご報告頂ければ幸いです。



 能の「胡蝶」から、軽太子と軽大郎女は・・・    ..招き猫    
      2005/10/28(金) 01:05  No.834
 
 
 >水垣様 皆様
 ○△◇は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる・・・という感じで行き着きました。わかりづらいですね。

 すでにご存知かも知れませんが、11月23日(水・祝)から12月25日(日)まで、京都国立博物館で『古今集1100年 新古今集800年記念 和歌と美術』という催事があるとのこと。詳細ページのアドレスをペーストさせていただきます。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 見に行きたい(!)けれど、おそらく無理かも。
どなたかおいでになられる方がいらしたら、ご感想などお聞かせいただけたらと存じます。私も万が一行けたら、ご報告申し上げます。
 ホームページで展示内容をご覧の上、何か予備知識をお入れいただけましたら、これも幸甚です。「あわてて見に行かなくても大丈夫」といったご意見も含めて、お願い申し上げます。

 水垣様よりご教示いただいた『詠歌一体』を少しずつ読んでおります。このブログや千人万首で、水垣様、皆様よりさまざまにご教示いただけることが喜ばしいことはもとより、ここへ来て藤原爲家より教えを受けるようになるとは、よもや夢にも思いませんでした。和歌のすばらしさをお教え下さった方にも感謝、感謝です。



 万葉仮名について    ..yoko    
      2005/10/26(水) 22:09  No.833
 
 
 万葉集の表記法は、初期は「音」について感心の大きい表記を取っていたのではないか。
 それが段々と「読む」こと「視覚的に統一された表記」に移行して行ったのではないか。
 歌が詠じる事「詠むこと」から記録された物を読むこと「読むこと」に移行していった境目が、「大伴旅人」と「山上憶良」の活躍した5巻あたりの筑紫の地で歌を詠んだ集団にあったのではないかと考えています。「口踊文学」から「読む文学」への移行する分岐点が、ここにあったのではないかと、考えています。
 それは、彼ら(旅人、憶良)と同年代の人生を生きたであろうが、その活躍は、彼らよりもずっと早かった、「柿本人麻呂」の表記法を比べてみることによって、何か証明する事が出来るのではないかと考えています。

 この事について、ご意見や、何か教えていただける方はいらっしゃいませんか。



 RE:室の八島の歴史    ..水垣    
      2005/10/26(水) 22:06  No.832
 
 
>室の八島探索保存会様
色々と初めて知ることも多く、勉強になりました。
「野中に清水」云々の平安時代の史料は、「元永元年内大臣家歌合」の源俊頼判詞に「此室のやしま、実に火を焼くにはあらず、野中に清水のあるより気のたつが煙のごとくみゆるなり」とある件りですね。
「さまよえる歌枕」とは、まことに室の八島に相応しいキャッチフレーズだと思いました。



 石蕗    ..水垣    
      2005/10/26(水) 22:06  No.831
 
 
>紫草様
お花の写真と解説、ありがとうございます。
つややかな大きい葉、そこからしなやかに茎を伸ばして花をつける石蕗の風情がみごとに捉えられているものと感心致しました。蕾もゆかしいですね。
秋も終りが近づいていることを感じさせる花ですが、仰る通り「暖かい温もり」も感じ、冬へ向けて元気づけられるような気がします。

 石蕗の蕾ふつふつとあげくるに今年の秋とわかるる思ひ  長沢美津



 軽太子と軽大郎女    ..水垣    
      2005/10/26(水) 21:57  No.830
 
 
>招き猫様
能の「胡蝶」から、軽太子と軽大郎女の禁忌の愛を連想されたのでしょうか。

軽太子と軽大郎女の「許されない愛」は、日本書紀にも古事記にも見えますが、書記の方はまことに素っ気ない書きぶりです。対して古事記の方は二人への感情移入が強く、物語として、文学として、はるかに古事記の方がすぐれていると思います。
軽大郎女の二首、

 夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな 明かして通れ
 君が往き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ

の二首にしても、古事記にのみ見え、しかも妹の兄に対する思慕の強さを切々と伝えて、非常に効果的に使われていますね。
この二首は、溢れる思いを「ひとつの形」にし、古事記に書き留められたおかげで、「とこしへ」の作として私たちに残されました。



 室の八島の歴史    ..室の八島探索保存会    
      2005/10/23(日) 14:52  No.829
 
 
貴HPには常々お世話になり、心より感謝しております。
さて掲題の件ですが、その前にまず室の八島とは何か、本によって言っている事が皆ばらばらです。そこで私どもで調べましたところ、本来の室の八島は歌枕としてふさわしい場所であることが分かりました。そこで本来の室の八島とは何か、その後どのようにして現在の室の八島に至ったのか、すなわち室の八島の歴史につきまして以下に紹介させていただきます。(ただし和歌について書いた部分については自信ありません)


    絶えず立つ恋の煙 歌枕「室の八島」へのいざない

 知っているつもりで実は何一つ知らなかった室の八島の歴史の旅へ、これからあなたをご案内致します。

 室の八島とは、下野国府(現栃木県栃木市の国府地区一帯)付近にあったと考えられる下野国随一の歌枕で、平安時代以来「室の八島の煙」のように煙と結びつけて数多くの歌人に詠まれた名所です。そして江戸時代には俳人松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の最初に訪れています。

●平安室の八島−絶えず立つ恋の煙
 室の八島が下野国府付近のどこにあり、どんなところであったかは、詳しく記した史料がないのでよくわかりませんが、平安時代の史料に室の八島は「野中に清水のある」ところとの記述があり、これはまさに近年まで各所に湧水の見られた「巴波川低地」(うずまがわ−)の特徴そのものです。そこで室の八島とは、広義には、平地の湧き水を水源として栃木市街を貫流する巴波川の本流あるいは支流一帯にかつてあったと思われる広大な湿地帯・沼沢地、狭義には、そのどこかにあった景勝地ではないかと思われます。それは後世まで湿地帯・沼沢地の残っていた大宮地区か、それとも川原田・合戦場辺りか?なお「蔵の街」でおなじみの栃木市街は、当時室の八島の一部であったと推測されます。
 この平安室の八島は、1100年ころにははるばる京の都から見物に来るほどの場所でした。さぞ素晴らしい景勝地であったろうと想像されます。そこがどんな風景であったか、「室の八島」という名称、あるいは「下野国の野中に島あり」などの史料の記述をヒントにあなたなりに想像されてはいかがでしょうか。

 また室の八島は、由来がはっきりしませんが「煙立つ室の八島」「絶えず立つ室の八島の煙」のように煙と結びつけて和歌に詠まれ、初期の歌によれば室の八島の煙は「恋のしるし」−恋の思いが形となって現れたもの、恋の思いを伝える狼煙(のろし)−でした。当時の都人はまだ見ぬ室の八島に想いを馳せながら恋の歌を詠んだのです。あなたも一首いかがでしょうか、恋の歌を。

<下野や室の八島に立つ煙(けぶり)思ひありとも今日(けふ)こそは知れ>大江朝綱
<いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは>藤原実方
<かくばかり思ひ焦がれて年経(ふ)やと室の八島の煙にも問へ>狭衣物語
むろの八島見にまかりける人のさそひ侍りけるにさは(障)る事ありて申しつかはしける
<煙無き室の八島と思ひせば君がしるべ(導、標)に我ぞ立たまじ>藤原親朝

●中世室の八島−さすらいへの旅立ち
 その後室の八島は景観を失ったのか、平安時代も終わりの頃になりますと、室の八島と呼ばれていた場所の中心が下野国府に移動して、下野国府付近が室の八島と呼ばれるようになります。そして景勝地室の八島はかつて下野国府にあった場所と考えられるようになります。平治物語によれば、平治の乱(1159年)に際して、藤原成憲(成範)や源師仲(もろなか)が室の八島に流されますが、この室の八島とは下野国府のことです。

<夏くれば室の八島の里人もなほ蚊遣火や思ひ立つらむ>小侍従
<待てしばし煙の下にながらへて室の八島も人は住みけり>藤原隆祐
 下野国府が兵火によって焼かれたことがあるのかもしれません。

 その後下野国庁がその役目を終えて廃滅し、跡形もなくなりますと、国庁の付属物であった下野惣社の周辺が室の八島であると考えられるようになります。室町時代の1509年に連歌師の柴屋軒(さいおくけん)宗長が室の八島を訪れていますが、当時の室の八島は「誠に打見るより淋しく憐れな」風景でした。また江戸時代初期に近くを通りかかった公家・歌人の烏丸光広にとって、室の八島は「胸の煙も空せばき心地して、涙は水よりも流れぬ」ほど郷愁をそそる場所でした。

<跡もなき室の八島の夕煙なびくと見しや迷ひなるらむ>法印守遍
<あづま路の室のやしまの秋のいろはそれとも分かぬ夕烟哉>宗長

●近世室の八島・俳枕室の八島−宗教という迷路の奥へ
 その後室の八島に或る神道が関与してきます。元禄二年(1689年)に、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で訪れる最初の歌枕として室の八島を訪れますが、芭蕉の見た室の八島とは室の八島の大明神(下野惣社のこと)という神社でした。それは芭蕉が想像していた、あるいは期待していたものではありません。そのため「奥の細道」では室の八島の印象を一言も述べておりません。さて芭蕉が頭に描いていた室の八島とは、「野中に清水のある」ところか、それとも「誠に打見るより淋しく憐れな」風景か? 芭蕉も「涙は水よりも流れぬ」ほどの思いに浸りたかったことと思われます。
 ちょっと時代がずれてしまいましたが、芭蕉の訪れたかった場所を探し出し、芭蕉の果たせなかった夢を代わりにかなえてあげてはいかがでしょうか。

<糸遊に結びつきたる煙かな>松尾芭蕉

 そうして現代においては、かつて下野惣社であった現在の大神神社(おおみわじんじゃ)、あるいはその境内にある八つの島のある池、この池は中世室の八島の地に平安室の八島を想像して造られたものですが江戸時代には名所となっておりました、これらが歌枕室の八島であると広く信じられております。というより「奥の細道」ゆかりの場所として「俳枕室の八島」となっております。

 さて、さまよえる歌枕室の八島はこの後どこへ向かうのでしょう。平安の故郷に戻ることができるでしょうか?
                    2005年10月22日
                    文責 室の八島探索保存会
                        室の八島を故郷に戻す会



 石蕗 (つはぶき)    ..紫草    
      2005/10/22(土) 18:00  No.828
 
 
花 石蕗 (ツワブキ)
花入 民芸籠

庭の片隅にある石蕗の花が咲き始め黄色の花を床に挿してみました。
 花が次第に少なくなっていく初冬に,艶やかな葉とひときわ目立つしなやかな花を咲かせるツワブキ。この花は冬の到来を告げているようですが,寒さのなかでも暖かい温もりを感じませんか。
ツワプキの名前の由来は,フキに似た葉につやがあり「艶葉蕗(つはやぶき)」と呼ばれていたものから転じたといわれています   ツワブキは岩の間でもよく育ちますから「石蕗」ともよばれす。そのほか艶蕗(つやぶき),山蕗(やまぶき),石蕗(いしぶき)などの別名があります。

何故かこの花は難破した灯台の灯にあわされ(ランボー)の詩句にまた
室生犀星「叙情小曲集」難破した人々のためもうひとつの灯台の灯が出てくる

 寺の庭
         ッバ
つち澄みうるほひ 石蕗の花咲き あはれ知るわが育ちに 鐘の鳴る寺の庭

  わが庭の石蕗の花咲きそめてニ日晴れつつけふぞ曇れる
                         
                       斉藤 茂吉




 やまとうたblogより引っ越して続きを書かせていただきます。    ..招き猫    
      2005/10/22(土) 15:47  No.827
 
 
 やまとうたブログ・10月20日「秋の蝶」より、こちらにうかがいました。
 
君が往き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ(記)
 
 軽大郎女が千人万首にあることに気がつかずにおりましたが、先ほど発見いたしました。失礼いたしました。
 梅と胡蝶、軽太子と軽大郎女・・・、

思ほえどとどかぬことのありけるを夢にとどめてうたによみける(拙歌)

というのが、私は好きです。

思いにまかせて手を伸ばそうとすると、たくさんの「とこしへ」を壊すことがある。
・・でもそうはいっても、うちにこもりこもった思いが外に溢れる。
溢れるからこそ、思いがひとつの形になる。それが「とこしへ」となる。
溢れるものは美しくもあり、いとほしくもあり、
時にはいたましく、怒りを伴うこともあり、切なくつらいこともある。
中にはこうはなりたくない、と思うものもある。
怒りやつらさはそのままの形で「とこしへ」にしたくない。
自分の周囲に怒りや痛みがあったら、しんどくても共有できなくてもそこに共感し、いたわり合い、つらさを分かち合いたい。
 
 ことばですべてあらわそうとしても側面的ですね。ケースバイケースですし。

 古事記の解釈というのは、実にたくさんありますね。
 自負できるほどたくさんの解釈に触れたわけではありませんが、千人万首に記されているように、一方に『日本書紀』があるための混乱というのはあるように思います。ある書籍の中の軽太子の歌の解釈に、こんな私でさえ「素直によめば?」と進言したいものがあって、驚きます。でも本当のところは、誰も分からないというのが真実なのかもしれません。
 古事記に書かれている漢文そのままの解釈なのか、史実を論じているのか、古事記編纂の意図を論じているのか、あるいはそれをきちんと踏まえているかなど、かなり意識して解釈するべきなのでしょうね、日本書紀との関係も含めて。自分がどこにいるのかを明確にしないと混乱するのかもしれない、と思いました。
 
 軽太子と軽大郎女の兄妹の愛という悲劇は、愛を睦み合う悲劇で終わっているところが、下巻・允恭天皇の段たる所以だと感じています。しかし切ないなあ、この物語は。
 
 梅と胡蝶には、言い尽くせぬけなげさを感じております。来春の梅の季節が楽しみです。ありがとうございました。



 RE:折節の記 長月十三夜    ..水垣    
      2005/10/18(火) 22:28  No.826
 
 
山桜さん、初めまして。ようこそおいで下さいました。リンク通知もわざわざ有り難うございます。
今年は新暦十月十五日が長月十三夜でしたね。関東地方は生憎の天気で、「片見月」になってしまった方が多かったのではと思われます。

「和歌雑記」のコーナーを見て下さったのですね。「折節の記」はずっと以前に歳時記風に綴っていた日記からの抜萃なのですが、今はブログの方に引き継いだ形になっております。

お誕生日というめでたい日に当サイトに出遭われた由、当方も幸いに存じます。
こちらこそ今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。



 RE:三条西実隆の歌    ..水垣    
      2005/10/18(火) 22:26  No.825
 
 
大変面白く拝読しました。ちょうど今「千人万首」で三条西実隆に取りかかっているところです。

>全体の調べがしっとりしていて和歌の本道と思えます。

これは実隆の歌全般にあてはまる評言ではないかと思いました。

>かげふかき野べの千草に白妙の尾花ひとりやくれ残るらん

この「らん」については、おっしゃる通り、「尾花なのかどうかを推量しているのではない」ですね。疑問の助詞「や」が「ひとり」についているところから、「くれ残る」のは「尾花ひとり」かどうかを推量している、と取るのが、一応文法的には適切だということになると思います。しかしこれはまさに「理屈の定規を当てる」解釈になってしまうでしょう。

「影に深く浸された野辺で、様々な秋草はだんだん夕暮に包まれてゆく、その中で、尾花の穂はなおほの白く見える。これだけはもうしばらく闇に没さずに残っているだろうか」。
私がこの歌から受けた感じを、くだくだしく訳してみますと、そんな感じになります。



 RE:貴船菊 秋明菊    ..水垣    
      2005/10/18(火) 22:25  No.824
 
 
紫草様、秋明菊について詳しいご解説ありがとうございました。
赤紫のもなかなか可憐ですが、やはりこの花は白がいちばん美しく感じます。オレンジ色の雄蘂と黄緑色の雌蘂が白い花弁(実は萼)によく映えるので。
花は散りやすく、全部散ってしまうと、雌蘂が黄緑色の玉のようになって残ります。それがまた可愛らしいのです。
写真は鎌倉浄妙寺で撮影した淡紅色の秋明菊です。



 折節の記 長月十三夜     ..山桜 [URL]    
      2005/10/17(月) 12:06  No.823
 
 
初めまして、山桜と申します。
誕生日に、こちらのような素敵なサイトに廻り合えて幸せです。

何故長月は十五夜では無く十三夜を愛でるのだろう?と
疑問に思い調べているうちに、こちらで同じ思いを記されて
いらっしゃる先輩に廻り合い、感激致しました。

私の調べたようなことは全て網羅されていましたので、
私ブログに上記タイトルのページのURLを貼らせて戴きました。
リンクフリーとのことでしたので、事後報告で申し訳ありません
m(_ _)m

引き続き、色々な説を探して行きたいと思っております。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。



 三条西実隆の歌    ..逸爾散士    
      2005/10/16(日) 15:14  No.822
 
 
 ブログでご紹介いただいた三条西実隆の歌。
 夕薄
かげふかき野べの千草に白妙の尾花ひとりやくれ残るらん

 三条西実隆の歌にふれることもなく、あの時代の歌はどうせ擬古調のマンネリなものだろうとなんとなく思っていたので、その繊細さにちょっと感心しました。かなり感じ入ったことは、連綿と和歌の詞の美は続いてきたのだなあということです。
 夕暮れに薄の穂の白さが目立つという情景は、それほど斬新ではないかもしれません。「くれ残る」という措辞も面白いけど驚くほどの切れではないでしょう。でも何か、全体の調べがしっとりしていて和歌の本道と思えます。

 おぐらい野原に生える草ぐさのなかに、白い薄だけが暮れ残っているのだろう。

 と現代語に置き換えても難しいところはない。「くれ残る」というのも、そこだけ明るく夕ぐれらしくないとまで念入りに言わないでもなんとなく了解されます。
 
 なかなかいいな、と思うのは「くれ残る」は修辞の中心なのだろうけど、四句の「や」で一息いれて、あとはすーっと歌い収めるように静かに終わらせているところ。これは助動詞の意味にもよることで、「くれ残りけり」とか、ましてや「たり」なんて漢文訓読調の断定だったら、句勢が違ってくるでしょう。
 なにかと言葉を変えてみるわたしは、「おばなやひとり くれ残るらん」とか「おばなひとりぞ くれ残るらん」とか言い換えて試してみましたが、どうも感じが違ってくるようです。こういう差を、「調べ」の差ととりあえず言おうかなと思います。

 この「らん」という助動詞は、現代語訳にしても推量の意味になるのが妥当でしょうし、たしかに推量しているのですが、ただ、何を推量しているのかというのを考え出すと、ちょっと不思議。夕暮れであたりがよく見えないという景色なのですが、尾花なのかどうかを推量しているのではないですね。「暮れ残っている」ことを推量することになるのかなあ。依稀としてはっきりものが見えない景色全体のなかで、尾花だけが白く浮き立っているとすると「くれ残りけり」といってもいい感じ。その白さえも夕暮れの中で曖昧に浮かんでいる感じが、この「らん」で出ているのかな。それとも「くれ残る」という表現自体を推量しているのかな。と、あれこれ考えると、なんだかよくわからなくなります。でもその一方で、「くれ残るらん」という表現に納得して感じ入っている自分が一方にいる。
 学校時代から国語や古文で「この助動詞は推量」、「これは詠嘆の意」と教わって納得していたわけですが、ひるがえって「推量」ってなんだろう? 詠嘆の助動詞って口語にはないの? とちょっと「哲学」(というのかな)してしまいました。
 現代人の文法意識に従って古人が歌を詠んでいたわけではないので、理屈の定規を当てると隙間ができるものなのかもしれませんが、自分の既存の知識をあれこれ見直してみるのも楽しいところです。 



 貴船菊 秋明菊    ..紫草    
      2005/10/15(土) 16:43  No.821
 
 
貴船菊 秋明菊とも茶花としては「真」の花としても用いられ名残の風情を感じさせてくれてくれる気品のある美しい花です。
貴船菊(きぶねぎく)金鳳花(きんぽうげ)科/中国原産/多年草/淡紅 白色京都の貴船地方に多いことが由来です。昔、京の人が9月の重陽の節供に貴船の神をおがもうと鞍馬の奥に入ったとき、貴船神社の奥でこの花を発見したので貴船菊の名がついたとも伝えられています。別名秋明菊と言い、秋に菊に似た花を咲かせることからそう呼ばれています。漢名は「秋牡丹」です。△特徴:茎が長く、菊によく似た赤紫色の花と白色が咲きます。室町時代かそれ以前に中国から渡来し、寺院などで栽培されている間に逸出・野生化して全国に広がったものと考えられています。きぶねぎくが詠われた歌
「菊の香や垣の裾にも貴船菊」秋桜子



 RE:齋藤史歌文集    ..水垣    
      2005/10/15(土) 01:19  No.820
 
 
Graham様、こんばんは。
「齋藤史歌文集」早速入手されたとのこと。

仰る通り、エッセイは語り口が軽妙で読みやすいですね。動物好きな私はチャボや犬の話を大変楽しんで読みました。重い話題でもさらっと読んでしまえるところがありますね。もっとも、さすがに介護や家族の死の話になると、読んでいて辛くなりましたが。

歌の方は、歌題別に並べるという独特の編集法を採っています。時代順の撰集と併せてお読みになるとよいのでは、と思います。



 齋藤史歌文集    ..Graham    
      2005/10/13(木) 00:25  No.819
 
 
水垣様、こんばんわ。

早速「齋藤史歌文集」を通販で入手しました。
講談社文芸文庫で出てたんですね(汗

まだ歌の方はサラリとしか見ていないのですが、エッセイの方をぼちぼち読んでいます。
何と言うか…、すごい軽妙で驚いてしまいました。
「暴力の〜」の歌のイメージしかなかったのもあるのですが、もっと重たい感じなのかなと思っていました。
僕の母方の祖母がこういう軽妙さを持っていたので、何だか懐かしい気分になりました。
激動の時代を乗り越えてきたからこその軽妙さなのでしょうか?
あと、感銘を受けたのが、歌人や作家にありがちな難しい言葉遣いがあまり無くて、非常に読みやすいところです。
白洲正子さんにちょっと近い気取りのなさが素敵だと思いました。

この本を読み終わったら、又いろいろ探してみようと思います。

良い本をご紹介くださりまして感謝感激です。
ありがとうございました。

歌については又後日。



 RE:素純の歌    ..水垣    
      2005/10/13(木) 00:10  No.818
 
 
都々逸への詠み替え、面白いですね。この人の作風は和歌よりも都々逸に向いていたのかもしれない、と思えてきました。

> 山里は心づくしもなぐさみもひとつ木の間の秋の夜の月

第四句の「ひとつ」の使い方はちょっと不安定ですね。前の句とのつながりから、「…も…も一つ」の意に解するのが自然でしょうけれども、「ひとつ木の間の」で一句のまとまりですから、そうすると「一つの木の間」の意も兼ねると見るのが調べとしては自然です。しかし、木の間が一つしかないというのはおかしい。結局、「句割れ」を起こしていると見るのが理にかなっていることになります。

> 村時雨くもりみ晴れみ秋の日のうす花薄袖ほさぬころ

「村時雨」の「村」は意味からすると「叢」あるいは「群」と書く方が適当でしょうね。和歌の古写本では大概「むら時雨」「村時雨」のどちらかですが、「村」は一種の宛字と考えて宜しいと思います。
昔の人は助動詞の「けり」に「鳧」(鳥の名前)を宛てたり、無礙自在な宛字を使っていました。

> 重ねてもあかでやあけん独り寝に長かりし比の夜半のいくよを

「あかであけぬる」のご解説、なるほどと思いました。

素純は二条派の後継者の一人で、和歌史上に名を残した人ではありますが、技巧と調子の良さを重んずる二条派和歌の、もう「どんづまり」といった印象が拭えません。



 菊花開    ..水垣    
      2005/10/13(木) 00:09  No.817
 
 
紫草さんがお書き込み下さってからもう次の候に移り、「鴻雁来(こうがんきたる)」、そして今日13日からは「菊花開(きくのはなひらく)」になります。
一昨日は旧暦九月九日、重陽の節句でした(時間があればブログに書きたかったのですが)。
野原では嫁菜などの野菊が咲いていますし、「秋桜」の異称はあるものの見るからに菊の仲間であるコスモスも花盛りです。我が家の庭でも、妻の育てている西洋種の菊が花壇に咲きこぼれています。

写真は瑞泉寺の秋明菊(しゅうめいぎく)です。これは菊の名が付いているもののキンポウゲ科の植物です。大きさの異なる花びらが面白い。もっとも、花弁のように見えるのは実は萼とのことです。



 素純の歌    ..逸爾散士    
      2005/10/09(日) 23:37  No.816
 
 
 素純の歌は調子がいいですね。軽いけど。

 山里は心づくしもなぐさみもひとつ木の間の秋の夜の月

 この歌の「ひとつ」は前を受けるものかしらん。すると四句目は句割れかな。「ひとつ木の間」と続かせるのは変かもしれませんね。それなら「同じ木の間」というほうがいいから。

 木の間洩れくる 月影は
 心づくしか なぐさめか

と都都逸にしたくなる軽み。もっとも江戸後期には「心づくし」は古典和歌のような意味ではないかもしれませんが。


 村時雨くもりみ晴れみ秋の日のうす花薄袖ほさぬころ

 「うす花薄袖ほさぬころ」を、薄を袖に見立てたと鑑賞しないで切り離すと、「村時雨」「くもりみ晴れみ」「秋の日のうす花薄」「袖ほさぬ頃」と羅列した感じにとれます。初句と二句は関わるけど。スピード感はあるけど感興が薄いよう。
 村時雨の「村」は「村雨」の「村」と同じでしょうが、「雪のむら消え」などの「むら」のように「まだら」に近い意味でしょうか。こういう字遣いをしたとき、「村」の字に村邑の意味はあるのでしょうか。
 参考歌の正徹の歌の「村霞」という字は見なれない。こういう「村」はむら雲の村で「群」とか「叢」の意味に通じていると考えればいいでしょうか。現代人のほうが漢字の意味にこだわって「当て字」に違和感を感じるのかな。


 重ねてもあかでやあけん独り寝に長かりし比の夜半のいくよを
 
 判詞の言うように、「長かりし此の」の「此の」は耳に立つ言葉だけど実感もでますね。

 独り寝の長かる夜を重ねてもあかであけぬる後朝なるらむ
 
 (下の句、調べわろし)の順だと、なんか変ですねえ。「重ねても」で意味が重層、展開していかない。
 「あかであけぬる」は「飽く」と「明く」が掛詞にならない(四段活用と下一段活用で語形が違ってくる)のを逆利用して頭韻でリズムを刻んだのでしょう。

 主と寝たとて 独りとて
 あかであけぬる 夜夜の恋

 やたら都都逸にしやすいのが素純の特徴かな。(違うか)
 でも新古今時代から素純と、素純から談林俳諧の時代と比べて、後者のほうが短いと考えれば、彼の歌の調子の軽快さにかすかな俗味がともなっていても不思議はないとも思えます。
 いや、やっぱり鑑賞者たるわたしの俗味の反映かな。 



 寒露に寄せて    ..紫草    
      2005/10/08(土) 00:16  No.815
 
 
おとこようぞめ(スイカズラ科)


庭にある(おとこようぞめ)の実が色付き始め晩秋の訪れですよと告げております。
秋の陽はつるべ落とし、と言いますが陽が落ちるのが早くなりました。       
日中は心地よかったのに日が沈むと急に寒くなり、秋の深まりを感じさせます。
今日は二十四節季の「寒露」。野草に宿る冷たい露のことで、七十二候によると                        三候に分割され「鴻雁来」(こうがんきたる)「菊花開」(きくのはなひらく)       
「蟋蟀在戸」(きりぎりすとにあり)と五日ごとに表現されている。         
今は余り使われなくなつたが昔は農家の暦であり五穀の収穫も、また人々の     
生活も自然と共に在り、これらが表記されたのであろう万葉の歌を始めこれらをもとに自然と共生したのではないのでしょうか。  庭の草木も実を付け、梅擬・紫式部・錦木・夏はぜ・おとこようぞめ・等、彩りを添え、行く秋を惜しむかのように感じさせてくれます。
これ等の実もつかのまで小鳥達がやってきて啄ばみ知らぬ間に消えてしまう。
晩秋の夕暮れになると「三夕の和歌」を想い出しいざなわれて行く。

寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ   寂連 
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ   西行

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    定家



 齋藤史の歌集    ..水垣    
      2005/10/06(木) 23:31  No.814
 
 
紀伊国屋書店BOOKWEBで検索してみたところ、「ベスト的な歌集」としましては、

齋藤史歌文集(講談社文芸文庫 )
斎藤史 /講談社 2001/09出版 264p 15cm ISBN:406198277X \1,260(税込)

齋藤史歌集(不識文庫 ) 齋藤史自選 (改訂版)
斎藤史 /不識書院 2001/05出版 414p 15cm ISBN:4938289474 \2,100(税込)

の二冊が現時点で僅少ながら在庫ありとのことです。
前者を私は持っておりますが、およそ五百首の秀歌を歌題別に編集したアンソロジーと、いくつかのエッセイを集めた本で、齋藤史入門書として絶好ではないかと思います。
後者は未見ですが、たぶん歌の数はこちらの方が多いのでは。



 うっかり者で(笑    ..Graham    
      2005/10/05(水) 22:40  No.813
 
 
>良経・齋藤史
ご指摘ありがとうございました。
ちゃんと変換したつもりでいました。
よく見ないといけませんね(汗

齋藤史さんの歌集、現在はあまり入手しやすい状況ではないようですね。
まずはベスト的な歌集をと考えていたのですが、かえってそういうのが無いみたいで(汗
とりあえず今度図書館で探してみようと思っています。
オススメの本があったら、ぜひご教授下さい。

その深いソウルと淡い優しさの同居、ちょっと式子内親王に近い極端な美しさを感じます。



 RE:お久しぶりです    ..水垣    
      2005/10/04(火) 22:11  No.812
 
 
古事記の現代語訳を始められたとのこと。特に人名など、難しい漢字が多くて、大変ですね。

難しい漢字の出し方ですが、私はユニコード(Unicode)という文字規格を利用している場合があります。例えば、持統天皇の本名「う野讃良」の「う」の字は通常の日本語漢字コードでは表示できないのですが、ユニコードを使いますと、

鸕野讃良

お使いのマシンやブラウザ等がUnicodeに対応している場合、「う」の字が正しい漢字で表示されていると思います。
ややこしい話ですので、詳しくは下記サイト様を参照下さいませ。

「HTMLで難しい漢字を表示させる」
http://members3.jcom.home.ne.jp/ta-higu/memo/kanji_code.html

ほかにも「今昔文字鏡」を利用するなど、いくつか方法はあるようです。

http://www.mojikyo.org/html/index.html



 RE:白花杜鵑草    ..水垣    
      2005/10/04(火) 22:08  No.811
 
 
杜鵑草は深山の気を感じさせる花で、曰く言い難い味わい深さがありますね。鳥のほととぎすの名を借りたのも何となく分かる気はします。
白花杜鵑草は初めて見ました。

生け花は門外漢の外ですが、白花杜鵑草と紅水引草、素晴らしいと思います。それぞれが魂を交感しあっているような、そんな感じで拝見しました。

杜鵑草は鎌倉のお寺でもしばしば見かけます。写真は長谷の光則寺にて。



 >紀州の姫様    ..水垣    
      2005/10/04(火) 22:06  No.810
 
 
良い言葉を教えて頂きました。いまだ十分理解できてはおりませんけれども…。
管理人は頼りなくて申し分けありませんが、また何か疑問等ありましたらお気軽にどうぞ。



 RE:良経・宮内卿・そして斎藤 史    ..水垣    
      2005/10/04(火) 22:05  No.809
 
 
良経・式子内親王、二人とも高貴の出で、重い宿命を背負わざるを得なかった生れですね。いずれも若くして「達観」するところはあったでしょうが、おっしゃる通り、歌にはそれぞれの至り着いた境地が偲ばれるような気がします。

>「こけむしろ」は「敷く」に掛かるとのことで

なるほど。苔の生えた地面を莚に喩えると同時に「敷き」を導き出しているわけですね。
「枕詞の数珠繋ぎ」とは言えています。実験的な、そして遊び心に溢れる歌だと思います。

なお、良径とお書きになっているのは良「経」が正しく、齋藤史は略字ですと「斉」藤史でなく「斎」藤史になります。



 お久しぶりです    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/10/03(月) 09:26  No.808
 
 
最近、「古事記」の現代語訳(分かりやすくをモットーに)
を追加してしまいました。
更新のペースはガタ落ちしてしまいますが、古事記の内容って…
興味深いので、『古典は・・・』と引いてしまう方にも楽しく
読んでもらいたいなぁ・・・などと思いついてしまったもので。
(そうすると、やらないと気が済まない性格でして…笑)

PCで、漢字がどうしても出せないのはどうされているのでしょうか?
どうにも無い漢字は仕方ないので、フォトショップで作ってるのですが・・・ちょっと、面倒くさいです。
島根県大学漢字フォントと言う所でも、探すのですけど・・・
万葉集の原文も入れてるので、一々作るのは…

何か良い方法や役立つサイトなどご存知でしたら宜しくお願い致します。



 白花杜鵑草 紅水引草    ..紫草    
      2005/10/02(日) 17:12  No.807
 
 
花 しろほととぎす べにみずひきそう
器 古備前角壷

庭に植えてある白花杜鵑草が咲きだしましたので手折り床に生けて
見ました。神無月に入り惜秋になるのでしょうか、今 庭には三種
の杜鵑草が咲き乱れ秋の風情を感じさせてくれます。前ページに咲きだしました。の写真を掲載致しましたが、一輪を手折り生けたのと比較いたしますと、花の美しさが違って参ります。花を生けるとは花に命と魂を入れ花の持っている美しさを際立てるものなのですね。 花を生けるのが未熟でご容赦の程を願います。   



 白花杜鵑草 (シロハナホトトギス)    ..紫草    
      2005/10/02(日) 13:34  No.804
 
 
杜鵑草(ほととぎす)という鳥と同じ名を付けられて良かったのか、悪かったのか。名前は色々あり、時鳥、子規、不如帰、蜀魂、杜宇、漢名には16種の別名があり混迷させられる。「きばなほととぎす」「たまがはほととぎす」「やまほととぎす」等の種類あり
この草の名は鳥の名に紛らはしいので季語にはないらしい。
ほととぎすという名の由来は、花の紫斑があの鳥の胸毛にうかぶ黒い横縞に似ている所にあるらしい。
次の短歌、吉野秀雄。作 見なれぬ「花油点草」(はなほととぎす)の字が当ててある。
 
  堀りてもつ花油点草秋の陽に根土乾くをやさしとおもふ



 有難う御座いました    ..紀州の姫    
      2005/10/01(土) 09:05  No.803
 
 
水垣さま

>読み下すとしましたら「高山流水、知音を貴ぶ」でしょうか。

意味から考えますと、この読み方が一番耳に馴染みますね。禅語の読み方にしましても一つに決まっている訳でなく多少の違いはあるようですね。
ただ、「こうざんりゅうすいきちいん」と読んでしまえば、ちょっと恥ずかしいですが・・。(^^ゞ 恥をかきつつ、学ばせて頂いております。

また、「高山流水」とは自然の風景ぐらいしか思っていなかったもので、音楽にまつわる深い意味があったことには正直驚きでもありました。

そして、それが紫草さまの追伸にありましたように、『琴を前に斧を持つ伯芽』として祇園祭りの鉾の一つでも有る事も初めて知りました。

水垣さまのサイトには、本当に色々な事を学ばせて頂いております。
有難う御座いました。m(__)m



 良径・宮内卿・そして斉藤 史    ..Graham    
      2005/10/01(土) 00:37  No.802
 
 
水垣様、こんばんわ。
お返事ありがとうございます。

>美しさで群を抜いているという
全く同感です。
式子内親王などと比べても、非常にさらりとした手触りを感じます。
良径も式子内親王も、「セ・ラ・ヴィ(人生とはそんなもの)」を誰よりも身をもって感じた歌人だと思いますが、その達観の仕方の違いが歌にもはっきりでているのは非常に興味深いですね。

>見ぬ人を まつのこかげの こけむしろ なほしきしまや やまとなでしこ

僕も調べてみたのですが、「こけむしろ」は「敷く」に掛かるとのことで、なんとまあ枕詞の数珠繋ぎのような歌ですね。
「しきしま」は「和歌」のような意味もあるそうで、それも計算に入っているとすると、自分自身のことも歌っているのかもしれないですね。
トリプルミーニングとは(笑
ともあれ、今の段階でいちばんのお気に入りの歌です。

>暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

最後に、ブログを見させていただいたのですが、斉藤 史のこの歌には心を打たれました。
ちょっと歌集を探してじっくり見てみようと思います。
和歌(短歌)ってすごいなあと、つくづく思いました。

それでは、おやすみなさい。



 「高山流水貴知音」    ..水垣    
      2005/09/30(金) 23:53  No.801
 
 
>紀州の姫様

読み方はおっしゃる通りだと思いますが、読み下すとしましたら「高山流水、知音を貴ぶ」でしょうか。あるいは「高山流水、貴し知音」か「高山流水、貴き知音」?

列子湯問篇の故事は今回初めて読み噛りましたが、なかなか良い話だなあと思いました。音楽をやっておられる紀州の姫様でしたら、ことに深くお感じになるところがおありなのでは。

大してお役に立てませず恐縮です。

>紫草様

詳しいご教示をまことに有り難うございました。署名は「紫野伝衣」なのですね。私にはとても読めませんでしたので、大変助かりました。

それにしましてもこの掲示板は意外と様々な分野の方が見て下さっているようで、今回もまた心強い思いを致しました。



 追伸 紀州の姫さま    ..紫草    
      2005/09/30(金) 22:14  No.800
 
 
祇園祭の鉾に関連があるようですネツトで伯芽を開きましたら下記のようです、お知らせまでに。

伯芽山. 別名琴破山。中国の周の時代琴の名人伯芽が親友鐘子期の死を聞いて嘆き琴
を割ったと言う故事による。琴を前に斧を持つ伯芽をかたどっている。



 紫草さまへ    ..紀州の姫    
      2005/09/30(金) 20:58  No.799
 
 
今、書き込み送信致しましたら、紫草さまからもご教示頂いていました事に気が付きました。送信するまで気が付かず申し訳御座いませんでした。

>署名を見ますと大徳寺禅僧488世 全提要宗 伝衣(丸山伝衣)
の書による者とおもはれます。(裏千家十四世の禅僧)

軸の署名もお読みになれるのですね!
私は先ほど『添付しました軸は“紫野第488世伝衣書”となっています。』と書き込み致しましたが、私には全く読む事は出来ず、これはそのように教えて頂いていたのです。伝衣老僧に付いては調べきれていませんでした。
お蔭様で丸山伝衣(裏千家十四世の禅僧)という事が解かりました。

この僧から速水流の3代前の宗青と言われる女家元が得度を受けている・・、という話は聞いております。
由緒あるお寺にて拝見しました軸で御座います。

ご教示頂きました事、大変感謝しております。有難う御座いました。



 RE:高山流水…    ..紀州の姫    
      2005/09/30(金) 20:16  No.798
 
 
水垣さま
早速に有難う御座いました。
「高山流水貴知音」(こうざんりゅうすいきちいん)と読むのでしょうか?

>「高山流水」「知音」いずれも列子湯問篇に由来する語で、

このようにお教え頂き、私も少し調べてみましたら、
水の四字熟語に、
【「高山流水」とは、 すばらしくりっぱな音楽演奏のこと。また、自分の作曲を真に鑑賞し理解してくれる人には、仲々めぐり会えぬ意味もある。 春秋時代の琴の名人伯牙(はくが)と評論家鐘子期という契友は、伯牙が弾ずると鐘子期は高くそびえる高山のようだとか、 洋々と流れる水の情景がみえる、と賞賛する。しかし、鐘子期が死ぬと伯牙は愛用の琴を壊し絃を切って、生涯弾ずることがなかった。 「伯牙絶弦」という。真の友人知己を持つことの重大さを教えた故事。】

と、ありました。

>真の理解者である友は得難く貴重である、といったような話のようです。

お蔭様で良く理解出来ました。
いつも調べて頂き本当に感謝で御座います。m(__)m
添付しました軸は“紫野第488世伝衣書”となっています。



 RE:高山流水    ..紫草    
      2005/09/30(金) 18:50  No.797
 
 
署名を見ますと大徳寺禅僧488世 全提要宗 伝衣(丸山伝衣)
の書による者とおもはれます。(裏千家十四世の禅僧)

高山流水とは漢詩に、音楽の微妙なる形容。列、湯門「伯芽善鼓v琴、鍾子期善聴、伯芽鼓v琴、志在=高山子期日、善哉、峩峩分若=泰山,
-志在=流水,-子期日、善哉、洋々分若=江河,_伯芽所v念、子期必得v之」この故事によりて知音 知己の義に用ふ。
と在りますので、高山流水貴知音で宜しいのではないでしょうか。

尚・禅僧の場合その時々の心境を書に認める場合がありますので   草字体が変ることが多いようです。





 高山流水…    ..水垣    
      2005/09/30(金) 00:23  No.796
 
 
紀州の姫様

漢字となりますともう私はお手上げなのですが、「草書の事典」などで引き合わせて見ますと、おっしゃる「高山流水貴知音」でよろしいのでは、とも思われました。
「高山流水」「知音」いずれも列子湯問篇に由来する語で、真の理解者である友は得難く貴重である、といったような話のようです。
お判りになる方、お書き込み頂ければ幸いです。

ブログにもお付合い下さってこちらこそ有り難うございます。



 良経、宮内卿    ..水垣    
      2005/09/30(金) 00:22  No.795
 
 
Graham様、こんばんは。

良経の歌は調べの美しさで群を抜いているという印象があります。流麗な作としては、

 いく夜われなみにしをれてきぶね川袖に玉ちるもの思ふらむ

なども私は思い出します。

宮内卿の

>見ぬ人を まつのこかげの こけむしろ なほしきしまや やまとなでしこ

これは見逃していましたが、ユニークで愛らしい歌ですね。恋歌かなと読み始めると、実は松の木陰の苔生した地面に咲く撫子を詠んだ夏歌。「見ぬ人を」は「待つ」から「松」を起こす枕詞で、「しきしまや」は「やまと」の枕詞。「なほしきしまや」と、枕詞を七音の句に入れてしまうのも非常に珍しいやり方です。

「宮内卿」の名の由来は私も存じません。親族に宮内卿に就任した人がいたと考えるのが普通でしょうが、それらしい人も思い当たらず…。



 夕顔の歌    ..水垣    
      2005/09/30(金) 00:20  No.794
 
 
源氏物語の夕顔との出逢いの場面は、和歌ではことに好まれました。『続古今集』の小侍従の歌に

 さきにけり遠方人(をちかたびと)にこととひて名をしりそめし夕がほの花
(通釈:咲いたなあ、夕顔の花が。遠くを行く人に「これは何の花ですか」と訊いて、初めて名を知った、その花が。)

というのがあって私の好きな歌なのですが、これは源氏物語夕顔の冒頭近く、

 切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、
 白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる。
 <源氏>「をちかた人にもの申す」
 と、ひとりごちたまふを、御随身ついゐて、
 <随身>「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は
 人めきて、かうあやしき垣根になん咲きはべりける」
 と、申す。

とある場面の所謂「本説取り」です。源氏の嘯く「をちかた人にもの申す」はまた、古今集の読人不知の旋頭歌、

 うちわたすをち方人に物申す我 そのそこに白く咲けるは何の花ぞも

に由来します。



 お尋ねしたいのですが・・    ..紀州の姫    
      2005/09/29(木) 10:56  No.793
 
 
水垣さま
またまた厚かましいお願いでは御座いますが、軸の書についてお読み下しをお願いしたく添付させて頂きました。
この軸に付き、「高山流水〇致音」とも「高山流水貴知音」とも読んでみたり・・・。

以前、こちらで書の先生方にもお教え頂きました事があり(その節は本当に有難う御座いました)、また当てにしているわけでは有りませんが(いえ、本当は当てにしているのですが・・・(^^ゞ)、もしお解かりになるようでしたら宜しくお願い致します。


ブログで萩の最終編を拝見致しました。
そして、今年ほどじっくりと萩を眺めた事はありませんでした。
実家の庭の白萩だって今までは「今年も咲いたわね・・」で、深く気にも止めませんでしたが、今年は風に揺れ動く様子やこぼれ落ちる様子など飽きずにジッと眺めたものです。また萩の種類についても知る事が出来ましたし、歌も(特に萩と鹿の歌など珍しくて)楽しませて頂きました。有難う御座いました。m(__)m



 お久しぶりです    ..Graham    
      2005/09/28(水) 00:18  No.792
 
 
皆様、こんばんわ。
ちょっと久しぶりの書き込みになってしまいました。

ここ最近、首と肩の調子が悪くて、PCはざっと見る程度にとどめ、もっぱら件の「日本歌人講座 中世の歌人T・U」をぼちぼち読んでいました。
かなり専門的な本なので、僕には正直難しいのですが、それでも各歌人について丁寧にまとめられているので重宝しています。
メインは宮内卿なのですが、やはり同時代の歌人のこともある程度は知っておきたいですし、そういう意味でも大変勉強になります。

個人的には良径の流麗な歌にはよく感動させられます。
下記の歌のセンスには一目ぼれするものがあります。
いささか季節外れですが(笑

よしの野山このめもはるの雪きえてまたふるたびは桜なりけり

このわかりやすさの中に、さり気に新古今的なセンスが織り込ませる。
家隆もちょっと近い感じですが、良径のほうが流麗ですね。


宮内卿の歌は、何とも言えないユニークな表現が多く、当時の歌壇の中では前衛的な存在だったのでしょうね。
良径もそうですが、もっと長生きしてくれてたら、もっと僕らを驚かせたり感動させてくれたのではないでしょうか?

最後に、千五百番歌合の中で見つけたお気に入りの歌を。
枕詞で織り綴ってあって、僕あたりでははっきり解釈はできませんが、彼女の意気込みが愛らしく感じます。

見ぬ人を まつのこかげの こけむしろ なほしきしまや やまとなでしこ

追伸:そう言えば、「宮内卿」って言う名前はどこから取られているんでしょうか? 通常、女房の名前は父親などの血縁の地位や「○○守」などから取られる事が多いようですが、彼女の場合、良くわかりません。どなたかご存知の方いらっしゃいませんでしょうか?




 夕顔の花    ..紫草    
      2005/09/22(木) 13:08  No.791
 
 
夕方、辺りがほの暗くなり始めると、白い夕顔の花が、咲き出しました。暗闇で見る純白の花は妖艶な姿を忍ばせており「源氏物語」夕顔の巻を思い出します。(与謝野昌子訳)                                      
 先刻夕顔の花の載せられてきた扇を見た。よく使いこんであって、よい薫物(たきもの)の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。(夕顔の歌)
  
  心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花 

光源氏の認めた返歌 懐紙(ふところがみ)に、別人のような字体で書いた。
  
  寄りてこそそれかとも見め黄昏(たそが)れにほのぼの見つる花の夕顔
(中略)この二首を取り交わしながら二人の中は親密になってゆく    そして夕顔の歌
  
  「山の端の心も知らで行く月は上の空にて影や絶えなむ」 

(訳・(消えて欲しくないと願う心も知らずに沈みゆく月は、沈みきらぬ中空で光を失ってしまう事でしょう)と歌を吟じます。

光源氏は一人の女と恋に落ちます。が、中秋の名月の翌日、荒れ果てた某の院で二人きりで過ごした夜、女は魔性の物の怪に取り付かれ、儚く生命を落してしまいます。 (以下省略)     

(今、庭で栽培されている夕顔は、ヨルガオと呼ばれる、明治以降の外来種。本来の夕顔は瓢のことで、干瓢の原料であり瓢箪がその変種にあたります。)夏の夜、地味な花を咲かせる野趣ある草花です。                     





 月の鏡    ..水垣    
      2005/09/20(火) 21:29  No.790
 
 
月の光の神秘的な力は、現代の我々も惹き付けてやみませんね。

 くまもなき鏡とみゆる月かげに心うつらぬ人はあらじな(藤原長実 金葉集)

古人は「月の鏡」におのれの心を映し、また恋人の面ざしを映し、あるいは亡き人の懐かしい面影を映し……。釈教歌では悟りや仏の象徴ともなりますし、月が古人にとってどれほど深い敬愛の対象だったか、和歌は雄弁に語ってくれます。

 月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ(法然 続千載集)



 RE:「かな」    ..水垣    
      2005/09/20(火) 21:27  No.789
 
 
> 兼載の掲出歌。五首のうち三首が「かな」で終わっていますが、全体にも最後に「かな」がくる歌が多いのでしょうか。

兼載の家集『閑塵集』をざっと調べてみますと、372首中57首が「かな」止めでした。約15%で、かなり高率と見てよいのではないでしょうか。
二条派、特に頓阿あたり「かな」止めが多い印象がありましたが、兼載まで来るとちょっとマンネリ化を感じざるを得ません。

>「かすみつつ…」の歌。面白い発見なんだけど少し理に落ちた感じもします。水面に雨粒のが落ちるさまをもう少し描写したい。

写真や映画の精密な映像表現に目が慣れている現代人からは、やはり「こまかにそそく」では何とも飽き足らないですね。言語ならではの微妙な表現力を発揮してほしくなります。とは言え、「空に見えず水面に見える」という趣向は、当時としてそれなりに新しく気の利いたものであったろうとは思います。

>しほりけり契りもふかき夜の雨にかへりし君の袖を思へば

このご改作、「ふかき」の掛詞によって陰翳が深くなっているように感じました。



 無題    ..紫草    
      2005/09/19(月) 00:30  No.788
 
 
昔の人は、満月をいかに喜び、尊び、また神秘に思ったことだろう。望月に手を合わせて拝んだ私の記憶もそんな昔の事ではないように思う

 月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月

月の鏡と言い、物を映すかのように澄んでいる、まんまるい、明るい光はあらゆる想像逞しくしてくれる。

月見ればちぢにものこそかなしけれ我が身ひとつのあきにはあらねど



 「かな」     ..逸爾散士    
      2005/09/18(日) 23:06  No.787
 
 
 兼載の掲出歌。五首のうち三首が「かな」で終わっていますが、全体にも最後に「かな」がくる歌が多いのでしょうか。
 それぞれ新しい発見を歌にしていると思いますが「水の面かな」「月の影かな」と収束しているところ、不思議と散文的に思えます。学校では「かな」は感動をこめる助動詞のように習うけど、調べがともなわないとそこで感動が凝縮しない。かえって指定の助動詞みたいに感じます。

 「かすみつつ…」の歌。面白い発見なんだけど少し理に落ちた感じもします。水面に雨粒のが落ちるさまをもう少し描写したい。
 「日をふれば…」の歌はなかなか(このなかなかは現代語の意味です)スケールが大きい。
 「萩の葉を」の歌は中世和歌らしい冷えさびた感じと体言止め。
「たて残す…」の歌も「ひとすじうつる」がちょっと説明的みたいだけど情景が浮かぶからいい歌ですね。 
 最後の後朝の歌、
 ふかき夜の雨にかへりし君ゆゑに残る袖までしほれつるかな
 は、「雨にかへりし君ゆへ」のところになんかぎくしゃく感を感じました。
 しほりけり契りもふかき夜の雨にかへりし君の袖を思へば
 初句切れで自分の袖が濡れた(泣いた)と言い切って、「ふかき」を契りと夜の両方に懸けて、「君の袖」で初句も袖だとわかるようにしてみました。「しほるらん」では、初句で切った意味がないでしょうね。相手の袖を思いやるだけではつまらない。

 読んだ範囲では、兼載の歌は調べに「弾み」が乏しい感じです。もたもたぎくしゃくというのではないのだけれど…。目の付け所は面白く(数寄?)、言葉も工夫(器用?)されています。ブログのご説明になるほどと思いました。




 RE:萩の寺    ..水垣    
      2005/09/17(土) 13:20  No.786
 
 
紀州の姫様
由緒ある「萩の寺」が大阪にあったのですね。
調べてみますと、行基の開創で、萩にまつわる行基ゆかりの伝説も知ることができました。俳人とも縁が深いようで、興味を惹かれました。

お写真から気持の良い散策を楽しまれたことがうかがわれます。
今年は残暑が続いているせいか、萩の開花がやや遅れているのでしょうか。
鎌倉でも開花の状況はまちまちで、満開もあれば、五分咲き程度もあり、といった様子です。

花盛りはもちろんですが、風にはらはら散るのも趣があって良いですね。ブログの萩シリーズは終りにするつもりでしたが、散り際の萩の写真が撮れたら、また取り上げてみようかと思います。萩の散ったのを惜しむ、好きな歌が二首あるのです。

 萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ(源実朝)
 昨日まで盛りをみんと思ひつる萩の花ちれり今日の嵐に(田安宗武)



 花薄・尾花    ..水垣    
      2005/09/17(土) 13:18  No.785
 
 
薄が穂を出し始めると、いよいよ秋も半ばを過ぎようかと覚えます。

>人皆は萩を秋と云ふよし我は尾花が末を秋とは言はむ

「末」のよみは「うれ」と「すゑ」と両説あるようです。
萩より尾花を良しとする美意識、まことに後世の幽玄を先取りするかのような感性です(萩が幽玄にふさわしくないということではありませんが)。

私は王朝和歌より花薄・尾花を詠んだ歌をそれぞれ一首ずつピックアップしてみました。

  秋夕を   遊義門院
花すすき穂ずゑにうつる夕日影うすきぞ秋のふかき色なる(玉葉816)

【通釈】薄の穂末に反映する夕日は淡い――その薄い色こそが、秋も深まったしるしなのだ。

  月前草花を   花園院御製
風になびく尾花が末にかげろひて月とほくなる有明の庭(風雅634)

【通釈】明け方の庭を眺めれば、風に靡く薄の穂の先に月の光がほのめいて、やがて有明の月は遠ざかり沈んでゆくのだ。



  萩の寺    ..紀州の姫    
      2005/09/15(木) 23:00  No.784
 
 
水垣さま
山萩、江戸絞り、宮城野萩、白萩と拝見している内に、私も“萩の寺”に出かけたくなってしまいました。
かといって、遠くまで行く時間は無し・・・。そう思いながら少し調べてみましたら、何と!近く(車だと15分の所)に“東光院 萩の寺”があったのです。
ウン十年この地に住みながら、全く知りませんでした。(^^ゞ
萩シリーズのお陰です。で、早速出かけてみました。

写真は山門近くの萩ですが、境内の萩は全体としましてはまだまだこれからのようでした。
「正岡子規の句碑」もあり、ここだけは見事な白萩が咲いておりました。
石碑には萩を好んだ子規の句『ほろほろと石にこぼれぬ萩の露』が彫られていましたが、白萩に覆われていて覗き込まないとなかなか読めませんでした。
境内には「萩露園」があり、ここも盛りはこれからでしたが、咲き揃うと見事であろう萩の花を見たくもう一度訪ねたいと思っています。

詣り来て袖ぬらしけり萩の寺花野にあまる露の恵みに(曹洞宗東光院の御詠歌です)

ブログやゲストブックでの花や歌を楽しませて頂いております、と言いますか、本当に勉強させて頂いております。



 薄 (すすき)    ..紫草    
      2005/09/14(水) 21:26  No.783
 
 
裏の雑木林の一隅にすすきの株があり、秋ですよと知らせるように穂が出始めました

  人皆は萩を秋と云ふよし我は尾花がうれ末を秋とは言はむ

林の間から零れる夕日をあびて輝く薄の穂の景色は正に「尾花が末を秋とは言はむ」と絶讃したくなる眺めです。昔から歌に詠まれ今日でも沢山見かける、糸すすき、はたすすき、しのすすき、はなすすき、ますほのすすき、等々、薄を形容する言葉、美術工芸品に至るまで、日本人が、なよやかな姿を愛し、琳派に代表される尾形光琳、本阿弥光悦、乾山、の焼き物、蒔絵、織物、に描かれ繊細な美意識の根元をなしているのではないでしょうか。

地謡の一章 心の秋の花薄、穂に出で初めし契りとて、また離れが
れの仲となりて、
シテ    昔は物を思はざりし
地謡    後の心ぞ、果てしもなき。

薄は人の心の深淵まで描き出し幽玄の世界にまで伝播されたのですね!!!。





 RE:白花はぎ    ..水垣    
      2005/09/13(火) 00:46  No.782
 
 
>紫草様
ブログの記事を早速御覧頂きありがとうございます。
御宅の白萩、みごとに咲いておりますね。それにしましてもむさ苦しい我が家の庭とは何という違いでしょうか(^_^;

憶良は本当に良い歌を残してくれたものです。秋の風情を味わうための、最良の贈り物のような歌。「七」という数字のめでたさまで籠めてくれたのですね。

憶良の歌でも筆頭は萩ですが、秋という豊饒の季節のシンボルとして、また恋の風情薫る花として、万葉人はなんとこの花を愛したことか。引用された歌からもよく分かります。



 白花はぎ    ..紫草    
      2005/09/12(月) 23:29  No.781
 
 

>水垣様 江戸絞り拝見いたしました、紅白の交じり合った可愛らしい萩ですね始めて見ました、咲いている風情と歌が適合しお気持ちが伝わってまいります。
写真は今日の拙庭の砌の萩です、こぼれるように開きだしました。この季節になると秋の七草という、山上億良の歌を思い出してなりません。
秋の野に咲きたる花を指折り かき数ふれば七草の花

萩の花尾花葛花なでしこの花 女郎花また藤袴朝顔の花
秋の野に咲いている。萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、 ふじばかま、あさがお、の順に歌っている。          なぜ七という数にこだわったかと言うと、たぶん億良が中国の陰陽道と、仏教の思想に通じていたからで其れはめでたい数を表していた。のちの七福神、七不思議、お七夜の類である。
なを七草は全て薬用にも供している。「万葉歌」には百四十一首も萩が歌われ一番愛されたのでしょう、三首を拾ってみました。
  
  秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に

  恋しくは形見にせよとわが背子が植ゑし秋萩花咲きにけり

  わが屋前に咲ける秋萩常にあらばわが待つ人に見せましものを

歌のように萩は秋を象徴する花であり風の、まにまに靡く姿は恋人を思っての歌だったのでしょうか!!!。







 無題    ..水垣    
      2005/09/12(月) 00:53  No.780
 
 
>紫草様
私は花を詠んだ歌を取り上げたかったので、敢えて万葉集の歌は避けたのですが、どの歌も良いですね。しなやかに撓む深緑の美しい葉を思い浮かべつつ読むと、しみじみ思いが伝わってくるようです。

>toyohashi taro様
懇切なご教示有り難うございます。
俊成卿女代作説、当時の和歌制作の現場や歌壇の情勢を考える上で、大変興味深い説だと思います。
それにしても石田博士の業績の先駆性に改めて驚きを感じました。

>ぱぐ様
そう言えば、今年の三月にむらじ様がその記念切手のことを教えて下さいました。もう発売されたのですね。情報有り難うございます。
小町と定家の歌仙図をもとにしたデザイン。切手集めの趣味はないのですが、こればかりは記念に買っておこうかなと思いました。

ところでその際にも御案内したのですが、この秋の和歌関係の特別記念展示を再掲載しておきます。

五島美術館「やまとうた一千年」
平成17年10月29日(土)〜11月27日(日)
勅撰集の写本・古筆断簡を一堂に展示。
http://www.gotoh-museum.or.jp/tenrankai/index.html

京都国立博物館
平成17年11月23日(水)〜 12月25日(日)
古今集1100年・新古今集800年記念「和歌と美術」
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/korekara/index_02.html



 珍しい切手    ..ぱぐ    
      2005/09/10(土) 22:29  No.779
 
 
水垣さん、皆さま、ごぶさたしております。

先日郵便局に行きましたら窓口に珍しい記念切手の案内が置いてあって、「やまとうた」のことを思い浮かべました。

9月1日発売、「古今和歌集奏覧1100年・新古今和歌集奏覧800年記念」というもので(いずれもそんな区切りだとは知らなかったのですが)、古今集からは小野小町(土佐光起筆)、新古今からは藤原定家(狩野探幽筆)の肖像です。
発売日から一週間の間には、記念印のサービスもあったようです。
買うかどうか迷ったのですが、結局眺めただけにしました(^^;)。

詳しいことは下記サイトをご覧ください。画像もあります。
http://www.post.japanpost.jp/whats_new/2005/07-09.html


*最近、寝しなに『大鏡』を読んでいます。



 新古今集撰者としての源通具    ..toyohashi taro    
      2005/09/09(金) 07:21  No.778
 
 
石田吉貞「新古今集撰者としての源通具」が掲載されたのは、『水甕』昭和八年11月号です。
  行く末をだれしのべとて夕風に契りかおかむ宿のたちばな
  あはれまたいかにしのばむ袖の露野原の風に秋は来にけり
  わが恋はあふをかぎりのたのみだに行方も知らぬ空の浮雲
  いま来むとちぎりしことは夢ながら見し夜に似たる有明の空
などを上げ、この感情の繊細さ纏綿さを見るとき、直ちに思うのは彼の妻、俊成卿女の歌であって、両者の間にはほとんどその差異を認めがたい、云々。とありまして、通具の歌には、妻俊成卿女の代作、加筆のものがたくさんに混じっているのではないかと推測する。百目鬼恭三郎「新古今和歌集一夕話」では、森本元子説として紹介されていますが、森本「俊成卿女の研究」昭和51年、「俊成卿女全歌集」昭和41年刊。この本の中でも森本は、石田吉貞先生の学恩に謝すと記述がありますし、久松潜一を通じて交流があったかもしれない(推測ですが)。
私は、『水甕』に書かれた石田さんの論文を抜き出そうと思っていますが、すでに本になっているのか、どうか確かめないといけない。



 やぶらん(山菅)    ..紫草    
      2005/09/09(金) 00:11  No.777
 
 
前回 8月13日水垣さんが山菅の歌で和泉式部の和歌を掲載されましたので、今回は万葉集から山菅を詠ったもを選んで見ました。万葉歌にはは十三首あり、山菅が何の科に属するのか諸説あり、定かではないようです。
蛇の髭 ユリ科の多年草 冬に濃い青色の実をつけます。竜の髭とも言います。
藪蘭  ユリ科の多年草 9月頃つやのある線形の葉と紫色の小花を穂状につけた花茎が特徴です。
菅   カヤツリグサ科の菅(すげ)です。
 
私が当地に移り住んで三十年以来その時植えた山菅が毎年花を付け
ております。近年までさほど関心もなく、季節の花、位にしか見ておりませんでしたが、万葉歌を知り繊細で深淵な趣に感銘しております。その中から五首を選んで見ました。

  ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ

訳・・黒髪山の山菅に小雨が絶え間無く降るように、ずっーとあの人のことを思っています。

  山菅の、乱(みだ)れ恋のみ、せしめつつ、逢はぬ妹かも、年は経につつ

訳・・ 恋心を乱れさせるばかりで、会ってくれないあの娘。年は過ぎて行くばかりなのに。。。

  山川の水蔭に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも

訳・・ 山の水辺に生えている山菅のように、止まずにあなたのことを想っています。

  あしひきの山菅の根のねもころに我れはぞ恋ふる君が姿を

訳・・ 山の山菅の根が深く根付くように、私はあなたの姿を心から恋しく思います。

山菅の止まずて君を思へかも我が心どのこの頃はなき

訳・・ いつもあなたを想っているからでしょうか、この頃の私の心は落着きをなくしています。



 >Graham様    ..水垣    
      2005/09/08(木) 00:56  No.776
 
 
こんばんは。
千五百番歌合はまだ完備した注釈書も存在しませんし、伝本や成立過程についての研究も未開拓の部分が多く、本当に多くの謎が残されているようです。
私はまだ拾い読み程度で、まずは手軽に読める本が欲しいという……それが当面一番の問題です(笑)。
またお気軽にどうぞ。



 RE:下冷泉政為    ..水垣    
      2005/09/08(木) 00:56  No.775
 
 
>逸爾散士様
再度のコメントを有り難うございます。大変興味深く拝読しました。

>政為の歌は、詠む対象はあまり新奇を追わないけど、歌語の用い方は、たえず新機軸を出そうとしているのかなと思います。

私も似たようなことを感じました。定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」と言いましたが、政為は、語彙は「古きを慕ひ」ながら、その用法には技巧を凝らしている、と言えるのでは。「あかなくの心」などという言い方にしても、万葉集の「見れど飽かぬかも」以来の伝統を踏まえつつ、「新機軸」を打ち出そうとする苦心が窺えます。

「心」、すなわち趣向も新しさを追求していないわけではないと思うのですが、さほど新鮮の感は受けません。どうしても王朝の風雅を懐かしむという姿勢になってしまっていると言うか。それはそれで私は嫌いでないのですが(笑)。
逸爾散士様がブログのコメントで仰っていた「マニエリスム」は美術史上の概念でしょうが、やはり様々な点で室町時代の和歌に当てはまるような気がします。

>歌の家に生まれた人の芸術意識って、どんなものなんでしょうか。まあそもそも現代的な「芸術」や「文学」の観念ではないのだろうけど…。

当時の歌道家の中でも、飛鳥井家などは二条派の歌風を承けて、割と穏健なんですね。先例を重んじて、あまり新奇な歌は作らないという。冷泉家は二条家との対抗上ということもあったでしょうが、早くから異風の歌風を保持しておりました。やはり定家の新古今集の歌が理想としてあったでしょう。歌の家としてはマイナーだったので、かえって芸術意識が尖鋭化したとも言えるのでは……。疑問のお答えにはなっていないでしょうけれど。



 >toyohashi taro様    ..水垣    
      2005/09/08(木) 00:54  No.774
 
 
いえいえ、お蔭様で、千五百番歌合について曖昧だった点を確認できたりと、私の方こそ有益でした。

>「源通具の歌には妻、俊成卿女の代作がかなり入っている」という説を仰ったのも石田さんでしたね。

その説は知っておりましたが、石田博士の提唱とは存じませんでした。

>このホームページの表紙に保田與重郎さんの言葉がありますね。家持の頁を作られた、そもそもの始めは、『万葉集の精神』あたりでしたか。

万葉集や家持に関心を持ってから、あれこれ読んでいるうちに出会った書物の一つです。非常に愛読し、『歌日記を読む』のコーナーなどはもろに影響を受けており、今考えるとちょっと恥ずかしくなる程です。
今は新学社の「保田與重郎文庫」が出て、入手しやすくなりましたね。



 おおっ!    ..Graham    
      2005/09/07(水) 01:26  No.773
 
 
みなさま、こんばんわ。
いつの間にやら千五百番歌合の話が大きく展開していますね。
今までにこれだけ議論されてきただけある、謎の多い前例のない大きなものなんですね。

まだまだ、学ばねばならないことが一杯です(笑

ともあれ、とても勉強になりました。
水垣様、toyohashi taro様、ありがとうございました。




 下冷泉政為    ..逸爾散士    
      2005/09/06(火) 22:02  No.772
 
 
 下冷泉政為の歌、水垣さまの通釈があれば読みやすく感じます。また補記を拝読すると近代人の自分にひきつけて鑑賞できるように思えます。


  春曙
あかなくの心をおきて見し世よりいくとせ春の明ぼのの空

「あかなく」はク語法でしょうね。「おきて」というのが一首の眼目と思えます。ちょっと持ってまわった修辞の感も。
 
 空を見あげると、無常感というのでもなく時間の経過を直接に感じるものかもしれません。夜半亭蕪村の「いかのぼり きのふの空のありどころ」でしたっけ。なにか時空に関して形而上的想念を誘うけど、ウェットな情緒ではないような。
 この歌はもう少し、わが身世にふるの感慨に近いのでしょうけど。


 春月
花かすむ夕べをとへばおぼろ夜の月にもなりぬをちかたの里

 をちかたの里だからいくのに時間がかかって、夕暮れすぎて朧夜になってしまったと、散文的に設定を理解すると雅とも思えないものが、三十一文字に歌いこめれば、歌としてすーっと心にはいるところが、和歌の値打ちなのでしょうね。


   折花
また見むと思はぬ花のかげならばしひて手折(たを)らむけふの夕べを

「しひて手折らむけふの夕べを」と花を省略するのは、題に折花
とあるから成立するのでしょうが、少し危なっかしいか。

 また見むと思はぬ里の山桜しひて手折(たを)らむけふの夕べに
のほうが、手折ると花の関係だけみれば安定的。ただ「里」などと別のイメージが入ってしまうから、この里は二度と訪れないだろうなという感慨になってしまいますね。


   夜花 日野会
ちらばまた花にうつらむ恨みまでかすめる月に思ひわびぬる

「恨み」と「わびぬる」は同じ感情ではないでしょうが少し煩わしいかな。


  故郷花 聖廟法楽とて安倍有尚すすめけるに
見るからに花も露けきふる里の春をばさても思ひすてしか

 菅公の廟というなら、この花は梅でしょうか。この歌、句切れがなく下の句まで続いていくのですね。「さても思ひすてしか」というのは、調子が強い句だけども。


  樹陰納涼 日野侍従家会当座
すずしさや色にもみゆる吹く風はたえまがちなる木々の夕かげ

この歌は初句で切れて、以下の句全体をまとめている。

 すずしさの色にもみえて吹く風のたえまがちなる木々の夕かげ
だと「木々の夕かげ」に焦点が絞られてしまう。


 月 八月十五夜前内大臣家当座十五首
おき出づる身もあだし世の名残思ふ月は有明あさがほの花

三句の字余りが特徴でしょうか。連歌なら「かな」でとめて、
 おき出づる身はあだし世の名残かな
 有明月の照らすあさがお
みたいに仕立てるのでしょうが。


   雪
うつろふとみる色もなき白雪のこぼるる枝にをしき暮かな

この歌などはわかりやすいですね。措辞も和歌の真ん中をいっているよう。


政為の歌は、詠む対象はあまり新奇を追わないけど、歌語の用い方は、たえず新機軸を出そうとしているのかなと思います。歌の家に生まれた人の芸術意識って、どんなものなんでしょうか。まあそもそも現代的な「芸術」や「文学」の観念ではないのだろうけど…。



 歌合の研究など    ..toyohashi taro    
      2005/09/06(火) 16:40  No.771
 
 
すっかりお手を煩わせてしまって、おかげさまで好い勉強をさせてもらいました。「資料を読んで、なお徹底的に考える。出来れば独自の見解を示す」、というのが石田吉貞さんの基本姿勢だったようで(石田春夫『隠者の文学』序文)、極端な見方、意見も合ったかもしれませんね。
「源通具の歌には妻、俊成卿女の代作がかなり入っている」という説を仰ったのも石田さんでしたね。これは現在定説になっていて、御子左家と土御門家の両家の思惑に合致したのだと、新しい意義を見出しているようです。田淵句美子氏の研究によれば。
最近気がついたのですが、このホームページの表紙に保田與重郎さんの言葉がありますね。家持の頁を作られた、そもそもの始めは、『万葉集の精神』あたりでしたか。



 RE:定説?(現在の)    ..水垣    
      2005/09/05(月) 23:49  No.770
 
 
ご教示有り難うございます。
お名前のあがった峯岸義秋博士の『歌合の研究』を見てみました。すると、千五百番歌合の成立過程につき、「水甕」掲載論文の石田説を取り上げておおむね賛意を表しており、やはり石田博士の論文が先駆的な業績のようです。
最新の情報には疎いので何とも言えませんが、平成三年刊の『和歌文学事典』を見ます限りでは、石田説がほぼ現在の定説と認められているように思われます。
但し、峯岸博士は石田説のうち「当時歌合流行の風潮に押され、翌年にいたって一種遊戯的な歌合に改装された」云々については多少の疑義を挟み、当時、まず百首歌を詠進させ、その後歌合に番うという方式は珍しいことではなく、千五百番歌合を特殊視する必要は無い旨、指摘してありました。



 定説?(現在の)    ..toyohashi taro    
      2005/09/05(月) 09:19  No.769
 
 
最近の話は知らないのですが、『新潮日本文学辞典』昭和51年版には、「歌合」の項を峯岸義秋が担当、
<建仁元〜二年の間の『千五百番歌合』は特殊様式で、云々>と巾を持たせた書き方をしています。この辞典には石田吉貞、森本元子、久保田淳も執筆者として加わっていますので、このあたりの書き方には、本当のところはどうだったのか、聞いてみたかったと思います。



 RE:千五百番歌合に対する疑問    ..水垣    
      2005/09/04(日) 22:09  No.768
 
 
石田吉貞氏は明治二十三年(1890)年の生まれ、昭和九年(1934)は四十代半ばですね。若くして先駆的なお仕事をなされていたのですね。
千五百番歌合については石田吉貞氏の説が今日のほぼ定説となっている、ということなのでしょうか?



 千五百番歌合に対する疑問    ..toyohashi taro    
      2005/09/03(土) 11:44  No.767
 
 
先ごろから話題の、「千五百番歌合」について、
昭和9年12月号(年号にご注意いただきたいのですが)「水甕」という短歌結社誌に石田吉貞氏の論文が掲載されたことがありました。「千五百番歌合に対する疑問」。うろんな要約ですが、「理由の一つは新古今和歌集に千五百番歌合の歌と記されていながら、そうでないものが七首あり、また千五百番歌合の歌でありながらそう記されていないものが八首ある。前者七首のうち三首は正治百首のもので、後者八首のうち七首までが「百首歌奉りし時」と記されている。新古今和歌集の撰者も周辺の和歌所の人たちも千五百番歌合の関係者であるから、余程の事情がなければこういう誤りが起こるはずが無い。従って新古今和歌集下命からおよそ一ヶ年間、建仁元年十一月から二年九月頃までの間には千五百番歌合というものは存在しなかっただろう。ほかの論拠のうちに『明月記』の記述がある。建仁元年六月の項に「百首」という言葉はあるが、「百首歌合」とか「千五百番歌合」という言葉は見えない。建仁二年九月もそうだ。去年の百首といっている。すると去年、建仁元年のものは百首であって、歌合ではない。だから「千五百番歌合」は本来新古今和歌集の準備として行われた「院三度百首」が、当時歌合流行の風潮に押され、翌年にいたって一種遊戯的な歌合に改装された」と石田氏は推定する。そうであれば「千五百番歌合」は百首史と歌合史のうえで、これまでと違う、やや特殊な位置を占めることになると。
石田吉貞氏というお方はえらい方でしたね。まだお若いころだったでしょうが。



 桓武天皇の歌の「白玉」について    ..水垣    
      2005/09/02(金) 06:36  No.766
 
 
平御幸さん、はじめまして。ようこそおいで下さいました。
面白いことを追究しておられるようですね。私にはさっぱり未知の分野ですけれども。
さてご質問の件ですが、

 君こそは忘れたるらめ和霊(にぎたま)の手弱女われは常の白玉

この歌は、桓武天皇が寵愛していた女官百済王明信に代って、彼女の立場に立って詠んだ歌ですから、「われ」は明信を指し、「白玉」は明信の「象徴」ということになります。



 RE:なんばんきせる (思い草)    ..水垣    
      2005/09/02(金) 06:33  No.765
 
 
珍しい物を見せて頂きました。私も尾花の季節には注意して見ているのですが、まだ実物を拝んだ経験がありません。
本居宣長の命名であるとは初耳でした。
万葉集の「思ひ草」についてはリンドウ・ツユクサ・オミナエシなど諸説あるようですが、薄の根元に生えることや、物思いに耽っているように咲いている姿から、ナンバンギセル説が有力のようですし、いちばん説得力があるように感じます。

王朝和歌より「思ひ草」を詠んだ歌をいくつか。

  金葉集     源俊頼朝臣
 思ひ草葉末にむすぶ白露のたまたまきては手にもかからず

  新古今集     和泉式部
 野辺みれば尾花がもとの思ひ草かれ行く冬に成りぞしにける

  新古今集     源通具
 とへかしな尾花がもとの思ひ草しをるる野辺の露はいかにと

ナンバンギセルの葉はほとんど地上に出ないそうですから、源俊頼の歌の「思ひ草」はナンバンギセル以外の草を指しているように思えます。



 RE:千五百番歌合    ..水垣    
      2005/09/02(金) 06:33  No.764
 
 
Graham様、おはようございます。

千五百番歌合のことですが、披講(歌合の席で歌を披露すること)がなされた記録がなく、「紙上」の歌合だったようです。
もともとこれは後鳥羽院が新古今集撰集のため、当時の有力歌人三十人に百首歌の詠進を求めたものでしたが、途中で構想が変わったらしく、歌合に番えることになったものです。なにしろ三千首千五百番の歌合ですから、一人の判者では賄いきれず、十人の判者が任命されるという、この点でも異例の規模の歌合ですね。
良経の絶句による判、慈円や後鳥羽院の歌による判など、紙上歌合でなければあり得ない趣向だったでしょう。

宮内卿に関しての本のご紹介ありがとうございます。そこまで詳しい本があったとは。私もいつかぜひ読んでみたいと思います。



 教えてください    ..平御幸 [URL]    
      2005/09/01(木) 19:18  No.763
 
 
はじめまして。古代史サイト・エフライム工房の平御幸と申します。桓武天皇の歌を探してここに辿り着きました。和歌は専門外ですので、どなたか教えてください。

君こそは忘れたるらめ和霊の手弱女われは常の白玉

この歌は、豊玉姫の歌を念頭に解釈できるのですが、桓武は男性側の自分が白玉で象徴されると詠んでいるのでしょうか。それとも、女性の百済王明信が白玉で象徴されると詠んでいるのでしょうか?

当方は、日本における紅白のシンボルの原型は、前18世紀のエジプトにあると考えています。法隆寺もクフのピラミッドと同じく、聖書の神聖キュビト尺で造られています。エジプトの古王国は、彫像が日本人に酷似していますから、日本人の祖先のイスラエル王朝です。紅白のシンボルは、ホホデミのモデルとなったヨセフの、エフライムとマナセという二人の息子のシンボルカラーなのです。桓武はどちらの系統なのか、この歌から分かるかもしれないのです。



 なんばんきせる (思い草)    ..紫草    
      2005/09/01(木) 13:13  No.762
 
 
一昨年園芸やさんで、矢筈すすきを買い求め庭の片隅に植えておきましたら、何とびっくり!「なんばんきせる」が咲いて入るでわありませんか。

実物を始めて見る者ですから写真に撮しました。早速図鑑を調べましたら。ハマウツボ科の植物でススキなどに寄生する植物、花の 全景がパイプに似ているので「なんばんきせる」の名が付けられたとあります。 本居宣長の命名
(南蛮煙管)は思い草。袋状の赤紫色の花が下向き咲き、そのしおらしい風情がちょうど乙女が細いうなじをたれた物を思う姿に似ているので。

道の辺の尾花がしたの思い草今さらになど物か思はむ(作者未詳)

道の辺のすすきの下にひっそりと咲いているあの思い草のように、私はあなたひとりをひたすら頼りに思っておりますのよ。今さらどうして思い迷うことなどありましょう。

思い草を詠んだ歌は「万葉集」にはこの一首のみ、歌は恋の成就とも失恋とも解釈できますが、
花の姿は、恋を締めた乙女の嘆きに似た風情に見えるのですが!!



 千五百番歌合    ..Graham    
      2005/08/31(水) 23:54  No.761
 
 
水垣様、常連の皆様こんばんわ。

今日は休みで、先日コピーした「国歌大観」をパラパラと読みつつ、宮内卿の歌をチェックしていました。
その際に感じたことなのですが、「千五百番歌合」のような3千首もの歌をやり取りするのに、1日(一晩?)では不可能ですよね。
やはり何日間かに及んで、繰り広げられていたのでしょうか?
今回初めてこの歌合に触れたのですが、とてつもなく壮大で素人の僕など圧倒されるばかりです。

あと、困らされているのが、判者によってコメントの仕方があまりにも違うことと、勝ち負けの書き込みがあったりなかったりすることで、定家のいかにも書きそうな理屈っぽい判(笑)にも閉口したもののまだそれがわかるだけましで、良径の漢文、後鳥羽院の歌での判は、とても僕あたりでは手に負えません(汗

とは言うものの、こういうところまで自分で調べたのは初めてで、なかなか新鮮ではあります。
とりあえず宮内卿に関してだけで精一杯ですが、その後もゆっくり味わって行きたいなと思います。

資料を探すのにネットだけではやはり限界がありますので、直接手に取ることのできる図書館に通っているのですが、チェックしているうちに思わぬ逸品に出会って、その事自体だけでも楽しんでいたりします(笑
最近の最大の収穫は弘文堂の「日本歌人講座4巻・中世の歌人U」で、宮内卿が50ページに渡って取り上げられていて、その日のうちにネットで探して注文してしまいました(笑
今まで買った本ではせいぜい10ページ程度だっただけに驚くやら喜ぶやらです。
この本には増鏡や、先日水垣様のレスにもあった「健寿御前日記」についての記述もあって、今まで手にした本で最も充実した内容でした。
良径・式子内親王・俊成卿女なども収録されていています。

最後に、今まで宮内卿単独の本はないと思っていたのですが、存在を確認された全ての和歌を収録した本(纂輯後鳥羽院宮内卿歌集稿・神尾暢子編著・70年)があるということがわかり、今探している所です。
30年以上前の本なので、なかなか見つかりそうもないです(涙
どなたかお持ちの方、あるいは手に取ったことのある方がいらっしゃいましたら、情報をいただけたらと思います。

それでは、長くなってしまったので、この辺で。



 怨歌行、班女    ..水垣    
      2005/08/31(水) 00:07  No.760
 
 
相模の歌から文選の「怨歌行」、謡曲の「班女」へと話題が広がり、私も楽しく読ませて頂いておりました(管理人が楽しんでばかりいてはまずいかも知れませんが)。

因みに、紫草様が引用下さった詞章の、

 班女が閨の中には秋の扇の色。楚王の台の上には夜の琴の声

は『和漢朗詠集』に採られたことで王朝人の愛誦句としての地位を確立したと思われます。
班婕、の故事に因んだと思われる扇の和歌は、相模よりも前に藤原為頼(紫式部の伯父)が詠み、『後拾遺集』に採られています。

   扇の歌よみはべりけるに      藤原為頼朝臣
 おほかたの秋くるからに身にちかくならす扇の風ぞかはれる

また、九条良経の

 手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風のすみかなりけり

も相模の歌と共に班婕、の故事を想起させるものです。



 無題    ..逸爾散士    
      2005/08/30(火) 21:52  No.759
 
 
 紫草さま

 いつも茶花や能のお話、それに素敵な写真を楽しませていただいております。
 古人は扇の表裏と人の心の定めなきをも通わせているのですね。

 花子さん、扇を取り替えたのがつらい縁とは可哀想。成り代わって一首(そればっかり)

 秋風の立ち忘らるる扇こそわれにあだなる形見とはなれ

 (二句目の句割れが雅じゃないですね)



 RE怨歌行    ..紫草    
      2005/08/29(月) 17:37  No.758
 
 
お説の通り扇は色々の場面で用いられますね。 能。歌舞伎 舞踊 等 日本古来の演芸には主要な道具の一つになつています、場面々によって繊細で、喜怒哀楽を表わし主要な演目が多数あり色々の形で 表現されている。

 その一例は、中国の故事に則り、前漢成帝 班婕、(はんしょうよ)に題材おとり 能(班女)が作られ、そのストーリーの一部
                              遊女花子は、吉田の少将に恋して又逢う事を約束し扇を交換する再会することが行き違いで出来ず、花子は狂女となつて形見の扇を抱いて狂乱したが、その後その扇から少将と再会し得る。
 
場面の中で「捨てられる」という不吉もこめられ事実花子はそうなるのです。劇としては、ハッピーエンドとなっても「捨てられた」と思い込み、約束の時期に男は迎えにこなかつたのです。

詞章の一節

花子 形見の扇手に触れて、うち置き難き袖の露。古言までも思    ひぞ出ずる。
  班女が閨の中には秋の扇の色。楚王の台の上には夜の琴の声。

地謡 夏果つる、扇と秋の白露と、いづれか先に、起き臥しの床    すさまじや、
   一人寝の、淋しき枕して、閨の月を眺めん。      (中略)

花子 形見の扇より、なほ、裏表あるものは、人心なりけるぞや。   扇とは、虚言や、
   逢はでぞ恋は、添ふものを。逢はでぞ恋は、添ふものを。

「扇」は「逢ふ儀」と同音ですその扇は人の心のように裏表がありました。「逢ふ」との約束は空しい。なのに我が心の恋ばかりは、いつもあの人に密着しているのでした。
 
扇とは、移ろいの時々に心まで映し換わる「扇」ではなかったのではないのでしょうか。



 怨歌行    ..逸爾散士    
      2005/08/28(日) 16:22  No.757
 
 
 秋風 扇 忘れる という言葉がつながれば、見捨てられた女の人がわが身を嘆くことを思い浮かべ、「ああ、ハンショウヨだ」と読むほうは必ず連想するのでしょうね。『文選』は平安貴族の基本教養だったろうし。
 能『班女』など後代の文芸を通じて、現代人でも「秋の扇」だけで捨てられた女性を連想する人は多いだろうと思います。
 ただ、どうなんでしょうね。作り手は読者が当然に忘れられた女の嘆きを連想することを予定して詠んでいるのでしょうが、一首のテーマは恋の情緒ではない。というか、そもそも古典和歌に主題だ、テーマだという枠をはめるのが変だというだけかもしれませんが…。



 RE:秋の扇    ..水垣    
      2005/08/28(日) 12:03  No.756
 
 
おっしゃる通りで、たしか丸谷才一著『新々百人一首』にもそうした意味のことが書かれていたと思います。季節の風物を叙しながら、恋心や恋物語を暗号のように織り込んでいる例は極めて多い――と言うよりそれが王朝和歌の常套手法なのですが、相模のは、その典型の一つだと思います。
もちろんブログの記事は歌の評釈が主眼でなく、「歳時記」として書いているわけですから、季節詠として取り上げたまでで。



 秋の扇    ..toyohashi taro    
      2005/08/28(日) 08:56  No.755
 
 
ブログのほうにあがっている、相模の、
  手もたゆくならす扇のおきどころわするばかりに秋風ぞふく
ですが、見捨てられた秋の扇の悲哀をいいつつ、それから、夏の間足しげく通ってきた男に飽かれた自分を憐れんでいる歌だと思っていました。扇は、あふぎで逢うに通じるし、秋は飽くの意味を持たせている、と。



 秋海棠 別名 (断腸花)    ..紫草    
      2005/08/28(日) 00:20  No.754
 
 
貝原益軒の「花譜」によると中国から1620年ころ長崎へきたる、とあります。
肉質の茎を直立させて、長い葉柄をもった卵形の葉が互生する。
中肋の左右は非相称で、淡紅色の花をつける。          別名(断腸花)とも呼ばれる。 永井荷風は大正五年、家の庭に
六畳の庵を結び、これを断腸亭と名づけた。荷風の著書     「断腸亭記」の終わりに一句を吟じている。

   心ありて庭に裁えけり断腸花 

次に引く短い詩の作者は大槻鉄男氏 題は「夕暮れ」
  
   夕暮れに 白さを増す秋海棠を 断腸花という

   淋しさがはらわたをちぎる 血が西空に流れている

日ごと、夕暮れが迫ると、世のすべての秋海棠の淡い紅色が花から
抜け出て西空にのがれ、雲を染める、と作者は見たのでしょう。

私の花に対する印象は、楚々と咲き何の衒いもなく美人で下町の
新妻を思わせる風姿を感じるのですが。

 



 RE:萩の花 こぼれる    ..水垣    
      2005/08/27(土) 00:21  No.753
 
 
お庭の萩も、本当にこぼれるように咲き始めましたね。
「萩は砌に植えるのがよい」との御説、なんとなく、分かる気がいたします。我が家の庭にも萩の苗木を植え、生長を楽しみにしているところですが、庭に植えて風情を活かすのはなかなか難しい植物だなと感じておりました。

高円山と言えば、志貴皇子の山荘跡に建てられたとも言われる白毫寺は萩で有名ですね。残念ながらその季節に行ったことはないのですが。

我が家の萩はまだ咲いていないので、写真は鎌倉の浄光明寺に咲いていた萩です。



 国歌大観の宮内卿の歌    ..水垣    
      2005/08/27(土) 00:19  No.752
 
 
Graham様、こんばんは。早速コピーなさったのですね。
新編国歌大観は注など一切付いていないので、特に人名を特定するのは、専門家の方だって苦労されているのではないでしょうか。
「宮内卿」のような官職名を借りた呼称ですと、余計厄介ですね。同時代の大歌人藤原家隆も宮内卿を歴任しましたっけ。
ともあれ、宮内卿の作にはきっと秀歌がまだ埋もれているのではないかと思います。好きな歌人の未知の傑作を発見するのは、心躍ることですね。



 RE:大海人皇子の返歌    ..水垣    
      2005/08/27(土) 00:19  No.751
 
 
> 大海人皇子は、「舒明天皇3年(631年)生まれ?」とWikipediaにありましたので、天智七年(668)では37歳頃ということですね。
> 一方、額田王は、Wikipediaでは生没年不詳とありました。

> 池田彌三郎説の「この時すでに四十歳になろうとしている額田王」というのは、大海人皇子とほぼ同じ年ということでしょうか。

「37歳頃」と「四十歳になろうとしている」ならば、「ほぼ同じ年」ということになりますね。



 萩の花 こぼれる    ..紫草    
      2005/08/26(金) 12:07  No.750
 
 
野分(台風)も通り過ぎ、初秋の頃となりましたね。
秋に萩の花は咲く、とわ云わず、こぼれる、と、表現するそうす,萩が咲くよりも、こぼれるの方が風趣を感じますね。
造園家が曰くには、萩を植栽する所は、砌の萩といって、踏み石の切れた所,敷石の途切れた所に、定植するのが風情があるとされ 定説のようです。               拙庭内に四ヶ所、植えられている萩も、砌の萩となっております。
砌の文字を見ましても、石編に、切ると書き(季節の砌などと表現するように)転換点、終着点 分疑点 等を意味し、季節の変り目を告げる花なのでしょうか。
萩は、万葉人に最も愛された花のようで、万葉歌に詠ま花、草、木の中で,一番多いのがこの萩で、百四十二首あるそうです。

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに

高円山の野辺の秋萩は、空しく咲いては散っているんだろうなあ。高円山の萩を愛された志貴皇子様も、もうこの世にいらっしゃらない・・・。

 書物よると、高円山の麓は、今も万葉のころも萩の名所であり。今も、秋の夕など静寂さと萩の葉末を渡る風に、志貴皇子の白露のごとき魂が甦る思いがすると・・・。あります。
志貴皇子の邸宅もこのあたりにあったらしい。志貴は天智天皇の 皇子で、当時熾烈を極めた皇位争いの圏外にあつて独り静謐を好み 内面と自然を擬視した。その皇子が霊亀元年(715)秋九月に亡くなられた。        その時の挽歌(長歌)の反歌が前に上げた歌です。あとに残された者の心の荒寥がそくそくと伝わってる!!!。 この歌の作者は「笠金村」は宮廷歌人。



 とりあえず国歌大観を。    ..Graham    
      2005/08/25(木) 23:32  No.749
 
 
水垣様、こんばんわ。
今日、某図書館で「新編国歌大観第5巻」の宮内卿の参加している歌合をコピーしてきました。
ざっと見ただけでも、見慣れた歌以外にも思いのほか歌があってワクワクしています。
ただ、素人の悲しい所で、意味が良くわからない所があったり、歌合によって「宮内卿」だったり「女房宮内卿」だったり、これはおそらく別人だと思うのですが「前宮内卿」と言うお方もいたりで、最初はちょっと混乱してしまいました(笑
この本、素人にはかなりきついですね(笑
これからぼちぼちチェックして行こうと思っています。



 大海人皇子の返歌    ..Naked    
      2005/08/24(水) 23:14  No.748
 
 
 早速にありがとうございます。

 大海人皇子は、「舒明天皇3年(631年)生まれ?」とWikipediaにありましたので、天智七年(668)では37歳頃ということですね。
 一方、額田王は、Wikipediaでは生没年不詳とありました。

 池田彌三郎説の「この時すでに四十歳になろうとしている額田王」というのは、大海人皇子とほぼ同じ年ということでしょうか。
 



 はじめまして>AKIHI様    ..水垣    
      2005/08/23(火) 22:41  No.747
 
 
ようこそおいで下さいました。ご投稿ありがとうございます。
貴サイトを拝見しましたところ、額田王の絵を見つけ、見入ってしまいました。表情も良いですが、紫でまとめた色合の美しさが印象的でした。
またお気軽にお立ちより頂ければ幸いです。



 RE:大海人皇子の返歌    ..水垣    
      2005/08/23(火) 22:28  No.746
 
 
お久しぶりです。

>「むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」

> 同書では、「君が人妻でも僕は好きなんだ」とストレートな訳でしたが、上の句から通して、特に「憎くあらば」をどう読むのでしょう。

「千人万首」に書いたことに、特に付け加えることはないのですが…。以下、天武天皇のファイルより引用いたしますが、

【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったら、人妻と知りながら、これほど切ない思いをするものか。

【補記】天智七年(668)五月五日、天智天皇が大海人皇子以下王侯諸臣を従えて近江の蒲生野に薬狩を催した時、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」に答えた歌。万葉集では相聞の部に入れず雑歌としていることからも、恋の贈答ではなく、宴席での戯れ歌であることは明らか。



 はじめまして    ..AKIHI [URL]    
      2005/08/23(火) 17:24  No.745
 
 
水垣様
 こんにちは、AKIHIと申します。随分前からサイトにはお邪魔しておりました。いつも掲載されている和歌の数々を読んで優雅な気持ちにひたっています。
 昔から、万葉集の特に額田王の歌が好きで親しんできました。これからも更新楽しみにしております。
今日はご挨拶まで・・・。失礼します。



 大海人皇子の返歌    ..Naked    
      2005/08/23(火) 01:21  No.744
 
 
 久し振りにお伺いします。
 財界人文芸誌「ほほづえ」を取り寄せ、夏号は「日本の古典」を特集しています。
 「日本の古典」にみる才媛たちと題して、鈴木忠雄メルシャン会長が額田王の歌に対する大海人皇子の返歌として下記を引かれていました。

 「むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」

 同書では、「君が人妻でも僕は好きなんだ」とストレートな訳でしたが、上の句から通して、特に「憎くあらば」をどう読むのでしょう。

 こちらの池田彌三郎説では、「この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」と、にべもないのですが…

 



 お返事ありがとうございました♪    ..Graham    
      2005/08/21(日) 23:48  No.743
 
 
>紫草様
初めまして、こちらこそよろしくお願いいたします。
式子内親王との出会いは小学生の時で、ご多分に漏れず百人一首の「玉の緒よ」が原点なのです。
当時はっきり意味はわからなかったと思うのですが、この歌の抑制されたソウルは感じ取っていたと思います。

いろいろ調べるようになったのはここ1・2年のことなのですが、知れば知るほど式子さまの歌に引き込まれていきます。
個人的には変わることのない頂点です。

「定家葛」については、僕は懐疑的なほうです。
いささかスクウェアなキャラの定家との男と女としての相性もイマイチイメージがピンと来ません(笑
他にも法然の話もあったりしますが、式子さまに宛てた手紙の文面は、僕の印象では優しいお父さんのような感じです。
式子さまの歌は、恋の相手を推測せずにはいられないものが確かにありますが、個人的にはそっとしておきたい気持ちです。

ただ、中奥英子さんの書かれた素晴しい小説「式子有情〜軒端の梅は我を忘るな」での平 重衡との密かな恋は、事実ではないにしてもロマンティックでよかったです。
平 重衝といえば、南都を焼き払った極悪人のイメージがありましたが、それを悔いて涙を流すシーンにはほろりと来ました。

最後に、先日式子さまのお墓と伝えられている般舟院陵内にある小さな塔にお参りしてきたのですが、草ボーボーの荒れ放題の状態で、情けなくなりました。
実際のお墓かどうかハッキリしていないとは言え、伝説にもなっているわけですし、もっと大切にしていただきたいと宮内庁に訴えたいです。


>水垣様
初めまして、お返事ありがとうございます。
増鏡というと、ジャイアン後鳥羽(笑)に「宮内はいまだしかるべけれども〜」と声をかけられて顔を紅潮させて涙ぐんだという、千五百首歌合でのエピソードですか?
この院の励ましのような要求のような(笑)言葉が、図らずも宮内卿のその後に大きく影響してしまったように思います。
良くも悪くも。

>一番良いのは、やはり宮内卿が出詠した歌合や百首歌をひとつひとつ丹念に読んでゆくことではないでしょうか。
こちらで水無瀬恋十五首歌合を見させていただいたのですが、非常に興味深いものでした。
千五百首歌合の時からすると、素人目ながらやや精彩を欠いているように感じました。
この頃既に身体を悪くしていたのかもしれませんね。
ともあれ、宮内卿の参加した歌合は、調べてみたいです。

長くなってしまいましたので、今回はこの辺で。

またよろしくお願いいたします。






 RE:宮内卿>Graham様    ..水垣    
      2005/08/21(日) 22:15  No.742
 
 
はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
おっしゃる通り、宮内卿の残した歌はさほど多いと言えませんし、残されたエピソードは少ないですねえ。千人万首の略伝に書いた以上のことは私もあまり存じません。
そうそう、この略伝には書き漏らしましたが、歴史書『増鏡』の「おどろのした」には宮内卿についての大変印象的なエピソードがありますので、もし未読でしたらぜひご一読をお勧めします。
それから、これは未読ですが、『健寿御前日記』には宮内卿の母、後白河院女房安芸について記事があり、絵師巨勢宗成の娘で琴の名手だったそうです(『和歌文学事典』より)。
また、群書類従や歌学大系2に収録された『続歌仙落書』という書には宮内卿が歌仙として選ばれ、短評が載っています。

一番良いのは、やはり宮内卿が出詠した歌合や百首歌をひとつひとつ丹念に読んでゆくことではないでしょうか。それによって彼女の後鳥羽院歌壇での活躍ぶりもおおよそ知られると思います。

どうぞまたお気軽にお尋ねください。



 RE:肖柏>逸爾散士様・紀州の姫様    ..水垣    
      2005/08/21(日) 21:51  No.741
 
 
肖柏の和歌につきご感想ありがとうございます。興味深く拝見しました。

>逸爾散士様

伝統を踏まえつつ新しさも打ち出している肖柏の歌風につき、いずれも的を射たご指摘と思います。新しい題材への取り組みや詞のつなげ方の工夫など、肖柏の才気と鏤骨が偲ばれます。

連歌の影響ということでは、宗祇よりも思い切った採り入れ方をしているのではないか、という印象を持っておりましたが、

>あすよりは天つ空にや恋ひ佗びん雲のはたてに春はくれにき

についてのご指摘にはなるほどと思いました。

>紀州の姫様

>『酒、香、花(特に牡丹)を愛し、外出の際には 牛に乗っていたといわれている。』

牛については逸話が残っておりまして、肖柏は自分の乗る牛の角を金で飾り、見る人は怪しみ笑ったけれども、少しも恥じるところが無かった、と言います。我が道を行く、という人だったようですね。

建仁寺の久昌院のお庭、清々しさが伝わってきます。
肖柏のお墓がある堺の南宗寺は私も少し調べてみましたが、立派な庭園があり、千利休ゆかりの茶室があるなど、見どころの多いお寺のようですね。私もいつか機会があればと思っております。

ブログも見て下さっているとのこと、ありがとうございます。



 蔦 (ていかかずら)    ..紫草    
      2005/08/21(日) 17:21  No.740
 
 
 >Graham 様 初めてお目にかかります宜しく。

式子内親王(しょくしないしんのう)

 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば 忍ぶることのよはりもぞる。

内面的な苦悩を、独自な形で謳い深い孤独の暗に沈殿し、そこに生活の原理と和歌の発想を見出している。
男と女の違いだけでなく、賀茂の斎院という特殊な地位にあり、内親王を独自な暗室に閉じ込め、忍従の生活の中から、身をよじるような絶叫が生まれたのではないのでしょうか。
 NHKドラマ義経に出ている後白河天皇の第三皇女で(1159年)斎院に朴定され、賀茂の社に十年ほど奉仕し、退下された後は独身のままで終ったとか。

見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中(百首歌)

暁のゆふつげ鳥ぞあはれなるながきねぶりをおもふ枕に(新古今集)

いまはわれ松のはしらの杉の庵にとづべきものを苔深き袖(新古今集)
 

 「明月記」には、定家がしばしば前斎宮の御所を訪れたことが見え、そこから二人の仲が取りざたされ噂されるようになり、二人の仲を証拠だてるものは、何一つ残ってはいないのにかかはらづ伝説に伝説を生み、定家の執心は、「定家葛」となつて、死後までまつわりつき内親王を苦しめると言う話に発展し能「定家」につなる。
  
 私も能を鑑賞するのが好きでよく足を運びます、「大原御行」 「楊貴妃」「定家」を三大美女の物語といつておりますが、いづれも和歌を織り交ぜ幽玄美の極致を表現していて陶酔させられます。



 宮内卿    ..Graham    
      2005/08/21(日) 00:52  No.739
 
 
初めまして。
式子内親王と宮内卿を調べていてここに辿り着きました。
百人一首で出会って以来、式子内親王はずっと好きな歌人で、ここ1・2年、素人の僕としてはいろいろ本を集めては読みふけっています。
そうやって集めた本に同時に掲載されていることが多くてたまたま知ったのが宮内卿で、そのはかなくも短い人生や映像的な歌にたちまち惹かれてしまいました。

宮内卿について、いろいろか書かれた密度の高い本を探しているのですが、やはり残された歌やエピソードが少ないのでないのでしょうか?
今持っている本は大体同じようなことが書かれています。
他にもあまり書かれることのないエピソードや、密度の高い本があったら教えていただけたら幸いです。


歌の方はこのサイトのおかげで、36・7首まで目を通すことができました。
ノートにも書き出して、ちょっとした時に読み返しています。

学生時代はろくに古典の勉強をしなかった僕ですが、ン十年後、こうして和歌に関心を持って、難しい本に頭をひねりつつ挑むことになるとは夢にも思いませんでしたが、素人なりではありますが楽しんでいます。

これからも、ちょくちょく閲覧させていただき、時には「こんなことも知らないのか?」と呆れられるような素人臭い質問をしてしまうこともあるかと思いますが、何とぞよろしくお願いいたします。

それでは、失礼致します。




 牡丹花肖柏    ..紀州の姫    
      2005/08/20(土) 10:19  No.738
 
 
和歌に余り詳しくない私は、肖柏という方も初めて知りましたが

>建仁寺の正宗龍統の門に入り出家、摂津池田に本拠を置き、晩年には堺に・・・

と、よく知る近くの地名が出てきましたので大変興味を持ちました。

また、色々調べていましたら、肖柏は
『酒、香、花(特に牡丹)を愛し、外出の際には 牛に乗っていたといわれている。』
ともあり、牛の歌と結びついてしまいましたが・・・。(^^ゞ


>中世の和歌、連歌の時代の和歌をこうしてご紹介くださることも、これから和歌の世界へふれる人々にすばらしい贈り物だと思います。

本当にそう思います。
肖柏の和歌につきましては、逸爾散仕さまのお話しも拝読させて頂き、さらに深く味わう事が出来ました。有難う御座います。

“言の葉にのこす心を折りそへし野分の跡の花とだにみよ”

この歌も心に残りました。

添付写真は、建仁寺の中にあります久昌院の庭(初夏)で、お茶会に行った時に撮ったものです。
肖柏のお墓がある南宗寺は茶の湯とも関係が深いことが解り、是非訪ねてみたいものです。

水垣さま、ブログのお花の美しさに見入っております。
どの花も眺めていましたら、それを撮られた水垣さまのお優しいお人柄までが伝わってくるようです。(^.^)



 肖柏の和歌    ..逸爾散士    
      2005/08/20(土) 00:22  No.737
 
 
 「水無瀬三吟」は高校の古文か歴史の教科書にちょっと載っていましたがそれっきり肖柏の作品にふれる機会はありませんでした。こんなに肖柏の歌を註釈とともに読めるとは嬉しい。
 和歌という定点があって通時的な鑑賞ができるのは、日本伝統文学の享受者の幸福だなあと思います。(中国文学も唐詩、宋詞、元曲、とその時代を代表する文芸はあるけど、時代が異なる詩を比べ読むのも興味深いものです。)
 
 肖柏の歌、和歌の伝統を踏まえた雅趣に富む歌ですが、新しい視点や素材も常に意識しているように思えました。

 うつしみよ山はあらしもやはらかにならのわか葉を言の葉の道

 「うつしみよ」「言の葉の道」と、表現することそのものをテーマにしているので、難解なところがありますが、「あらし」と「やはらか」という語が続くところが新鮮に感じます。
 光景も先蹤はそうないのでは? 若葉の茂る木々が強風にしなって揺れている様が彷彿とします。
 この歌は、声調も木々が揺れるようなしなやかさが感じられます。「やま」「あらし」「やはらか」「なら」「若葉」とa音で始まる単語が続いていく。

 放ちかふ夏野の牛もかたよるや水草清き杜の下道

 これも伝統和歌には珍しい題材ではないでしょうか。といって措辞や用語は奇矯ではない。このホームページでお教えいただいた曾禰好忠ならばどう詠んだかと想像するのも楽しいですね。


 軒ばよりあまりて落つる雪の音に夕暮ふかくなれる宿かな

 探せば、軒先から屋根の雪がまとまって落ちる音を詠んだ歌があるかもしれないけど、これも和歌らしくない。その、多分、どさっと落ちた音に取り合わせるのに夕暮れの宿というのが独特の雅ですね。私なら雪後の晴れとか春の近さとか、雪を溶かすものを取り合わせたくなる。(想像力がないもんで)


 どの歌も「遠望山花」というような題がついているのでしょうか。漢詩文の影響もあるのかしらん。

 ゆきてをる心のかへさいかならん千里にかすむ山ざくらかな

 歌の心は本歌とともに倭ぶりと思えますが、「千里にかすむ」というのは、漢詩に通う詞の姿。「千里、鶯鳴いて緑、紅に映ず」と王朝の歌人も誦すことはあったかと思うけど、歌語に裁ち入れたかな。


 他にも伝統的な歌の詞の新しいつながりを試みたもの。中世和歌らしい句の姿などを感じました。

 梅の花にほふ夕べは身を分けて空にこころの春風ぞふく

 「こころの秋」という詞は平安末期でもあるでしょう。「こころの春風」とまで歌語を使い切ってしまう。

 あすよりは天つ空にや恋ひ佗びん雲のはたてに春はくれにき

 下の句は連句のような立ち姿。三句ですぱっと切っているのは、春への思慕であって恋の情趣ではないよ、と言い切っているようにも感じます。
 俳諧連歌でいえば、「あすよりは」の前の句が恋句で、恋句が続きすぎるから」「恋はなれ」に「雲のはたて」の句を据えたというようなところ。

 宗祇も肖柏も、和歌の伝統を受け継ぎながら、自分の時代を作り、後代へつながる種子も蒔いている。
 中世の和歌、連歌の時代の和歌をこうしてご紹介くださることも、これから和歌の世界へふれる人々にすばらしい贈り物だと思います。





 RE:藪枯 (やぶがらし)    ..水垣    
      2005/08/17(水) 16:25  No.736
 
 
藪枯、うちの近所でも近頃よく見かけます。迷惑な雑草扱いをされる植物のようですが、近づいてみるとなかなか愛らしい花ですね。
万葉集には出てこないようです。万葉歌人は生命力旺盛な蔓草を好んだので、詠んでいてもおかしくないと思うのですが。
花ではなく実ですけれども、斎藤茂吉の『小園』という歌集にやぶがらしが取り上げられていましたので、ご参考までに。

 やぶがらしの玉もやうやく色づきてその紫も愛づべからずや

秋につける実は意外に大きく、実際「玉」と呼びたくなるほど見事なものです。



 藪枯 (やぶがらし)    ..紫草    
      2005/08/16(火) 20:44  No.735
 
 
 今日は送り盆、仏を送りに墓に行きましたら藪枯の花が咲いてました、図鑑を調べましたら下記のようですが、万葉歌には有るのでしょうか、ご存知でしたら教えてください。宜しくお願いいたします。

 路傍・空地などに生える、ブドウ科の多年生蔓草。
 薮を枯らすほどの旺盛な成長からこう名付けられた。別名ビンボウカズラとも呼ばれている。
 ツル植物のたくましさで、春には目立たなくても、地下茎を伸ばして盛んに繁殖し、夏には草むらを一面に覆うほどに増える。巻きつかれた樹木はときに枯れてしまう。
 と書くと嫌われ者のようだが、よく見れば結構繊細な花をつけている。
 花は萼(がく)がなく、4枚の花びらは緑色で、開花とほぼ同時に落ちてしまう。
 おしべもやはり4枚で、これもすぐに落ち、めしべの根元の部分のピンク色っぽい部分だけが目立つ。

               「色別・野の花図鑑」(小学館)



 RE:相模の歌 メモ    ..水垣    
      2005/08/11(木) 22:47  No.734
 
 
調べが美しく、題材も新鮮となれば、歌合の場で賞讃の声が湧き起こっても不思議はありませんが、「殿中鼓動」とは少々大げさすぎるような気もします。背景に何かあったかと疑われるのも尤もかと思います。お書きの「メモ」に付け加える材料が私にはありませんけれども。
ただ、四季の風物を詠みつつ、その裏で色恋沙汰を暗示するというのは、和歌の常套とさえ言えるやり方ではあります。



 相模の歌 メモ    ..toyohashi taro    
      2005/08/10(水) 10:05  No.733
 
 
さみだれは美豆の御牧のまこも草かりほすひまもあらじとぞ思ふ 相模(後拾遺集)
美豆に五月雨のみづをひびかせ、牧人の生活を詠ったのも新鮮であった、といいますが。この歌合せの相手方は東宮学士茂忠、「さみだれのそらをながむるのどけさはちよをかねたる心地こそすれ」、悠揚迫らざる歌で、その分やや感興はない。それを、この歌講じ出づるの時、殿中鼓動して郭外に及ぶと云々、『袋草紙』の記述、そんなに大層なものかと思う。そこには何か、後は口をつぐむという感じがある。その先をはばかる必要があったのではないか。『袋草紙』の作者藤原清輔は『無名抄』によれば外面の清廉中庸に見えてなかなかの曲者だったらしい。それに、相模の歌は、「ながつきの時雨のあめにぬれとほり春日の山はいろづきにけり」など、万葉以来の言い寄る男と受け容れる女の比喩に基づくものではないのか。そうすると、一座に共通する話題がすでにあって、相模はその当事者だから、歌で明らかに打ち消した。それなら、殿中鼓動するだろうと思う。一方の相手が藤原定頼ならば清輔は口ごもる。
この推測、俗すぎますか。



 RE: 夏越(なごし)    ..水垣    
      2005/08/08(月) 00:17  No.732
 
 
紀州の姫様
もう「残暑」お見舞い申し上げます、ですね。

お写真ありがとうございます。ひっそりとした清水寺、私にとっては珍しい情景です。
最後に参りましたのは三、四年前の春の夜間拝観の時で、それはもう大変な人出でした。
真夏の朝の暁天講座、さぞや清々しいお気持ちで拝聴されたことでしょう。

>「耳かき注意!」

よくお気づきになりましたね(^_^;
時々耳を傷つけてしまう、という話でしたが、最近は綿棒の反対側が耳かきになっているもの(下手な説明ですが)を使うようにしているので、めったに血を見なくなりました。

……って、これは**様の日記サイト(お名前は敢えて秘させて頂きます)でレスすべきだったでしょうか。

blogの方も活用頂けましたら幸いです。



 夏越(なごし)    ..紀州の姫    
      2005/08/07(日) 08:44  No.731
 
 
水垣さま

立秋ですね。
blogで鶴岡八幡宮の茅の輪のお写真を拝見しました。
慈円も

夏はつる今日のみそぎのすがぬきをこえてや秋の風はたつらむ

と歌っているのですね。
水垣さまも撮影に気を取られ、くぐるのを忘れてはこなかったでしょうね!?(^.^)

写真は、おとは山(音羽山)の清水寺です。
夏、京都の寺院では早朝の暁天講座が多く、私も清水寺・森清範貫主の法話を拝聴して参りました。
この仁王門辺りはいつだって大勢の観光客で賑わっているのですが、早朝ゆえこのように静かな雰囲気でした。(8月1日午前5時半頃)

秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり


blogになかなか馴染めなかった私ですが、最近は見方も上手になり、あちこち覗いて(?)楽しんでいましたら、「耳かき注意!」の話に出会い笑ってしまいました。(^O^) (て、こんなところで、バラしてもよいのかな・・・?)



 はい。    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/08/04(木) 17:54  No.730
 
 
水垣様にそうおっしゃって頂けて、「これで、良いのだろうか…?」という不安が少々無くなった気が致します。
ありがとうございます。
もっと、一生懸命勉強して、自信を持って、少しでも恥ずかしくない訳ができるよう、頑張ります。
今後は…もうちょっと作者の思いも考えて訳せるよう、努力していきたいと思います。



 RE:「恋歌・百人一首」できました    ..水垣    
      2005/08/04(木) 00:58  No.729
 
 
お知らせありがとうございます。お疲れ様でした。

>使われてる語のみに囚われて、文法もしっかり守っていると、なにやら今ひとつ心の込もっていない気がしてまいりまして…

とおっしゃるのは私もよく分かります。訳(私の場合は「通釈」としておりますが)もまた一つの創作であり、文章表現に違いないのですから、訳す人の「思いや感情」が籠っているかどうかは大切なことだと思います。
もちろん、歌の作者がそこにどんな思いを籠めようとしたか、ということはもっと大切かもしれませんね。

今日は時間がなくなってしまいましたので、後日ゆっくり楽しみに読ませて頂こうと思います。



 「恋歌・百人一首」できました    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/08/03(水) 02:24  No.728
 
 
お陰様で、ただ今「恋歌・百人一首」のページが一応完成致しました。(一応…と申しますのは、睡魔と闘いつつ打ち込みましたので、誤字、脱字などのチェックをしないと…同じ歌人の歌が入ってしまっているかも…ですので…)
一度、寝ぼけながら保存しようとして、何をどうしたのか、44〜80首まで書いたページを消滅させてしまいまして、ショックから立ち直るのに数時間…
そんな感じで、何度か書き直しをしている内、思いや感情を込めて訳し直しながら打ってしまって、(最初のノートに書いた訳は文法や語順を必死に調べつつ訳したのですが…)こんな適当に訳してしまって良い物だろうかと…
でも、あまり、使われてる語のみに囚われて、文法もしっかり守っていると、なにやら今ひとつ心の込もっていない気がしてまいりまして…
そういう訳し方は、やはりあまり好ましくは無いのでしょうか??



 私も思い付くままに感想を    ..水垣    
      2005/08/02(火) 00:23  No.727
 
 
 消えゆくもかすむもわかず峰の雪色うすくなる春雨のそら

多分この歌は、かなり長時間にわたって峰を眺め続けているという想定で作られているのではないかと思います。雲を見ているうちに日が暮れてしまったとか、昔の人は悠長でした。
意味を辿ってから、時間を再構成して、やっと景気が浮んで来る、といった歌ではないでしょうか。

 しづ枝まで志賀の浜松波越えて水うみひろき五月雨の比(ころ)

上句は金葉集あたり、すなわち平安後期の歌によく出てきそうな叙景です。

   金葉集135  五月雨をよめる    参議師頼
 さみだれに沼の岩垣みづこえて真薦かるべきかたもしられず

基綱の歌では、まるで映画のクローズアップからロングショットへの転換のように、松の下枝を濡らす波から湖の全体へと、場面転換が鮮やかです。そこが中世の和歌らしいところでは。

 夜をこめてたつ秋霧の朝じめり紅葉のおくもふかき山かな
>「秋霧の朝じめり」という頭韻がぴったりした歌ですね。下句「紅葉のおくもふかき山かな」も余韻があるしイメージも鮮烈に喚起させる。紅葉よりその奥の山の木々の方に焦点があるのもゆかしい。

ご感想に共感します。鮮やかに紅葉する木々の奧には、湿気にぼんやりと霞む森が深々と続いている。上句から下句への展開が一層手の込んだものになっていて、「水うみひろき」の歌から更に一歩深化している作り方ではないでしょうか。



 思いつくまま姉小路基綱    ..逸爾散士    
      2005/07/31(日) 23:11  No.726
 
 
 やまとうたブログのほうにも少し感想を記しましたが、姉小路基綱の歌はいろいろ連想を喚起させてくれました。

 消えゆくもかすむもわかず峰の雪色うすくなる春雨のそら

 雪積もる峰だから初句の「消えゆくも」と照応しますが、ただの山の峰が春雨に煙るだけより面白い。でもイメージは浮かびにくいかも。作者の立っているところに雪は積もっているのかなと変なことが気になるのは、雪の上に雨が降るさまに一種の感じがあるから。
 下京や雪積む上の夜の雨
という句は、上五を芭蕉が据えた云々の蕉門の俳論で有名ですね。
 
 大方もあだなる花の一時をこよひの夢につくす春かな

 古語辞典で「大方」という言葉をひきました。@あたり全体 A大体のところ B普通 ひと通り C世間一般
 初句を「君がもと」とこっそり変えて後朝の歌に再利用するのは……やっぱり無理かな。

しづ枝まで志賀の浜松波越えて水うみひろき五月雨の比(ころ)

上の句はスピード感があって平安朝にもありそう。下の句はどことなく中世。「五月雨のころ」という体言止めが連歌的なのかなあ。

むらむらに花の籬(まがき)をかこふかな野べの千草にまよふ夕霧

霧を籬に見立てるのは歌の常套なのですか。絵巻物や屏風絵で雲を描いて空間処理するのも何か関係あるのか、と気ままな連想も楽しい。
和歌を読んですぐ情景が浮かぶわけにはいかないのですが、語釈や解説を頼りに霧の中に浮かぶ花を思い描くと興趣があります。

夜をこめてたつ秋霧の朝じめり紅葉のおくもふかき山かな

「秋霧の朝じめり」という頭韻がぴったりした歌ですね。下句「紅葉のおくもふかき山かな」も余韻があるしイメージも鮮烈に喚起させる。紅葉よりその奥の山の木々の方に焦点があるのもゆかしい。「侘び」「さび」という美意識を説明するのに、私ならこの下句をひきたい。

ひましらむ窓の扉の光よりまだみぬ庭の雪ぞしらるる

中原中也の「朝の歌」を連想しました。
 天井に  朱きいろいで
   戸の隙を  洩れ入る光、
 鄙(ひな)びたる  軍楽の憶ひ
   手にてなす なにごともなし。

つつまじよ硯の墨のみづからとみせし涙の色もこそあれ(卑懐集)

墨の色の薄さを思いやるとはまた繊細な恋人たち。書面に直接零す涙痕ならば誰でも気づくだろうけど。

秋たちて書きやるふみの滲むるはこぼす涙の色とこそしれ

以下の歌を剽窃(?)しました。

・・・・・・
これから淋しい秋です
ときおり手紙を書きます
涙で文字がにじんでいたなら
わかって下さい

因幡晃 「わかってください」(昭和50年)
JASRAC作品コード037-2655-0





 美豆の御牧のまこも草    ..toyohashi taro    
      2005/07/31(日) 07:08  No.725
 
 
水垣様、紫草様、ご教授ありがとうございました。
袋草紙には、ほかに記述がないようですね。文学上の言辞の見事さだけだったのでしょうか。公資が大外記を望んだときには、露骨な言及があったわけですから。しかし、なんとなく心に残るものがありますね。
当分の宿題にします。



 RE:糞葛 へくそかずら    ..水垣    
      2005/07/30(土) 23:54  No.724
 
 
>かはらふぢに延ひおぼとれる糞葛絶ゆることなく宮仕せむ

これは「高宮王詠数種物歌」と題されていて、予め幾つかの物を決めておいて、それを詠み込んで一首の歌にするという、言葉遊びの歌ですね。「糞葛」が「宮仕え」の比喩になるというトンデモなさに面白みがある歌でしょうか。
それはともかく、万葉人がヘクソカヅラのような草に目をつけて歌に残していることには、本当に驚きですね。



 RE:相模の歌に就いて    ..水垣    
      2005/07/30(土) 23:41  No.723
 
 
>さみだれは美豆の御牧のまこも草かりほすひまもあらじとぞ思ふ(後拾遺206)

この歌が歌合の場で大変な賞讃を受けた件ですが、私は「さみだれ」「みづ」「みまき」「まこも」「ひま」と、マ行音の繰り返しによる韻律の美しさに感心したゆえだろうかと思っておりました。講師が高らかに朗吟し、その声調のみごとさに「殿中鼓動」したのだろうと。

当歌合につきましては『袋草紙』のほかにも『栄花物語』の「謌合」の巻に記述がありますが、相模の歌については特に記録されていません。源経頼の日記『左経記』にも記述があるそうですが、これは私は未読です。



 糞葛 へくそかずら    ..紫草    
      2005/07/30(土) 18:37  No.722
 
 
花冠につばをつけると人の体にくっつきやすくなり、昔は子供の遊び道具になっていました。そのくっついた様子や花の中央がお灸をすえた跡に似ているため「ヤイトバナ」とも呼ばれます。    サオトメバナ(早乙女花)という呼び方もあります。
全草に悪臭があるので「へくかずら」の名がある。       

糞葛(へくそかずら)

  かはらふぢに延ひおぼとれる糞葛絶ゆることなく宮仕せむ

かわらふじにまといつき広がり乱れるくそかずら。その蔦がどこまでものびて絶えないように、私も絶えることなくいつまでも宮仕え
いたします。と言う語意になるのでしょうか。         今は雑草として見落としてしまう小さな花を万葉の人々が歌に認める審美眼には驚かされます。



 相模について    ..紫草    
      2005/07/30(土) 02:04  No.720
 
 
お題についての私の感想ですが、まこも草とは水辺に生える草の事であって相模の歌としては相聞歌ではなく珍しいですね、存じませんでした。                     toyohashi様は専門家で良くご存知の事と思いますが「栄華物語」赤染衛門著 根あわせの巻に一部始終が語られおりますのでお読み成られますと当時の状況が解り、今では考えられない豪華絢爛たるものであつたそうです。                   和歌だけでなく豪華な社交場で道具も衣装も粋を凝らし、和歌がそのようなバクグランドがあって発達したのではないのでしょうか、言い換えれば生活全体が芸術であつて、後に茶道に発展して行く 萌芽が見出されるのではないのでしょうか。
私は和歌の美しさと時代的背景、作者の存在感を眺めて仕舞う者ですから、このようなお話しに成り擬問に答えに成らずご容赦して下さい。    



 相模の歌に就いて    ..toyohashi taro    
      2005/07/29(金) 22:05  No.719
 
 
ランキングが発表になっていましたが、相模は没でしたね。ところで、さみだれは美豆の御牧のまこも草かりほすひまもあらじとぞ思ふ(後拾遺206)ですが、袋草紙によると、「この歌講じ出づるの時、殿中鼓動して郭外に及ぶと云々」とあるそうですね。どうして、そんなにどよめいたのでしょうか。五月雨の歌にしては明るいイメージで、その転換が見事というにしては大げさだし、
私は勝手に思ったのですが、万葉の蒲生野の故事を思わせるものがあったのではないか。一座の人たちの口の端に上る何事かあって、それを相模が逆手に詠んだ。相模は恋多き女性だったというし、そんな記述はありませんか。



 サイト内検索キーワード ランキング七月分    ..水垣    
      2005/07/28(木) 00:06  No.718
 
 
今月分のCoCoDa e-Xpressのサイト内検索の履歴レポートです。
久々に小町のトップ返り咲きです。小町・貫之・定家・人麿が当サイトではやはり「ビッグ4」ということになりそうです。(なお、「こまち」「つらゆき」など平仮名検索は今回計上しておりません。)

46  小野小町
45  紀貫之
36  藤原定家
30  柿本人麻呂
27  七夕
19  紫式部
18  西行
17  和泉式部
15  額田王
11  式子内親王
11  夏
10  在原業平

季節の風物では七夕・天の川のほか、五月雨、朝顔、蝉、夕立などが目につきました。



 無題    ..水垣    
      2005/07/28(木) 00:05  No.717
 
 
嬬澤乃 そら様

リンクありがとうございます。
「ガンガン更新…」とのこと、期待しております。
関東では台風一過の後、また猛暑が戻りそうです。
お互い夏バテに気をつけて過ごしましょう。



 無題    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/07/26(火) 02:04  No.716
 
 
 >私のリンクの件は全然お急ぎにならなくても…。

えっと…貼らせて頂きました♪ m(__)m

自他共に認める、『せっかち』なもので・・・笑

ありがとうございます。
ガンガン更新し・・・たいと…

                    っつ
今後もお世話に(勝手に)なります。m(__)m

暑い日がまだ続きますので
御身体、お気をつけてお過ごし下さいませ。



 無題    ..水垣    
      2005/07/24(日) 21:19  No.715
 
 
嬬澤乃 そら様
私のリンクの件は全然お急ぎにならなくても…。
ともあれサイト更新がんばって下さい(私も今「奮闘中」です)。



 長蛾子→長娥子    ..水垣    
      2005/07/24(日) 21:17  No.714
 
 
ryo様、はじめまして。当サイトがお役に立っているとのこと、幸いに存じます。
誤りのご指摘をありがとうございました。『続日本紀』に「長娥子」とあり、こちらが正しいことは間違いないようです。先程訂正しておきました。
「お節介」などとんでもないことで、こうしたご教示は本当に助かります。個人の力ではどうしても限界がありますので…。



 ありがとうございます    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/07/24(日) 18:59  No.713
 
 
では、さっそく!♪

今夜からでもページ作成に奮闘します〜。



 無題    ..ryo [URL]    
      2005/07/24(日) 18:51  No.712
 
 
管理人様、失礼致します。
いつも「はるのゆき」の伝記を学習に利用させて頂いています。
長屋王について調べていた際に、漢字間違いが見受けられましたので、
お節介ながらご指摘させて頂きます。

長屋王のページ
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/nagaya.html

藤原長蛾子との間に安宿王…、
とあるのですが、長蛾子(ながこ)は、虫の蛾でなく、
正しくは、女性の容貌の美しいさまを表す
「娥」の長娥子(ながこ)かと思われます。



 RE:鬼百合が咲きました    ..水垣    
      2005/07/24(日) 00:47  No.711
 
 
紫草様

今日は町のあちこちで鬼百合を見かけました。「鬼百合の日」と名付けたくなる程でした。なるほど大暑を告げ知らせる花でもあったのですね。
二十四節気と七十二候についての分かりやすいご解説をありがとうございます。
暑さはこれから本番と思っておりましたが、二十四節気によれば八月七日が立秋。もう間近ですね。



 RE:はじめまして    ..水垣    
      2005/07/24(日) 00:40  No.710
 
 
嬬澤乃 そら様、はじめまして。こちらこそどうぞ宜しくお願い申し上げます。
リンクの件、わざわざお知らせありがとうございます。もちろん問題ありませんので、どうぞご自由にお貼りください。

「独訳HP」とありましたので、独逸語訳?とビックリ致しましたが、「独」力「訳」ということなのですね。私も和歌はほとんど独学です。
貴サイト、後ほどゆっくりと拝見させて頂きます。



 RE:幾夜ねざめぬ 須磨の関守    ..水垣    
      2005/07/24(日) 00:39  No.709
 
 
紀州の姫様

>元々この三ヶ所のイメージは、私に取りましては海水浴(潮干狩りも)なのです。

こういうお話を聞かせて頂くのも大変ありがたく存じます。
須磨を訪れた日は梅雨晴れの暑い日で、海辺には色とりどりのパラソルが開いていました。白い砂浜が眩しく、波は穏やかで、まことに好個の海水浴場と見えました。

 須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我はするかも

という歌が万葉集にある位、昔から都の人には製塩の地として知られていたようですが、源氏物語で光源氏の流謫の地とされて以後…といったようなことは、もうきっとお調べでしょう(笑)。

この週末、旅先で撮った写真を整理したりメモを書いたりするつもりだったのですが、今日はまた遊びに出掛けてしまって、まだ何も手をつけていない状態です。明日こそは何とか…。



 鬼百合が咲きました    ..紫草    
      2005/07/23(土) 20:21  No.708
 
 
今日は二十四節気の大暑になります。
 庭に植えた鬼百合が咲きますと大暑ですよと、私の家では教えてくれます。
ここ五年位の花日記を見ましても、殆ど差異がなく咲いてくれます
植物って可愛くて不思議ですね、ちゃんと時候を知らせてくれるのですから。!!!
ご存知の事と思いますが二十四節気は古代中国で、太陽の動きをもとに一年を二十四等分し、季節の変化を示す基準点として考案された。
中国の黄河流域の気候に基づいているため、日本の気候感とは若干ズレがあるが、半月ごとの季節の変化を示すものとして日本の風土にも、根付いています。
二十四節気をさらに三つに分けて、ほぼ五日ごとに時節の推移を表したものが七十二候で、漢文で表現している。           
   初候―桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)    
大暑 次候―土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)      
   末候―大雨時行(たいうときどきにふる)
 
具体的で興味深いものが多い。中国から伝来したものを江戸時代に
暦学者、渋川春海「1685年」が日本の風土に合わせ現在に伝わっています。    



  
  
  



 はじめまして    ..嬬澤乃 そら [URL]    
      2005/07/23(土) 01:01  No.707
 
 
 突然失礼致します。
 今月、悪戦苦闘しつつ、古典の独訳HPを立ち上げました。現在は『万葉集』と『古今和歌集』を少しずつ日々更新中です。近いうちに、HP作成前にノートに書いた『恋歌百人百首』のページを増やそうと思っておりますが、『小倉百人一首の恋歌43首』以外の57首をこちらのHPから多く書き出させて頂き、また、参考にさせて頂いておりましたので、HPに載せるに際しまして、私のHPの「参考資料一覧」にこちらのHP『千人万首』のリンクを貼らせて頂きたいのですが…よろしいでしょうか?
 手持ちの資料も乏しく、完全独学の文法なども勉強しつつの(一応)お恥ずかしい訳ですので、お時間のあります時にご覧になって頂き、ご指摘やご指導など戴ければ光栄です。
 宜しくお願い申し上げます。



 幾夜ねざめぬ 須磨の関守    ..紀州の姫    
      2005/07/22(金) 12:22  No.706
 
 
水垣さまへ
考えてみましたら、先日はご旅行(歌枕)についてのお尋ねは何もせず、水垣さまのお優しさに調子に乗って要らない話ばかりしてしまったような気が致します。失礼致しました。
今頃、明石、須磨、淡路を調べています。(今頃これでは“常連”の名に恥じますね・・。(^^ゞ)

元々この三ヶ所のイメージは、私に取りましては海水浴(潮干狩りも)なのです。
子供の頃は毎年このどこかに連れて行ってもらい、淡路の時は海釣りにも行き、小さかった私は小舟にひどく船酔いしましたが、波の音と紺碧の空だけは良く覚えております。(その頃はどこを見渡しても大橋はなく・・)

尾崎放哉の事は今回初めて知りました。
そして、須磨は風光明媚な地として古くから多くの歌人俳人を魅了したことも知りました。またまた、勉強させて頂きました。


淡路島 かよう千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守

水垣さまの旅行記がとても楽しみです。(^.^)



 須磨    ..水垣    
      2005/07/22(金) 00:32  No.705
 
 
私は不幸にして源氏物語にも花にも興味がありますけれども、人様が興味を持って当然と考えていることに、全く興味が持てず、非難を受けることはやはりあります。そんな時には、私も

>興味をもてないのだから仕方がない。

と、開き直っております。

須磨は関守神社を探しあぐねてちょっと道に迷ってしまったのですが、お蔭でなかなか風情のある路地を歩くことなど出来ました。時々海も望まれたりして、気持の良い町でした。



 源氏物語、でしたか    ..toyohashi taro    
      2005/07/21(木) 10:29  No.704
 
 
明石、須磨、淡路のご旅行でしたか。
「源氏物語」ですか。私は源氏を読んだことがない、などと短歌の友人たちに打ち明けると、とたんに低能を見るような目つきをされる。おまけに花の名を知らない。よく、それで歌なぞを作るなと、厚かましさを持て余すような扱いを受ける。時にはわれながら情けないと思うものの、興味をもてないのだから仕方がない。須磨には行ってみようかと思うことがあります。カミサンと最初に行ったのが須磨でしたから。



 尾崎放哉    ..水垣    
      2005/07/21(木) 00:51  No.703
 
 
>八重葎様

その番組は存じませんでした。
放哉の須磨寺時代は短かったようですが、転機となって、素晴らしい作品が続々と生み出されるようになるのですね。それで大変関心があったのです。
もっとも放哉のことは大して良く知りません。ただ、春秋社の『尾崎放哉全句集』はここ何年も身辺から離せずにいる本の一つです。



 百人一首評解の相模の歌    ..水垣    
      2005/07/21(木) 00:29  No.702
 
 
>toyohashi taro様

お返事遅くなりました。
以前こちらの掲示板で話題になりました石田吉貞「百人一首評解」を入手されたとのこと。期待に違わぬ書物だったようですね。
相模の頁を読み直して見ましたが、定家の妖艷を愛した石田博士ならではの鑑賞文を改めて楽しく味わいました。



 ありがとうございます    ..八重葎    
      2005/07/20(水) 12:42  No.701
 
 
水垣様

いつもあたたかいお言葉をいただき
ありがとうございます。

昔NHKでしたか、花へんろという番組で
小豆島における放哉の最晩年が描かれていた
ことを思い出しました。
小豆島に渡る前、放哉は須磨寺にいたようですね。

調べましたら、その年頃がちょうど今の私と同じ
くらいなので、いろいろ考えることがありました。

水垣様にはいつもいろいろ教えたいただき
本当に感謝しております。



 旅の名残    ..水垣    
      2005/07/20(水) 00:03  No.700
 
 
皆様、旅行のご報告に早速のレスを有り難うございました。

>紀州の姫様
こちらこそ有り難うございました。何から何まで気を遣って頂いて、痛み入ります。
猛暑の一日でしたので、ビールが本当に美味しかったですね。私の方は、調子に乗ってさらに焼酎など頂いてしまいましたが。
あまりお強くないと仰いながら、紀州の姫様の綺麗な飲みっぷりも忘れがたい思い出です(笑)。

>八重葎様
お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。
淡路島はわずか半日、北端の絵島と松帆の浦という歌枕を巡るだけの慌ただしい旅となってしまいましたが、得るところはありました。
舞子から高速バスで明石海峡大橋を渡り、帰りは淡路の岩屋港から高速船で明石へ向かいました。吊り橋はやはり壮大で美しいものですが、もはや人麻呂の感慨を追体験することは難しくなってしまいましたね。
八重葎様もお酒はいける方なのでしょうか。ぜひ一度ご相伴にあずかりたいものです。

>むらじ様
ヒッチコックの映画だったでしょうか、橋の袂から金門橋を撮ったシーンがありまして、それを思い浮かべながら写真を撮りました。お褒めにあずかり嬉しく存じます。
久々の一人旅でしたが、今回は何より人との出会いが印象に残る旅となりました。

>ひよきち様
こんばんは。
こちらこそ、お忙しい中お時間を割いて頂き、有り難うございました。旅の最後の日が楽しく充実した一日になったのも、すべてひよきち様のお蔭です。
私の方はむしろ元気になって帰って来たくらいですが、ひよきち様こそお疲れでしたでしょう。梅雨明けて息つく間もないこの暑さ、くれぐれもご自愛下さいませ。

初めてお会いして、お互い同じような印象を受けたというわけですね(笑)。

写真は須磨寺の尾崎放哉の句碑です。今回の旅で何としても訪れたかった場所の一つでした。

 こんなよい月をひとりで見て寝る



 恨みわび    ..toyohashi taro    
      2005/07/19(火) 13:29  No.699
 
 
たしかに作品がそうあれば、そのように解釈する以外にないのですが、「恨む」とは必ずしも不実な男を恨むのではなく、恋の渦中にいるものは、あれを想い、これを思う、そのすべてが相手に理解されないことを嘆く、それを恨むというのではないでしょうか。お互いの要求が自然に高くなる。それがアチラにどうも分かっていないと「わぶ」る。だから作品の表現としては<恨む>とか、<わぶ>とか、いささか強い言葉になるのですが、言葉の一つ一つではなく、続き柄そのものでなく、そこに流れている抒情を、われわれは理解しないといけないのでしょうね。そういう人間の可愛らしさ、美しさ、いとしさ、それを伝えるために日本人はこの詩形を選んだのでしょう。
紫草様、ご教授ありがとうございました。



 常連です2(^^ゞ    ..ひよきち    
      2005/07/18(月) 22:41  No.698
 
 
水垣さま、こんばんは。

この度のご旅行、大変にお疲れさまでございました。

また、水垣さまに初めてお会いでき、とても嬉しく
大切な思い出となりました。
貴重なお時間を誠にありがとうございました。

私も紀州の姫さまにならいまして
ご報告させて頂きます♪

皆様、水垣さまは
笑顔のとても素敵な方でいらっしゃいました(*^_^*)






     ..むらじ    
      2005/07/18(月) 20:18  No.697
 
 
すんごく、よく撮れていますね。(^^)
てっきり金門橋かと思いました(金門橋は赤いですけど・・・笑)
ご旅行、楽しかったようで何よりです。



 夏の旅行    ..八重葎    
      2005/07/18(月) 20:07  No.696
 
 
水垣様 皆様
お久しぶりです。
水垣様 淡路島の旅いかがでしたか?
小生も昨年、写真にある橋を渡って淡路に渡りました。
故人が様々にうたった海峡を橋の上から眺めつつ車で
通過するということに文明の便利さに感謝しつつも
何か失いつつある感が強かったです。

そうですか、私もいつか水垣様とお酒を酌み交わしたいと
念願しております。



 常連です(^^ゞ    ..紀州の姫    
      2005/07/18(月) 19:02  No.695
 
 
水垣さま、兵庫県南部のご旅行お疲れさまでした。
そして私にも楽しいひと時を共有させて頂き、本当に有り難うございました。
で、皆様・・・、水垣さまはお酒が結構いけるという事が解りました!
ご報告まで。(^o^)



 旅行して来ました    ..水垣    
      2005/07/17(日) 23:47  No.694
 
 
留守中にもゲストブックにご投稿ありがとうございました。

須磨・明石・高砂などを巡る旅行をして、昨晩帰宅しました。
予定の歌枕を巡り得ただけでなく、旧友と旧交をあたためたり、ネットで知り合った方と初めてお会いしたりと、毎日楽しい出会いがあり、大変充実した旅行となりました。当掲示板の常連さんでは、紀州の姫様・ひよきち様(落合晴水様)のお二人にお会いすることができました。温かいおもてなしを頂きまして、まことに有り難うございました。

当ゲストブックでは管理人がなかなかしっかり取り仕切れない状態が続き、申し分けない気持でいっぱいですが、今後ともご愛顧頂けましたら幸いに存じます。

写真は淡路島側より眺めた明石海峡大橋です。

 天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ



 toyohasi taro 様       ..紫草    
      2005/07/17(日) 02:23  No.693
 
 
相模について
権中納言定頼とは親しい仲であったらしい。源頼光の養女になり、
相模守公資と結婚したので、女房名を「相模」と呼ばれた。
題詠の歌は[後拾遺集]に記し切実な体験を詠んだものであることは
疑うことはないらしい。
女の恋心を、詠んだもので、古来さまざまの説があり、
(1)涙にぬれた袖は朽ちやすいものだのに、その上恋のために 浮名を流しては、我が名も朽ちるであろう。という意味と、
(2)袖さえ朽ちずに残っているのに、我が名は朽ちてしまうと
悲しんだのと、両方に解釈されるので、             そうわり切らずに、男を恨み、浮名の流れる事を、涙に袖が乾く間も無く、悲しんでいる。
と、解した方が余情がありますね。古歌は現代歌のようにはつきり
表現しない、ところに情緒さがあり人の心によって解釈して宜しい
のでわ無いのでしょうか。
 歌の中から自然に語りかけてくる叙情性を待つた方が美しいですね。!!!   (白洲正子著私の百人一首)より一部引用



 百人一首評解    ..toyohashi taro    
      2005/07/16(土) 17:15  No.692
 
 
念願の本を手に入れました。
石田吉貞「百人一首評解」。<恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ>相模 この歌について、
「このような歌の美しさの分からない人が、近頃の人には多いのではあるまいか」。こういう話こそ私は読みたかったのです。美しい歌というものは叙景歌だけではない、抒情の歌の線の美しさを、私は上げたい、と彼は言う。いい話ですな。



 今日は祇園祭・宵山    ..紀州の姫    
      2005/07/16(土) 15:29  No.691
 
 
>紫草さま
あの時の“祇園守”の真っ白で清楚な姿は、周りのバランスの悪さをも圧倒し、一際美しく咲き誇っていました。強く心に残っております。
何度もご教示頂きました紫草さまにも、そしてこのように学ばせてもらった“祇園守”にも、深く感謝です。

昨日もお稽古で京都に参りました。
京都は今、祇園祭でどこも活気があり賑わっております。
横道の古い町並みにあります小さなお店のウインドウに、籠に生けられた木槿がとても涼しげで、しばし見入っておりました。
木槿は、私にとって忘れられない茶花となりそうです。



 紀州の姫様へ祇園守ついて    ..紫草    
      2005/07/16(土) 01:06  No.690
 
 

 花  風船葛 薄桃色桔梗 矢筈薄

 花入 古信楽 蹲 


 花生け祇園守の写真を拝見いたしましたが、茶会に主席なされ、 白色槿に清涼感を味あれた由、満足感にしたって居られるご様子 でしたのでコメントを控えましたが、前回のお話でお気持ちが判 りましたので遠慮せず申し上げます。
 茶花を入れるのにも基本があり、決まり事が有る旨、申しました が、その意を述べますと書面が足りませんので遠慮させて頂す。 要点のみ申し上げますと。
、(1)花入れが丸い場合いは敷板(薄板)は長方形を使う、其れ が丸と丸である 
 長方形の場合いでも(真塗矢筈板、真塗蛤端、木地蛤端、丸香) 真、行、草、によって使用が違う。
 (2)写真では良く判りませんが、京焼の飴黒釉薬花入れと思い ますが、行、草に当たりますので、花の入れ方が決まって参りま す。主の花を根締めに使うので今回は木槿が主ですから根締にな り、それが崩れて無く失われている。
 (3)主花を引き立てる為に添え木(添えと言いますが)花入れ から3〜5cm位根締、添えが一直線なると美しいのですが三本  バラバラです。
 この亭主さんは茶花の入れ方を知らない方と思いました。           
 私も華道の専門化では有りませんので、茶花として学んだ知識で す。花を生けるて、怖いですよ、人間性、美的感覚、深淵知識、 まで、表現してしまうのですから、でも之からですよ!!    始めて一年とか、流派に囚われず良き師匠を選ぶ事を望みます。  饒舌を申し上げ失礼をお許し下さい今後何か御座いましたら  遠慮なくお話下さい、水垣様も、皆様に自由にお使いをと申され ておりましたので、では又の機会をお待ちいたしております。 



 有り難うございます    ..紀州の姫    
      2005/07/15(金) 07:59  No.689
 
 
>紫草さま
色々ご教示頂き有り難うございます。感謝で御座います。
私はまだ、お茶席のお花を生けさせて頂く事はございません。
茶道においても初歩で、お手前させて頂くのがやっとでございます。

私は、床の“祇園守”を拝見した時、思う所がありました。
しかし、この感じた事が正しいのか違うのか、初心者はそれを口にする事はなかなか出来ません。
この写真をここに添付する事にかなり躊躇しましたが、北田完一様や紫草様のようにお花に造詣が深い方が拝見されたら、どう思われるかしら?とも思いました。
こうして紫草様のお言葉頂き、私なりに感じていた事が解消致しました。

私にとって、茶花の勉強はこれからです。
北田完一様や紫草様の花のお写真を拝見させて頂き、その中から少しでも学んでいきたいと思います。
ご教示頂きました事、又ため息の出るような素晴らしいお花も拝見させて頂きました事、本当に感謝しております。有り難う御座いました。m(__)m

>むらじさま
一票頂き、有り難うございます!・・って、これは余り有り難くないのかな?(^^ゞ

>でも、見ていてきれいで、心を洗われるだけでも素晴らしいですよね。(^_^)

私も追っ付けないながらも、水垣さまのお撮りになられた野のお花を 同じ気持ちで拝見しております。(^.^)



 紀州の姫様へ    ..紫草    
      2005/07/14(木) 16:33  No.688
 
 
  花   擬宝珠(ぎぼうし) 風船葛
  花入  蛇の目かご


茶の湯の世界は、季節感を尊ぶのと同時に、簡素美にあると思います。茶花も同じように出来るだけ簡素に軽やかに活けます。   そのためには、日々の暮らしの中で、四季折々の風物や自然界での草花への観察が、大切になってきます。また花との対話、自身の 美意識の高揚とセンスなど、含まれて入るのではないのでしょうか「夏は涼しく」「冬暖かく」「花は野にあるように」という利休の言葉は、難しい意はさておいて、自然感を尊ぶ茶の心の根底であると私は思います。茶に限らず、暮らし全般の中に無駄お省いて、 簡素で清々としたものを生かしてこそ、より豊かな人生を送れるのではと。                          茶の心を通して感じます。茶の湯にも茶花にも決め事が沢山ございます、流儀、流派によつて多少異なりますが「64の流儀、流派があるそうです」 基本とはを、学び知る事によって、宜しいのではないでしょうか。
紀州の姫さまにこんな説教じみたお話をしてしまい失礼をご容赦して下さい。今度素晴らしいお花を見せて下さい、楽しみにしております。  



 無題    ..むらじ    
      2005/07/14(木) 07:39  No.687
 
 
>紀州の姫様
>実はblogの花について歌について、
>私の能力では追っ付けないのですが・・・(;_;)、
↑このお言葉に一票です。^^;
でも、見ていてきれいで、心を洗われるだけでも素晴らしいですよね。(^_^)



 祇園守(木槿)    ..紀州の姫    
      2005/07/12(火) 10:08  No.686
 
 
>紫草様
木槿のお話を拝読し、先日平安神宮お茶会でのお花を思い出しまた。
デジカメに一枚写真がありましたので、添付致します。
京都この時期に相応しく、「祇園守」が生けられておりました。

>茶の湯を嗜みながら床に生けられた一輪のむくげは涼をよび清楚な美しさを漂わせてくれます。

本当にこの通りでして白色の木槿が床に良く映え、その中でお手前をさせて頂きました。

>北田 完一様
茶道歴浅い私はお茶に関する事もまだまだですが、それ以上にお花の事はもっと出来ません。
いつも、生けられている花のお写真を拝見する度に、その凛とした美しさにため息をついております。

>水垣さま(最後になりましたが(^^ゞ)
いつも、やまとうたblogを拝見させて頂いております。
実はblogの花について歌について、私の能力では追っ付けないのですが・・・(;_;)、でも楽しませて頂いております。
雷電ちゃんのお写真は、特に楽しいですね。(^_^)



 槿花一日自為栄    ..逸爾散士    
      2005/07/12(火) 09:37  No.685
 
 
 木槿に寄せて・・・
 白居易(白楽天)の『放言』詩の対句、「松樹千年終是朽 槿花一日自為栄」は、古くから日本でも親しまれていますが、藤原公任と白楽天は同じ花をイメージしていたのでしょうか。

 以前うち庭には宗旦木槿(底紅)があって、兄や嫂たちがお茶のお稽古のときに使っていたけど、いつの間にかとぼれてしまいました。
(私の兄は一時、茶花を習っていて、庭に紫式部や一人静も植えたあったのだけど、それも今はない。思えば有為転変です)
 底紅は近所で見かけるから、うちの庭のもどこからか来たのかなあ。引越して来た時にはあったから。


 一昨年、仲間と川崎の桜本で在日コリアンの歴史について話を聞く機会がありました。夕刻になってセメント通りに焼肉を食べにいったら、途中の道に街路樹として木槿が植わっていました。
 一世の、特に八十歳近い女性は故郷でも学校にいけず、こちらに来ても生活に追われて字を習うこともままならなかった。ハングルも日本語も読み書きできないで、今、識字教室に通っている。という話を聞いていたので、「木槿をみておばあさんたちは故郷を思い出すのかな」と思いました。その思いを漢詩にはしたけど、和歌で詠むことは考えませんでした。
 文字を覚える余裕もなく生きてきたおばあさん達のことを思うと、和歌や漢詩を作って悦にいっててもしょうがないけれど、夕日に木槿の白い花が照らされているさまはとても美しかった。
 木槿の美しさのように、苦難にみちたおばあさん達の一生も自ずと栄を為した、その尊厳を和歌に詠めればいちばんいいのですが……。
 

 



 むくげ (木槿)      ..紫草    
      2005/07/10(日) 15:20  No.684
 
 
タイトルを変更いたします。


 無題    ..紫草    
      2005/07/10(日) 15:13  No.683
 
 
 
梅雨も明けるのでしょうか庭にある、むくげ「木槿」の花が咲き出しました。     「槿花一朝の夢」と例えられ、花の寿命は一日で終わり、儚い侘しさが漂うからで 
また、この花を国花として尊ぶ朝鮮半島の国、一書には朝に鮮やかに咲く花の国だから朝鮮だとあり、その名を「無窮花」が「ムグンハ」となつたとの説もある。
冬の椿に対して夏の木槿と言われる程、むくげ は椿と並ぶ茶花の雄である、それわ  
むくげ の花が明け方に咲き、夕べに萎んで「槿花一朝の夢」を具現しているゆえで、
それが侘びを求める茶の湯の世界に合致しているからであるのでしょう。
万葉時代には朝顔(むくげ)別名「はちす」ともいった。一重または八重の紅紫,淡紫、
青紫、白色など多数あり、中でも底紅の宗旦、白色の遠州、祇園守、など茶の湯では好まれよく使われます.清純,明澄、を思わせる花だからでしょう。

  言に出でて言はばゆゆしみ朝貌のほには咲き出ぬ恋もするかも

言葉に出して言ったら壊れそうだから、朝貌の花のように人目につく振る舞いは慎んで、
私はひっそりとあなたのことを思っているんですよ。 との意になるのでしょうか。
 茶の湯を嗜みながら床に生けられた一輪のむくげは涼をよび清楚な美しさを漂わせてくれます。



 無題    ..北田 完一    
      2005/07/08(金) 15:42  No.682
 
 
桔梗を牽牛星に見立て姫ゆりを織女星に照らして見ました。


 夢幻泡影な七夕    ..北田 完一    
      2005/07/08(金) 15:16  No.681
 
 


  花  桔梗 姫ゆり
                     
  花入 李朝白磁 扁壺


笹の葉を飾らないで、牽牛星と織女星とを連想し平資盛と右京太夫を偲んで花を挿してみました。
 夜空を見上げても星の姿など都会では見えなくなってしまった。もっとも現在の七夕
の頃では、まだ天の川も、物語の主人公の星達も、夜空に神秘な光をはなってはくれない。八月も末頃になってようやく七夕の夜空の景色となり、季語では七夕は秋の季語になっている。ご存知の事と思いますが七月七日は五節句の一つとして古くから宮中の節目として重く見られてきました。七夕行事は中国の二星相会話譚の故事によります。
「准南子」には、天帝の怒りに触れて年に一度しか逢うことが許されず、天の川をへだてて、東に牽牛、西に織女が現れて、かささぎの羽の橋を渡って七夕の夜には逢瀬が
かなうと記されています。
 天の川を挟んで牽牛星(アルタイ)織女(ベガ)が年に一度の逢瀬を迎えることが
出来るなんて・・・ロマンに満ちた物語に惹かれ多くの詩歌が残されています。
 歴史は古く中国の周〜後漢時代に遡る。この頃より語り継がれ、日本には奈良時代に
伝わり日本書紀、万葉集に記され山上憶良の歌として詠まれている。
    「ひさかたの 天の川瀬に 船浮けて 今夜か君が 我がり来むさむ」
紀貫之は「七夕は いまやわかるる 天の川 川霧立ちて 千鳥鳴くなり」ああ
となり時代は下り寂蓮法師の歌はもっと稠密で艶を帯びてくる。
    「七夕の 逢ふ夜の庭に おく琴の あたりにひびくは 細蟹の糸」
また古今集秋上には
    「契りけん 心ぞつうき 七夕の 年にひとなび 逢ふは逢ふかな」
この様になって来る、何と言っても命をかけた歌は健礼門院右京太夫と平資盛と交わした詠で哀愁に満ちた恋慕の感情が伝わって来る。七夕を想う相聞歌の中では濃密な歌ではないでしょうか。
    「心にも 袖にもとまる 移り香を 枕にのみや 契りおくべき」
    「彦星の ゆきあひの空を ながめても まつこともなき われぞかなしき」
    「契りける ゆえは知らねど 七夕の 年にひと夜ぞ なほもどかしき」
    「浦やまし 恋に堪へたる 星なれや としに一夜と 契る心は」
    「よしやまた なぐさめかはせ 七夕よ かかる思ひに まよふ心を」
平資盛が絶命した後も右京太夫の思いは醒めることなく、尼僧になり一命を送るまで
つづいたとされる・・・。このような歌は百数首に及び壮観である。
 遠く離れた宇宙の彼方に思いをよせる程の恋は、残念ながら経験することもなく終わってしまうのかと思うと夢幻泡影でならない。願わくば夢幻の彼方へつれて行って欲しい欲望に駆られる。
 今宵は西王母と織女を招き乞巧奠(きっこうでん)に供え物をしてから、小野小町を
誘い関寺に七夕祭に行こうかな!!!



 ありがとうございました    ..kenichsberg [URL]    
      2005/06/28(火) 21:24  No.680
 
 
むらじさま、水垣さま

こんにちは。kenichsbergです。
まず私の稚拙な発想に早速のご批評をいただきましてありがとうございました。

お二人のご批評を受けて、自分でも改めて考えてみましたが、この件について拙速な結論は出せないように思いました。

やはり『東大寺要録』の東大寺本そのものにあたらなければなりませんね。
『国書総目録』でも調べてみたのですが、東京大学史料編纂所が東大寺本の影写版を持っているようです。
ただ私は関西在住なのでこのために東京まで行く訳にも行かないし、仮に行っても一個人などに見せてはくれないでしょうし・・・。
休日に東大寺図書館にでも行って相談してみようかなと思っています。
いずれにしてもじっくりとやります。

それからむらじさまからご紹介いただいた佐伯有義編『日本後紀巻下』も見てみました。
確かに「婬」でした(汗)。
ただ佐伯氏は、『東大寺要録』の引用にあたって、どの本を底本にしたのか明記していないので、この点で多少信頼性に欠けるところはあります。

それでもこれだけ大先生方が「婬」だとしているのだから、やっぱり「婬」なのかなあ。
もうずっと以前にこの文字の読みは専門家同士の議論で確定していて、それを私が知らないだけなのかもしれません。
だとすれば、いい恥さらしです・・・(^ ^;
問題提起のために自分のホームページの記事は残しておきますが、過激な表現はやめました(笑)。

結論がどうなるにせよ、今回の件では自分としてもずいぶん勉強になりました。
最後に改めて深く感謝申し上げます。

また何かわかったら書き込みさせていただきます。では失礼いたします。



 逸爾散士 さま    ..むらじ    
      2005/06/28(火) 08:28  No.679
 
 
「学びて思わざれば即ちくらし」とも申しますね(笑)。
和歌に応ずるに都都逸をもってする掛け合いの妙、恐れ入りました。
後世の受容、というのも重要な視点ですね。
和歌にちなんだ都都逸、狂歌、川柳などに触れることで、解釈の幅もひろがり、和歌もいっそう楽しめるように思います。
江戸期の文化に疎いので、いろいろご披露いただけると嬉しいです。



 都都逸イデオロギー    ..逸爾散士    
      2005/06/28(火) 00:39  No.678
 
 
 と、烏滸(をこ)なタイトルをつけてしまいました。
 水垣様の「都々逸はわざと雅びさを避けますね」というところから、江戸軟文学における「古典意識」というのを漠然と考えました。
 お説のように都都逸、狂歌、洒落本などなど、「わざと」古典世界の「雅なもの」を避けたり、パロディにしたりしていると思えます。逆に言えば「雅なもの」を強く意識しているともいえます。『浮世風呂』の「けり子さん」「かも子さん」には、からかう意図が感じられますが、必ずしも江戸軟文学は古典を権威として揶揄しているのではなく、親しんでかつ戯れているようです。
 その上で、それぞれジャンルに向いた事柄を表現しようとしているのでしょう。
 「雅び」という言葉、手近な『岩波古語辞典』では「宮」・ビ(らしい様子をする意)と語源を説くけど、「雅び」といった観念の発生の研究では、どういうことがわかるのかなあ。
 古典和歌は、語彙も限定してかなり狭い範囲しか詠まないようだけど、一方で「俳諧」という観念も古くからある(移入されている)わけですね。「やまとうたはこういうものを詠むべきだ(卑俗なものは範囲外)」という意識は、古人に何らかあったでしょうが、雅言の枠をずらし、たはぶれる指向も常にあったと思えます。
 雅びさを中核とする和歌の言語空間の感覚は、近代人の自分にもある程度共有されている…。考えれば不思議な気もします。

 むらじ様 こちらこそよろしくお願いします。
 なにせ、すぐに『東大寺要録』にあたれるような教養も学力もありません。
 学力がなくて、すぐに「和歌らしさ」ってなんだろう、と「思弁」に走るというのは、「思いて学ばざれば即ち危うし」なんですけどね。

 
 



 RE:酒人内親王の人物像について    ..水垣    
      2005/06/27(月) 23:44  No.677
 
 
kenichsberg様・むらじ様、こんばんは。ご教示まことにありがとうございます。

kenichsberg様、こちらこそご無沙汰致しました。
東大寺要録の酒人内親王の記事の「○行弥増」についての御意見、興味深く拝見しました。
字体に不審はあるものの、文脈から「淫」と同じと見て問題ないだろうくらいに思っておりました。私の知識の限界を遥かに超えた問題で、むらじ様のコメントに付け加えることは特にありません。
○に当たる字が《「女」扁に「遙」の右側を書く》字だとして、他に用例が見出せるか、見出せたとしてこの一文にも当てはまるかどうか、そして何より重要なのは、むらじ様が仰る通り、どのような解釈が可能か、ということではないでしょうか。



 謎の皇女    ..むらじ    
      2005/06/27(月) 19:33  No.676
 
 
>kenichsbergさま
手許にある
筒井英俊校訂『東大寺要録』昭和十八年刊 全国書房
で改めて確認してみました。いわく、
(前略)幼配斎宮。年長而還。俄叙三品。桓武納掖庭。寵幸方盛。
生皇子朝原内親王。□□□□。□□□□。□□□□。□□□□。□□□□。□□□□。弘仁年中優其衰慕。特授二品。・・・
って、肝心の部分すべて伏字になっているんですね。^^;
べつだん戦時下の統制とは関係ないらしく、紀元二千六百年(昭和十五年)を記念して朝日新聞社が刊行した「増補六国史 日本後紀」の「日本後紀逸文」には、「婬行」のほうで活字になっていました。
貴HPの玉稿も拝読させていただきましたが、文字の異同についてはこれ以上活字本に頼るべきではなく、可能な限り信頼のおける本の、現物がムリだとしたら影写本をどこかで参照されるべきかと思います。
以前個人的に、なんの縁故もない大学図書館に見たい史料を照会したところ、結論としては見せてくれませんでしたが、他に所蔵しているちかくの公立図書館を教えてくれたことがあります。
ご参考になるかどうか・・・

追伸
もっともかんじんなのは[女遥]行弥増 であった場合の酒人内親王の人となりをどう解釈するか、ということでしょうね。
「婬・・・」とするよりもやや、意味の取りにくい文章になるような気がしますが、いかがな女人と思し召されますでしょうか?



 酒人内親王の人物像について    ..kenichsberg [URL]    
      2005/06/27(月) 12:01  No.675
 
 
水垣さま、こんにちは。

kenichsbergです。もうお忘れになったかもしれませんが、過去ログを見たら、2003年10月に海上女王のことで問い合わせさせていただき、それに対して水垣さまはじめ多くの方々からの暖かいご返事いただいたことを思い出しました。

あれから1年以上たつとは、何とも月日は早いものです。

さて、ご無沙汰の非礼もわきまえず、また古代の人物に関して問い合わせさせていただくことをご容赦ください。

冒頭に書いた通り酒人内親王に関してですが、『東大寺要録』に所収されている薨伝においては、有名な「○行弥増、不能自制」という表現があって、これを多くの解説書などでは「婬行弥増」と読んでいます。水垣さまの

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sakahito.html

のページでもその読みを踏襲されているようです。

しかし私が『東大寺要録』の原文を確認しましたところ、その部分は「女」扁に「遥」の右側を書く字でありました。漢和辞典によれば、この字は「女」扁に「遙」の右側を書く「媱ヨウ」という字の俗字であって、「婬」とは別の字ということであり、そうだとすれば、「婬行弥増」という読みは正しくないのではないかと思われます。

まだ肝心の『東大寺要録』の底本となる東大寺本そのものにあたっていない(重要文化財なので見せてはもらえないでしょう)など、問題は残っておりますが、現時点では私は「婬行弥増」という通説には否定的であります。

詳細は自分のホームページにUpしてありますので、お時間のある時にでもご笑覧いただき、水垣さまのご批判ご批評を賜れると幸です。

長々と失礼いたしました。ではまた。



 無題    ..水垣    
      2005/06/26(日) 23:23  No.674
 
 
むらじ様、お久しぶりです。
意外な場面で思いがけず詩句を思い出すということはありますよね。都々逸もそうですが、昔の人はうまい言い回しをしたものだなと感心します。と言いますか、心に響く優れた言語表現だけが時代を超えて生き残った、ということでしょうか。
ちょっと精神的なショックを受けた時など、同じような心持を詠んだ歌を見つけると、何となく慰めを感じたりするのは不思議なことです。



 都々逸 星菫派    ..水垣    
      2005/06/26(日) 23:11  No.673
 
 
>恋に焦がれて 鳴く蝉よりも
 鳴かぬ蛍が 身を焦がす

聞いたことがあるようなないような。
都々逸はわざと雅びさを避けますね。どちらが高級とかいうことでなく、それぞれの詩形に適性がある、ということでは。

星菫派はちょっと調べてみましたが、与謝野鉄幹の

 星かげにすみれの露よ百合の香よわがあけぼのの道うつくしき

に由来するようですね。
明治文学にあらわれる百合は、どうも和歌の小百合・姫百合とは趣が異なります。やはり西洋文学経由ではないでしょうか。そのおおもとを辿ると、やはりカトリックに行き着くのでは、と思います。白秋の『邪宗門』などに出て来る百合はまさにそうですね。



 これも卑俗な解釈でしょうか    ..むらじ    
      2005/06/25(土) 16:49  No.672
 
 
なんとなく、間があいてしまいました。

音もせで思ひにもゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ

数年前の思い出です。
個人的にとても期待していた意欲のある女の子が会社を辞めたとき、とっさにこの歌が思い浮かびました。
周囲と軋轢があったり、理想と現実のあいだになやんだり、いろいろと思うところがあったようです。
きっと言いたいこといっぱいあっただろうに、ほとんど力になってあげることすらかなわずに黙って辞めていきました。
新しい職場に恵まれたことを後日本人から聞いて、心から良かったなあ、と思えたおかげで、いまではいい思い出になっていますが。

逸爾散士さまご披露の都都逸、はじめて知りました。
なるほど、うまいことやるもんだなあ。都都逸もあなどれないや、と思いました。
これからもよろしくお願いします。



 都都逸 附けたりユリ    ..逸爾散士    
      2005/06/24(金) 10:31  No.670
 
 
 音もせで思ひにもゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ

 こういう先蹤があったのですねえ。

 恋に焦がれて 鳴く蝉よりも
 鳴かぬ蛍が 身を焦がす

 という都都逸はたしか都都逸坊扇歌の作だったと思います。
 
 和歌と都都逸を比べて、片方は文学で芸術だというのは、クラシック音楽は歌謡曲より高級というような観念で、あてになった話ではない…と思うものの、同じ内容のこの和歌と都都逸を比べてみると、都都逸に「卑俗」を感じることも否定できない。
 何でかなあ。

 (蛇足) やまとうたブログで、百合の語源は「揺り」らしく、大きく動くことにその本色があると知り、「ああ、そうなのか」と思ったこと。
 立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花
 でいう「歩く姿」は揺れていることも表現しているのでしょうね。牡丹はどっしりと落ち着いている感じだし。

 近代になってユリが文学に多数現れるのは星菫調の影響も大きいのかしらん。
 星影に菫の花よ百合の香よわがあけぼのの道美しき(うろ覚え引用)
 が源流のひとつかなと思います。
 なぜ百合が歌に歌われるようになったかについては、西洋文明との交渉が深くなって、「林檎」とか「百合」とかR音、Y音の単語への嗜好が高まったから、という変痴気論を思いつきました。
 もちろん、ものそのもののイメージもハイカラだったのでしょう。(在来種の中にハイカラを発見したとなれば、それはそれで興味深い事例ですね)



 はじめまして>さびる様    ..水垣    
      2005/06/22(水) 00:14  No.669
 
 
ようこそおいで下さいました。このサイトがお役に立てたようで幸いです。
源重之の蛍の歌と言いますと、

 音もせで思ひにもゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ

ですね。目の付け所がちょっと変わっていて、この歌人の個性がよく出ているように思います。
一言残していって下さり、誠に有り難うございました。またお気軽にお訪ね下さい。



 RE:もぢずり  (捩摺)    ..水垣    
      2005/06/22(水) 00:14  No.668
 
 
数百本の捩摺(ねじ花)とはすごいですね。我が家の庭にも少し咲いておりますが、本当に可愛らしい花で、ネジのごとく身をよじっているのも可愛いいたずらのようで、いかなる苦悩とも無縁に見えます。それだけに眺めておりますと癒される気持が致します。
もっとも我が家の捩摺咲く庭は、犬が駆け回り穴を掘りおしっこする庭ですので、植物たちには受難の庭なのですが。

厳しい暑さの季節を迎えますが、どうぞご自愛下さい。



 はじめまして&ありがとうございました    ..さびる    
      2005/06/20(月) 10:02  No.667
 
 
水垣さま。はじめまして。
先日、たまたま、蛍のことを調べておりました。
その時に蛍を詠んだ和歌として出ていた歌の作者、源重之のことを検索しておりましたら、こちらへ誘われました。
皆様のように、歌に詳しくもなく、全くの素人で、感想なども述べられませんが、おかげさまで、武人でありながら、優れた歌詠みでもあったのだということを知りました。
その時以来、こちらのサイトを少しづつ楽しませて頂いております。
一言御礼まで。



 もぢずり  (捩摺)    ..北田 完一    
      2005/06/19(日) 16:39  No.666
 
 
もぢずり (捩 摺) 北田完一
 


 私の庭の芝生に数百本有るでしようか、(もぢずり)が咲き出しました。
 
下記にある歌とは異なる花と知りながら重ね合わせてしまいます。元来は忍草の根・葉・茎を

布巾に摺りつけて、もじれ乱れたような模様を染め出したもの、また石に布をあて摺りこんで

染めたものとも云う。主に祭りや儀式にだけ用い、その時かぎりで焼く習慣があったらしく、

装束を「小忌衣」(おみごろも)と呼んだ、中世の時代には狩衣などに着用されたらしい。
 
  
     陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに   河原左大臣(源 融)


 口訳すると女性から恨み言をいわれて言い訳をした歌で、その乱れ模様のように(あなたのほ

かの) 誰のために恋に乱れ始めてしまった私でしょうか。いや、誰の為でもありません。

みんな貴方のためですのに。源融は京都宇治にも贅沢な別荘を造り、これが後の平等院と

 なった。また嵯峨野の 清涼寺も融の別荘と伝えられ美しい石の供養塔が建っている。

  
     春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず    (在原業平)


 伊勢物語の第1段にある歌で、この歌だけ詠んでも差ほど面白くないのでは、前後の文体を理解

して歌が生きてくる。
 
口訳すると奈良の京、春日の里に狩に出かけて行った。その里にたいそう、なよ々と美しい

姉妹が住んでいた。それをこの男は隙見してしまった。思いがけなくこんな古びた里に美し

 過ぎて場所柄にふさわしくない様子で住んでいたので、男はぼうっとしてしまった。

 そこで男自身の着ていた狩衣の裾を切ってその布片に歌を書いて姉妹の所へ送った。

その時しのぶずりの狩衣を着ていたのであった。

 さて、男のこの歌は陸奥のしのぶもぢずり・・・・・の歌の心持でそれにもとづいて詠んだ

 のである。古人はこのようにすばしこい風流をしたものである。要約するとこんな文章になる

 のでしょうか。伊勢物語は能楽にも取り上げられ雲林院、杜若、井筒など世阿弥作として

 美麗な文章でつづられている。


     武蔵野の紅紫のねぢり花乱れ染めにし漂揺の露      自作


 在原業平が源融の歌を借り春日野の歌を作り風流だと云っているので私もその歌を借り(笑)

 可愛く咲くもぢずりの花を詠んでみました。齢、古き希に達し1年半前脳梗塞の病に倒れ、
 
 遁世な生活を送ればと云う人達は多いけれども、とんでもない!苛立つばかり、妄執、欲望、

 述懐などが混合し、残されたものは確実に死に近づいている恐怖の瞑想、毎日がどう生きる

 かの修羅場である。

 ねぢり花が乱れ漂い揺れ動く日々のように、それとも露のごとく消えてしまうのでしょうか?
 
こんな歌を詠じると業平の艶っぽい歌が興ざめしてしまうでしょうかな。(笑)
 
 



 RE:心敬塚    ..水垣    
      2005/06/14(火) 00:24  No.665
 
 
のりまき様、こんばんは。
心敬塚や道灌のお墓を訪ねられたとのこと。
心敬の遺跡はネットで検索してもほとんど情報がなく、見つけるのは難しそうだと思っておりました。やはり…でしたか。
連歌師の果たした歴史上の役割の大きさを考えますと、余りにも不当な冷遇と感じます。

大山山麓は私のところからもさほど遠くないので、いつかは訪ねたいと思っております。その時は質問させて頂くこともあるかと思います。こちらこそどうぞよろしくお願いします。



 心敬塚    ..のりまき [URL]    
      2005/06/12(日) 09:37  No.664
 
 
水垣様こんにちは、のりまきです。
昨日ふと思い立ち、大山ふもとにあるという心敬のお墓や庵跡を探しに行って来ました。

行ってみてびっくり、現地にはまったく案内板の類いがなく、2〜3時間里山をさまよった挙句に『どうもこのあたりではないか?』という見当しかつきませんでした。ちなみに近くにある太田道潅のお墓にはしっかりと立派な案内板が立てられておりました。道潅と心敬の扱われようの差を見て、歴史の中で脚光を浴びているのはごく一部で、忘れ去られていく営みも多いのだな……と、改めて感じました。

最近、例えば京都まで足を伸ばさなくとも、私の家の周囲でも面白い、半ば埋もれかけた歴史の足跡を探すことが出来ることに気づきました。時間のあるときにでも色々歩いて見たいと思います。
では、またよろしくお願いします。



 どういたしまして>阿部様    ..水垣    
      2005/06/07(火) 22:06  No.663
 
 
植物の名前の変遷は難問ですが、調べてみると面白いですね。
岩波古典大系の出雲国風土記を見ましたら、「白芨(草冠に及の字)」とあり、「かがみ」と訓読されていました。花が俯いて咲くので「屈み」なのでしょうか。紫蘭という名が付く以前は、漢語なら「ビャッキュウ」、和語なら「かがみの花」などと呼ばれていたのかな、と思いました。



 RE:「十六社者・・・」 リフレイン?    ..水垣    
      2005/06/07(火) 22:05  No.662
 
 
ご投稿の意図が判りかねます。>うさ様


 ありがとうございました    ..阿部 [URL]    
      2005/06/06(月) 23:04  No.661
 
 

水垣さま

いつもながらの懇切なご教示、ありがとうございました。
現在の「シラン」=「紫蘭」=「白及」が当時からあったわけですし、当時は今の「シラン」を「白及」と呼んでいて、決して「シラン」=「紫蘭」と呼んではいなかったのでしょうね。
「白及」が「紫蘭」と呼ばれるのは、もうすこし時間の経過を待たなくてはなりませんね。
室町時代には「フジバカマ」=「紫蘭」が、「白及」=「紫蘭」にとって変わられたということでしょうね。
そういう変遷に思いをはせると、なにやら、とてもおもしろく思ったりします。
今回はありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。



 「十六社者・・・」 リフレイン?    ..うさ    
      2005/06/06(月) 08:41  No.660
 
 
ちょっと 気になります 0239

0239 やすみしし 我が大王(おほきみ) 高光る 我が日の皇子の
   馬並(な)めて 御狩立たせる 若薦(わかこも)を 猟路の小野に
   獣(しし)こそは い匍ひ拝(をろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もとほ)れ
   獣(しし)じもの い匍ひ拝(をろが)み 鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り
   畏(かしこ)みと 仕へまつりて 久かたの 天(あめ)見るごとく
   真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも




 RE:和歌的 連歌的    ..水垣    
      2005/06/05(日) 23:04  No.659
 
 
>ただ時として、上の句や下の句のたたずまいが連歌の句のような屹立を感じさせます。

仰る通りです。『清唱千首』から別の例を引きますと、心敬の歌、

 辛崎(からさき)や夕波千鳥ひとつ立つ
  洲崎(すさき)の松も友なしにして(729)

この作につき撰者の塚本氏は「和歌と連歌の微妙な關聯と背反が、この一首にも感じられる。下句は脇の風情」とコメントを付けておられます。上句を発句と見れば、下句には確かに脇の親句の風情が漂います。連歌師ならではの作と言えないこともないようです。

正徹はさほど連歌に熱心ではなかったようですが、正徹における連歌の影響ということもよく考えてみたいテーマですね。



 紫蘭と藤袴    ..水垣    
      2005/06/05(日) 22:45  No.658
 
 
阿部様、お久しぶりです。
紫蘭と言えば、ちょうど今頃咲いている蘭科の紫の花がまさにそう呼ばれていますね(先日撮った写真がありますので、ついでに掲げておきます)。
ところが昔の和歌の文献を見ますと、藤袴を紫蘭と呼んでいる例があります。

       紫蘭馥     粟田口前中納言
  むらさきの色さへふかしふぢばかま
     なつかしきかに匂ふのみかは

吉野朝で編まれた「正平二十年三百六十首」という歌集の一首です。和語「ふぢばかま」が漢語「紫蘭」に当たることが明らかです。
他にも「紫蘭」の用例を探してみますと、いずれも秋の花として取り上げられているものばかりで、春から初夏にかけて咲く蘭科の紫蘭とは別物と考えるしかないようです。

ブログに紫蘭の花を載せようかと思い、ちょうど調べようと思っていたところでしたので、好都合でした。もっとも、紫蘭の花の見頃はそろそろ終りのようですが…。



  連歌師    ..逸爾散士    
      2005/06/04(土) 23:10  No.657
 
 
 すみません。正徹が連歌で世にたったかどうか知りませんのに、うかうか書いてしまいました。(彼は歌道執心の人だというけど、恨んで夢枕に立たないでほしいな) 正敬は連歌の世界
人でもあるらしいけど。



 和歌的 連歌的    ..逸爾散士    
      2005/06/04(土) 22:57  No.656
 
 
  宗祇の歌や飛鳥井雅親の歌を読んで、中世和歌と連歌との差を考えました。中世和歌は、連歌の二句、五七五の句、七七の句を並べたようだというわけではありません。中世歌人たちも連歌師として名の知られる宗祇や正徹たちも、和歌らしい調べの歌を詠んでいる。
 ただ時として、上の句や下の句のたたずまいが連歌の句のような屹立を感じさせます。
 以前、『清唱千首』の歌を抜いて鑑賞したときの題材をあげます。

  新続古今集221 夏 百首の歌召されしついでに、更衣の心を
 今朝よりは袂を薄くたちかへて花の香遠き夏ごろもかな
                      後花園院

 この「花の香遠き夏ごろもかな」を連歌の句としてみることもできると思うのです。

  花の香遠き夏ごろもかな
  今朝よりは袂も薄くたちかえぬ
  
 全ての三句切れの歌を転倒させて連歌風にはできないでしょう。「花の香遠き夏ごろもかな」という句が句の形として、とても完結していると思えます。「たちかえて」と「て止め」にしても次の句を呼び出しそう。

  慕風愚吟集 応永二十八年十一月  玉津島社毎月法楽の百首に、冬阿達原
 時雨さへ阿達の原となりにけり檀の紅葉もろく散る頃
                     尭孝

 上の句のあいまいな内容の三句止めを、ぴたりと決まった下の句が受け止めている感じがします。

 こうした歌は一首全体の完成度が低いわけでも、統一感がないわけでもない。でも、下の句に別の上の句がついてもおかしくないし、いろいろな上の句を受け止められる句、いろいろな句を呼び出しそうな句に思えます。

 きょうは一日、米軍基地のウォッチングなどという紅旗征戎な野暮用で歩き回ったので、付け句を案じる気力がありませんが…。
 
 

 



 「紫蘭」について    ..阿部 [URL]    
      2005/06/03(金) 23:38  No.655
 
 

水垣さま。

今晩は。何度かお世話になりました「山家集の研究」の阿部と申します。
今回は「紫蘭」について、どうしてもわからないため、お知恵を拝借したくて書き込ませていただきます。
発端はこうです。岩波文庫山家集222ページに

「やう梅の春の匂ひはへんきちの功徳なり、紫蘭の秋の色は普賢菩薩のしんさうなり」

とあります。この、紫蘭について調べてみました。以下。

【紫蘭】 「日本語大辞典から」

蘭科の多年草。高さ約40センチ。山野の湿地に生え、観賞用にも栽培。基部に卵球形の仮茎がある。葉は長楕円形。5〜6月に紅紫色の花が数個咲く。仮茎は薬用。

【紫蘭】 古語辞典

フジバカマの異称。

【フジバカマ】城南宮発行(草木の栞)

藤袴は和名で、漢名は、蘭・蘭草・香草・香水蘭であり、乾燥すると良い香りがする。平安時代には、藤袴の乾燥物を部屋の隅に置いて、その香りを香木のように賞し、蘭と称したのである。しかし、この蘭の文字は、後の世に蘭科植物にすり変えられた。古今要覧稿に「ふぢばかま。これを歌に詠みて秋の七種の数に入りしは山上憶良を始とし、それを字音にて(ラニ)と憶えしは紫式部を始めとす・・・」とある。略
花は淡紫色で花期は8〜9月である。

【紫蘭】 (歳時記・朝日新聞社)

4〜5月頃、家々の庭先に紫色の花を開く。日本では関東地方から九州までの暖地の山の斜面に自生し、北陸地方や長野県には自生しない。しかし雪にも寒さにも強く、栽培がやさしいため、庭園用のランとしてあちこちでよく目にする。
和名は文字通り紫の花色からついた。中国名は白及。漢方でも数珠状に連なる白い地下茎を白及と呼び、外傷薬や胃腸薬などに使う。また地下茎は粘液性に富み、七宝の糊や陶磁器の絵付け用に利用される。

 紫蘭咲いていささかは岩もあはれなり  北原白秋

 【紫蘭】 (平家物語巻五「月見」)

「虫の声うらみつつ、黄菊・紫蘭の野邊とぞなりにける」

現在、カタカナ表記されて4月から5月にかけて紫色の花をつける「シラン」は「紫蘭」と同一であることがわかります。
ところが平家物語にしても、西行の詞書にしても「紫蘭」は秋とされています。それで当時の「紫蘭」は「フジバカマ」の異称であると解釈します。
でも城南宮発行の栞でもフジバカマの異称に「蘭草」はあっても「紫蘭」はないのです。
それで私は「紫蘭」=「フジバカマ」説は弱いなーと思います。
「和歌文学大系21」にも「紫蘭」は「フジバカマ」と明記されています。そんなら出雲風土記にも「白及」として明記されている、我々の見る「シラン」が、西行も目にしていたはずなのに、
秋のものとしている以上は当時は「シラン」は「紫蘭」ではなかったと考えられます。
そこで、フジバカマのことを「紫蘭」として詠みこんだ歌があるのでしょうか。もしありましたら、教えていただくと幸甚です。
「フジバカマ」は「フジバカマ」として詠みこまれていて、けっして「紫蘭」としては詠みこまれていないのではないかと思います。

以上、わかりにくい質問ですが、お時間のある時にご教示願えるとありがたいです。

この掲示板は時々、拝見しています。前に話題になっていた浄住寺にはしばしば行のですよ。
それではよろしくお願いいたします。



 RE:鎌倉歳時記    ..水垣    
      2005/06/03(金) 23:19  No.654
 
 
八重葎様
お久しぶりです。ブログを見て下さっているとのこと、ありがとうございます。
澁澤龍彦をご愛読でしたか。私はきちんとは読んでいない中途半端なファンでしたが、北鎌倉の辺りを歩きますと、やはり氏のことを偲ばずにはいられません。紫陽花で有名な明月院のそばに住んでおたれたようですね。
「夢のある部屋」が文庫本で出ていたのですか。ぜひ読んでみようと思います。

ブログの鎌倉の記事は気長に続けてゆくつもりですので、今後もお付合い頂けましたら幸いです。



 鎌倉歳時記    ..八重葎    
      2005/06/03(金) 12:30  No.653
 
 
水垣様
ご無沙汰しております。
ブログ楽しく拝見しています。特に鎌倉の写真は
行く機会がつくれない当方には、有り難いものです。

最近行ったのは2年前、北鎌倉 浄智寺から銭洗弁天
までの道でした。浄智寺には敬愛する澁澤龍彦氏の墓前
に参り、昔 氏の著作に初めてふれたときのことを
思い出したりしました。
最近、氏の文庫本(夢のある部屋)を久しぶりに買いましたが、
鎌倉の四季・風物について記したエッセイ等が収められてあり
いかに氏が鎌倉を愛していたかがわかりました。

あまりやまとうたとは関係のない話題ばかりで恐縮ですが、
ブログ拝見のお礼に書かせていただきました。



 無題    ..水垣    
      2005/05/30(月) 23:39  No.652
 
 
>北田様
ご投稿とお写真を拝見して、華道の精神がずぶの素人の私にもちょっと分かったような気持になりました。

>紀州の姫様
「年ふれど」はお互いまだ早すぎるでしょうけれども、将来そうなっても、「気持だけは」ということで(笑)。

>逸爾散士様
木下利玄の歌は、何で最初に読んだか忘れてしまいましたが、私もすぐに覚えられました。絵画的な歌のようでいて、愛誦性に富む歌でもありますね。



  咲き定まりぬ深見草    ..逸爾散士    
      2005/05/30(月) 20:57  No.651
 
 
 北田完一さまのお示しになった歌
 
 牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

 懐かしいですね。子どものころ海野哲次郎著『近代短歌の美しさ』という本が転がっていて、それで知った歌です。著者は高校の国語の先生でうちの知り合い。私と近代短歌のつきあいはその一冊から殆ど進んでいない。

 その本に載っていた歌で、このたしか木下利玄の歌のほかには、

 けさの朝の露ひえびえと秋草やすべてかそけき寂滅のひかり

 という歌がとくに印象に残っています。
 誰の歌だっけな。寂滅に「ほろび」とルビが降ってあったと思います。
 
 せいぜい中学生だったのに、ずいぶん地味な好みだったと自分でも思いますが、どちらの歌も、「悟り」というと違うにしても微妙で静寂な境地が、心なき身にも感じられました。

 いま鑑賞すれば、「花の占めたる位置」という語は歌の言葉としては独特。「位置」などという認識のカテゴリーをあからさまに示して、それは「理がまさった」というのとは違う表現になっていると感じます。事物の永遠の相を直叙したとでも言うのかな。
 この歌は「位置」という近代的な漢字熟語の前に、「咲き定まりぬ」という和語で、その永遠の相を言いとめている。和漢のさかいを連句のように対照させて、端正な言葉のフォルムを構成しているところが、私などにも記憶していられる理由でしょう。

 ○○○○○ 咲き定まりぬ 深見草
 しず心とて 滅びはてぬる

 と、野狐禅的悟道の付け合いを考えたけど、上五が据えられません。「床の間に」じゃ俗すぎるし…。でもともかく野外よりも、室内で唐物などの花入れに活けてある牡丹のイメージですね。


 



 玉津島姫    ..紀州の姫    
      2005/05/30(月) 19:01  No.650
 
 
水垣さま、紀州の姫に相応しい(?)和歌(若)を有り難うございます。

年ふれど老いもせずしてわかの浦に幾世になりぬ玉津島姫

【鑑賞】「国基が詠じたのは・・・古いがゆゑに新しく、年老いてゐるがゆゑにかへつて若々しいといふ条件を明らかにした。(中略)驚くに足りるのは、平安朝の歌人である神主が、文藝の本質とも言ふべきこのやうな消息を感じ取つてゐて、さらにまた、それを一首の和歌にすつきりと封じこめたといふことだらう」(丸谷才一『新々百人一首』)。

紀州の姫も気持ちだけは、年ふれど老いもせず・・です。(^^)




 いけばな     ..北田 完一    
      2005/05/30(月) 17:25  No.649
 
 
 追伸 花の種類を書き込みいたしませんでしたので印ます。
   
     花 七段花 乙女ゆり 矢筈すすき
  
     花入 花摘籠  



 いけばな    ..北田 完一    
      2005/05/30(月) 17:10  No.648
 
 
      水 垣 様 

  牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

 これは病床において詠んだ歌で、数年後に四十歳で亡くなった。この歌は何か動かしがたい覚悟とでもいいたいものが表れており、 幽明の界にほのかに浮かんだ牡丹の花に、永遠の生命を託した静かな喜びが感じられるのです。
もともと花は一日かぎりの儚い命であるから、咲き定まって器に入れたその瞬間が「花」であると思う。では、自然のままで眺めたら
いいだろうにと思うのは美を解さぬものの言で、自然の花が美しいのは当たり前のことだが、人間が関わることによってそれは一つの「思想」となる。千利休の逸話に、秀吉に所望されて、庭一面に咲いた朝顔で茶会を催す事になった時、利休はその朝顔を全部切ってしまい、たった一輪だけほの暗い茶室の床の間に生けたという。花を生かすことの意味ではないのでしょうか。
いけばなは一種の総合芸術であることだった。総合芸実術とは、大げさに聞こえるが、花は花だけで孤立するものではなく,周囲の環境と生活の中に溶け込んで、初めて生きるという意味で、私の庭に四季折々に咲く草木を手折り生けるのが楽しみです。



 芍薬    ..水垣    
      2005/05/30(月) 00:56  No.647
 
 
紀州の姫様、こんばんは。
お写真有り難うございます。仰る通り芍薬のようですね。厚い花びらが珍しい感じがいたします。

老いの歌、私も母と同居するようになったこともあり、何かひしひしと感じるように読めて仕方ありません。が、ここは「紀州」の姫様に因んでめでたい和歌(若)を一首。

 年ふれど老いもせずしてわかの浦に幾世になりぬ玉津島姫

津守国基の歌です。




 RE:ほたるぶくろ    ..水垣    
      2005/05/30(月) 00:55  No.646
 
 
北田様
みごとな蛍袋ですね。ほんの一端が写っているだけでしょうけれども、お庭も素晴らしく、溜息が出ます。

蛍袋を詠んだ和歌は残念ながら存じません。少なくとも王朝時代以前の古歌では取り上げられなかったようです。
歳時記を見ましたところ、句はいくつか載っておりました。

 ひるまの母は雲より遠し提灯花 磯貝碧蹄館
 蛍袋咲く草むらの朝の露 遠藤はつ



 芍薬、かな?    ..紀州の姫    
      2005/05/29(日) 11:38  No.645
 
 
水垣さま、こんにちは!
今月中旬に実家の庭で撮りました。
今は薄ピンクの芍薬が咲いておりますが、この写真の花の葉っぱがそれと全く同じなので、これも芍薬と思うのですが・・・、違うかな?
しっかり調べようと思いつつ時間がなく、いい加減のまま添付致します。(^^ゞ

せきどさまへ
2週間ほど過ぎてしまいましたが、労いのお言葉を有難う御座いました。

>私は主人の母の介護を経験しました。振り返って、私には必要な時であったと確信しております。

お姑様ですね。私のように実母と違った大変さもあったのでは、と想像致します。私もいずれ我が行く道と思い、母の老いに付き合っております。

老はなほ夕かげまたぬ露ながらうつろふ花をはかなくやみん
身は老いぬ何の思ひの露にてもかからじとすれば秋の夕暮(宗祇集)

つい、このような歌に言葉少なき母の心を重ねてしまいます。

二人して鏡に並べばウン十年後の自分がそこに居ます、そっくりなもんで。(^^ゞ



 ほたるぶくろ    ..北田 完一    
      2005/05/28(土) 17:25  No.644
 
 
  水垣様 

 蛍袋。火垂る袋。
 
 (別名) 提灯花。灯篭花。山小菜。

 庭の片隅に植えた蛍袋が咲き出し小川の流れと共に初夏の爽やか さを伝えております。                     私この花に関する古歌を存知ませんので、教えて頂きますでし ょうか、宜しくお願いいたします。



 RE: 仮想の悲傷 和歌  原田琴子    ..水垣    
      2005/05/28(土) 16:32  No.643
 
 
「夏の題材を入れた悲傷の恋歌」、興味深く拝読致しました。

>君のなきことしの夏のめぐり来てあふひ草こそわびしかりけれ

太陽を向いて咲く葵の花。その「あふひ」に「逢ふ日」を掛けて、君でなく歳月にむなしく「めぐりあふ」侘しさが痛切です。

>かへるさの道辺に咲きし藤ごろも着つつなれにし人を弔ふ

後朝の思い出に結び付く藤波の花は、朝風に美しく揺れていたのでしょうか。その植物の名が喪服の象徴に一転し、旅中に妻を偲ぶ業平の慕情を想起しつつ向かう弔問の道。

>ありし日に重ねし袖ぞ思ひ出で花橘の香さへ苦しも

追想は溯るように後朝から夜の重ねた袖へ。五月待つ花は闇のうつつにこそ香り高く薫ったでしょう。
なお、形容詞連体形を終止の代りに用いて詠嘆を籠めるのは、やや格調に欠けるかもしれませんが、古くからあった語法ではあります。

 世の中はうき物なれや人ごとのとにもかくにもきこえくるしき(貫之「後撰集」)

など。

>さりとても嘆きは尽きず君の魂(たま)蛍となりてこの世にしあれ

景気の浮かばないのがやや惜しまれますが、〆の一首に相応しい調子の高さがあると思います。

古典文法に則り、語彙を和語に限定し、掛詞や本歌取りといった伝統的手法も踏まえる(つまり、文字通りの「和歌」を詠む)という厳しい制約の中で、現代人の心にも訴え得るような哀傷歌になり得ているのはお見事の一語です。



 仮想の悲傷 和歌  原田琴子    ..逸爾散士    
      2005/05/28(土) 00:28  No.642
 
 
 四首の哀傷歌を作れとの友人の要望は、夏の題材を入れた悲傷の恋歌ということにしました。

 いちいち自作を並べ立てるのも気強いことながら、サイト内検索でお世話になったのでご報告します。

「ほととぎす」を検索してたらその言葉の近くにみつけた藤原家隆の歌。

 むら雨の風にぞなびくあふひ草向ふ日かげはうすぐもりつつ(老若五十首歌合)

 ここから「あふひ草」(立葵)をかりて一首。

 君のなきことしの夏のめぐり来てあふひ草こそわびしかりけれ

 思い人が亡くなって夏が来て、あふひ草の前にたって「逢ふ日」に音の通じる花の前で佇んでいる風情。



 「喪」をキーワードにしたら「喪服」の意味で「藤衣」という言葉が出てきました。例えば、

 思ふどち一人一人が恋ひ死なば誰によそへて藤衣着ん(古今集・恋、読人知らず)

 季節の詞の「藤」と掛けて
 
 かへるさの道辺に咲きし藤ごろも着つつなれにし人を弔ふ

 かつて女人のもとからの帰路に咲いていた藤。いま藤衣(喪服)を着て、なじんだかの女性の葬儀に赴く…。
 「きつつなれにし」はいとめでたき詞のつづき様なるに、しのびごとの歌に用ゆること慮外なり、とか言われて、歌合では負けになりそう。

 
 季節のものといえば花橘があり、思い出を惹起するものとして膨大な本歌取りがされている歌。

 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集・夏、読人知らず)

 思い出は、懐かしいだけでなく苦しいこともあるだろうと、次の歌に仕立てました。

 ありし日に重ねし袖ぞ思ひ出で花橘の香さへ苦しも

 本当は形容詞の連体形「苦しき」で止めたかったのだけど、係結び助詞「ぞ」「や」では字足らずのなるなあとパズルみたいにひねった結果の歌です。


 初夏よりは夏も深まる頃の景物だろうけど、蛍を詠んで一首。和泉式部の歌は蛍に自分の魂を幻視する。

 物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる(後拾遺1162)

 それを反転させてどうしても自分の気持ちを慰めかねて、蛍を相手の魂とみるという心。

 さりとても嘆きは尽きず君の魂(たま)蛍となりてこの世にしあれ

 遊戯的に作り出したけれど、だんだん感情移入して調子が強くなりました。実際の哀傷歌なら成仏得道の障りとなろうことです。
 狂言綺語は賛仏乗のゆかりとこそなるべきに、かりそめとてもかかる歌を詠むのは後生があやぶまれるけど、なんか和歌なのか現代の短歌なのかわからない歌になりました。
 ところで現代短歌を古語で詠んではいけないのかなあ。

 古典和歌に似せた歌を作るとき、自己の感情表出の文学作品を作っている気などなくて、もっぱら言葉で遊んでいるつもりなのですが、それでもだんだん、マジになってきちゃう。
 和歌を所望する友人の話では、昔、原田琴子という和歌のような歌を詠む歌人がいて、萩原朔太郎が高く評価しているとか。
 そういう人は最初から、和歌のような歌を自分の表現として選び取っているのでしょうね。
 
 



 RE:芍薬    ..水垣    
      2005/05/28(土) 00:00  No.641
 
 
芍薬もそろそろ見頃は終りでしょうか。
一輪挿しはさぞかし映えるでしょうね。

当ゲストブックは、サイトを御覧下さった方々に、ご自由に足跡を残していって頂ければ、と思って運営しております。風雅な日々の折々のご一報、楽しみに致しております。

(ご投稿の記事が重複しておりましたので、最新の記事のみ残して他は削除させて頂きました。)



    芍薬    ..北田 完一    
      2005/05/27(金) 02:19  No.640
 
 
 花 しゃくやく(別名)貌佳草。恵比寿草。恵比寿薬。芍薬   
 花器 李朝白磁 扁壺                                 
若葉の萌える美しい季節となって参りました。庭の片隅に植えておりました芍薬が咲き始めましたので一枝を手折り床の間に生けてみました。
 花って不思議なものですね。庭に咲いているときと、一輪を花入れに挿しと見たのと美しさが違うのですね。凛とした気品が漂い、もしもこんな美しい女性に巡り合えたら近付くことも出来ない雰囲気をかんじるのでわないのでしょうか?
 当地は武蔵野の雑木林に囲まれ庭に四季折々の植物を植え、  みずみずしい春の芽吹き,涼しげな夏の木漏れ日、艶やかな秋の紅葉、温かい冬の日差しなど、花鳥風月を楽しみながら日々を送っておりますので折々に一報をさしあげますが宜しでしょうか?
 では又の機会にお逢いいたしましょう・・・・・。
  



 RE:やぐら    ..水垣    
      2005/05/23(月) 23:51  No.637
 
 
ブログのコメント欄では画像を投稿できないようです。わざわざこちらへ有り難うございました。
「高時腹切りやぐら」は私も一度参りました。背筋がぞくぞくして堪りませんでした。鎌倉のやぐらは結構な数見て廻りましたが、あそこに漂う霊気はちょっと他と比べ物にならないように感じました。

数えたことはないのですが、北条氏の歌人の作は、十三代集(新勅撰集以後の勅撰集)に相当の数入っていますね。もちろん政治的な権勢あってのことでしょうけれども、大変和歌を好んだ武家だったと思います。
大伴氏における家持や源氏における実朝のような「白鳥の歌」を奏でる天才歌人が現れなかったのは惜しまれますが、基時の「まてしばし」の辞世は痛切な断末魔と呼ぶにふさわしい歌だと思います。



 「時代の進展」    ..水垣    
      2005/05/23(月) 23:49  No.636
 
 
宗祇の歌に「時代の進展」を見るご意見、大変興味深く拝見しました。

>人しれぬきははおよびも中空にかからできえよ夕ぐれの雲(宗祇集)

これは宗祇の歌の中でも殊にすぐれたものではないかと思います。
「およびも中空に」「およびも無からん」の掛詞は、凝ってはいても手法自体としては旧来の手法です。「中空」「かかる」「雲」と縁語を用いている点も、昔ながらのやり方ですね。ただ、中古の歌でしたら、上句「人知れぬ私の思いは、他の人など及びもつかない」というテーマだけで一首出来てしまうでしょうし、下句「夕暮の雲が中空にかからずに消えるように私の思いも消えてしまえ」と言うだけで一首歌を費やしていたでしょう。

>なにか掛詞で、二つの平行した世界が結び合わされたり、展開したりするのとはちょっと違う歌に読めました。

私もうまく言えないのですが、その「ちょっとした違い」が大きいのでしょうね。
歌語の機能を極限まで酷使することで、二首分の歌を一首に凝縮しているような、そんな印象も受けます。
逆に言いますと、一首の歌としての統一感はかなり危うくなっているとも言えるでしょうか。(もう殆ど現代短歌ですね。)その意味では「和歌らしい和歌」とは言えないかもしれません。

ブログのコメントで触れた小西甚一氏の『宗祇』で擬古典主義と新古典主義(真に古典を活かす古典主義)の違いが指摘されていましたが、宗祇こそは紛れもない新古典主義者であったと思います。



 やぐら    ..むらじ    
      2005/05/23(月) 21:31  No.635
 
 
おひさしぶりです。
ブログに写真の投稿ができるかどうかわからなくて、こちらに書きます。
「やぐら」、鎌倉の特徴的なお墓だそうですね。
実は一度しか鎌倉に行ったことがないのですが、そのときに有名な「北條高時腹切りやぐら」というのを見てきました。
鎌倉幕府滅亡のさい、北條一族が自刃したといわれる東勝寺跡の裏手にある山の、欝蒼とした木立の中にありました。
「太平記」によると、高時は一族二百八十三人とともに東勝寺で自害したことになっているので、こちらのほうは後世の付会かもしれませんが、やはりあまり気持ちのよいものではありませんね・・・
このときの戦いで自害した北條一族の普恩寺入道基時は、すでに六波羅探題として全滅した息子の仲時を思って

まてしばし死出の山辺の旅の道同じく越えて浮世語らん

と普恩寺の御堂の柱に血を以て書き残したとあります。
どこまで本当の話かはもとより定かではありませんが、盛んだった鎌倉歌壇では北條一族の活躍も目立ったそうですから、もしこれが基時の辞世だとすると、鎌倉歌壇の断末魔、とでもいうべきでしょうか。



 世にふるは まさに芭蕉のやどりかな    ..逸爾散士    
      2005/05/22(日) 12:40  No.634
 
 
 松尾芭蕉が漂泊の先達として宗祇の名を上げているので、連歌師というと世を捨てて旅をしているような感じも持つけれど、実際の連歌師は情報の伝達者や文化人なのでしょう。もっとも五山文学の詩僧など外交官ともいえるし、お坊さんの実像でも別に世を捨てているわけではないのでしょうね。私など友達に死なれて出家遁世したいと思ったことがあるから(今でも托鉢のお坊さんを見るとゆかしく思う)、宗祇が出家者らしいので何かなつかしく感じる気分がありますが…。

 ブログにお書きになっている「和歌らしい和歌」というのに納得します。ただどこか「時代の進展があるのかな」と思えた例。

  閑居五十首歌中に、寄雲恋
 人しれぬきははおよびも中空にかからできえよ夕ぐれの雲(宗祇集)

 「およびも中空」と「およびも無い」を通わせるのですが、夕暮れの雲が恋する魂の暗喩だと鑑賞されたような(私もそう感じますが)重層性は、平安時代の掛詞では得られないようにも思います。
 「思う人のあま下りこむ…」などなど夕暮れの空や雲は恋の象徴になるべき蓄積があるのだけれど、中古の歌の連想はもっと言葉そのものに付いている感じ。中世も後期になってくると「余情のコード」もしっかり確立したというのかな。
 あるいは、夕暮れの雲のイメージはしっかり結ぶけれど、「かからで消えよ」といって、叙景としては覚束ない歌全体の構造のためかしらん。なにか掛詞で、二つの平行した世界が結び合わされたり、展開したりするのとはちょっと違う歌に読めました。
 平安時代の歌とはやはり違うなあと思えます。宗祇は擬古を事としているのではなく、日日、自分の表現の中に古歌の伝統を咀嚼し発展させているのだから当たり前ともいえましょうが…。

 「きは」という言葉も難しいところがありますね。同じく「きは」、「心のきは」という言葉が印象的な歌。

 ことのはの道こそ憂けれさらでやは心のきはを人にしられん

 この【補記】にお書きになった、『職業的連歌師として、興行の場で常に「心の際」を晒し続けることを強いられた人生の厳しさを思わずにいられない。』というのは、素晴らしい(古語なら「いみじき」か、「めでたき」か、「すごき」かよくわからないけど)評言ですね。
 



 RE:宗祇    ..水垣    
      2005/05/22(日) 06:11  No.633
 
 
夕暮の歌が続いたのは、自分の好みが出てしまったのでしょうか。
秋の夕暮の歌に「強さ」を見るご意見、同感です。

霰はたしかに心躍らせるところがあって、宗祇の詠んだような歌が少なかったことがむしろ不思議な気もします。
ちょうど先日『谷内六郎の絵本歳時記』という本を読んでおりまして、霙と霰を対比した面白い文章に出逢いました。

「みぞれはジメジメしたユーウツな感じで、アラレはパシッとした単純な感覚です」



 RE:世にそむきたる人ぞゆかしき    ..水垣    
      2005/05/22(日) 06:11  No.632
 
 
またまた難題ですね(笑)。
和歌では四季・恋・旅・祝・述懐など、あらゆるテーマで題詠、つまり前以て題を決めて虚構の歌を詠みましたが、哀傷だけは例外です。少なくとも勅撰集の哀傷歌は、すべて実際の人の死に際して詠まれた歌ということになっていると思います。
ですから、お手本となるような歌を見つけるのもなかなか困難ではないでしょうか。
ただ、恋歌では恋人が死んだというシチュエーションで題詠することはあったかと思います。

>「つらきさへ袖しほるるをとこしなへ別るる雨ぞふりまさりける」

「生きていた時、冷淡な態度を取られただけでも袖はぐっしょり濡れたのに、ましてや永遠に別れる悲しみの涙雨は降り増さる一方だ」といった意味かと読みました。
上句と下句で生前・死後を対比しておられるわけで、でしたら上句は過去であることをより明瞭にしたほうが宜しいのでは。

つらきさへしほれし袖ぞとこしへの別れの雨に朽ち流れつる

などと改作して遊ばせてもらいましたが、ただ大仰なだけになってしまいました。哀傷の虚構はやはり難しいですね。



 宗祇    ..ためかぬ    
      2005/05/21(土) 10:02  No.631
 
 
たまたま選ばれたのか、夕暮れが詠まれた歌が多いですね。
  
  を笹原ひろはば袖にはかなさもわするばかりの玉あられかな

霰の体験は数えるほどですが、雪より心躍るものでしたし、子ども心にあられの形状の美しさに感動したものでした。明るく軽やかに詠んだのが珍しいとのこの歌があるせいか、夕暮れの歌からも、わびしさ、さびしさを味方にしてしまう強さを感じました。「霞か雲か〜」と流れていた頭のなかは、ドビュッシーに変わってました。「雪が踊ってる」せいでしょうか。私のじっくり味わう余裕のなさかもしれません。



  世にそむきたる人ぞゆかしき    ..逸爾散士    
      2005/05/20(金) 00:33  No.630
 
 
 いろいろ古歌を調べさせていただいております。
 毎月和歌を作れと言うかの友人から、和歌の催促。「哀傷歌を四つ、子、親、女、友と分けるのはどう?」というので、こちらのサイト検索で「哀傷」を探しました。

 夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙のいとどゆかしき
          (後拾遺秀歌選 藤原定子)

 ご説明によると この辞世を遺し不運の皇后宮がみまかるのは二十五歳! 今なら若妻ですねえ。かわいそう。

 比べて和泉式部の哀傷歌は切実さが官能的にさえ思えます。

 すてはてむと思ふさへこそかなしけれ君になれにし我が身とおもへば

 「思ふさえこそ」という念入りにくどい表現が、(初句の字余りも)身も心ももだえて哀しいという心を伝えているよう。


 わかれにしその日ばかりはめぐりきていきもかへらぬ人ぞ恋しき (伊勢大輔)

 私も若いころ、友だちに死なれて、その一周忌が近づいたとき、「こぞのこの日にありし君かも」という思いがしたから、実感のある歌だと思います。伊勢大輔は夫に先立たれたのですね。
 (以上、いずれも後拾遺集)

 他にも心にしみる歌が数々ありましたが、どうも哀傷歌、まして子や親に別れるという歌はつくりにくい。
 「つらきさへ袖しほるるをとこしなへ別るる雨ぞふりまさりける」、……いや「別るる空」はともかく「別るる雨」は無理かな、などとぶつぶつ言いながら歌を案じています。

 春の夜のあかぬ契りのかへるさに移り香沁むる身ぞ惜しみける
なんていう後朝の歌ならわりとすぐにできるのに。
(「移香の身にしむばかり契るとて扇の風の行へたづねむ」という定家卿の歌を俤にしているつもり)

 哀悼する相手を違える設定というのはどうも作りにくいから、季節を入れて、花橘、卯の花、菖蒲 杜若などを詠んだ悲歌としようかしらん。
 
 
   



 RE:blog発進、おめでとうございます    ..水垣    
      2005/05/12(木) 23:18  No.629
 
 
せきど様、ありがとうございます。
今後とも楽しみにして頂ければ幸いです(柴犬は月日を溯って成長記録をつけたいと思っております)。

撫子の花は五月頃から咲き始め、秋口まで咲き続けるので、夏中咲いている花という意味で「常夏」と呼ばれたようですね。石竹はさほど花期が長くないので、やはり「常夏」は大和撫子なのでしょう。

ブログを始めて植物のことも調べる必要が出て来ましたが、自分が如何に無知だったか、我ながら呆れております。何かを知るということは、まことに、「自分が知らなかった」ということを知る、ということなのですね。



 blog発進、おめでとうございます    ..せきど    
      2005/05/12(木) 13:21  No.628
 
 
写真も大きく使えて、こちらとはまた違った魅力がありそうですね。楽しみがまた増えました!(柴犬クンの成長も楽しみにしています〜♪)

話は少し戻りますが、「アヤメの仲間達」でご紹介いただいたサイト、楽しいのであれやこれやと見ていましたら、《トコナツ》が目にとまりました。
関戸本古今集の臨書のお勉強で、皆さんに好まれるページのひとつに〈・・・・となりより、とこなつの花をこひにおこせたりければ、をしみてこのうたをよみてやりける  身恒 ちりをだにすゑじとぞおもふさきしよりいもとわがぬるとこなつの花・・・・〉があります。「とこなつの花」と聞いて私が思い浮かべるのは、ハイビスカスやブーゲンビリア(すみません、常夏の島ハワイのイメージからでしょうが)だったりするのですが、撫子のことだと聞いたことがありました。でも、撫子と言われて思い浮かべるのは石竹撫子のかたまって咲く姿で、なにかピンと来ない思いがありました。トコナツというそのままの名前に一瞬小躍りしたのですが、これは江戸時代に作られた園芸品種なのですね。でもそのおかげでみつけた撫子が別名大和撫子だと知り、又その姿にようやく歌とのイメージが重なりました(笑)。なんだかものを知らないという話ですみません(汗)。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/BotanicalGarden-F.html

>紀州の姫様
ご丁寧にありがとうございます、お返事遅くなって申し訳ありません。お母様の介護をなさっているのですね。私は主人の母の介護を経験しました。振り返って、私には必要な時であったと確信しております。どうぞご自身のお体も大事になさって、良い時をお過ごし下さい。



 ブログ始めました    ..水垣    
      2005/05/10(火) 22:37  No.627
 
 
と言いましても、こちらに載せた記事を少し書き直して転載しただけですが。
アサヒ・ネットのブログは正式版を待つことにして、当面、FC2というところのブログ・サービスを使うことにしました。初めてで戸惑うこともありましたが、なかなか使いやすいブログだと思いました。

やまとうたblog
http://yamatouta.blog10.fc2.com/

御覧頂ければ幸いです。
このゲストブックはこのまま存続しますが、今後、コメントのご投稿などは、ゲストブックとブログのコメント欄と、適宜使い分けて頂ければ幸いに存じます。



 RE:夏は来ぬ    ..水垣    
      2005/05/10(火) 01:24  No.626
 
 
「夏は来ぬ」というと、私は子供の頃毎夏見たような気がするお中元向け商品(石鹸だったでしょうか)のTVCMを思い出してしまうのです。日傘を差した和服の女性が町を歩いている映像…。
『新編国歌大観』には確か40万首程の歌が収められていたかと思いますが、「なつはきぬ」で検索しますと、わずか5首しか見つかりません。しかも室町時代以降の歌ばかりです。いわゆる王朝和歌の語感でないことは確かですね。

拙作に好意的な解釈、また素敵な付句をありがとうございます。

定家の歌は、下句「なれのみ春の 色ふかくして」が、「なれのみ/春の色ふかくして」と句割れを起こしていますね。その辺も「近代的な感覚」につながる所以でしょうか。



 「夏は来ぬ」    ..逸爾散士    
      2005/05/07(土) 11:40  No.625
 
 
 古人には年の内に立春が来るか大きな関心事で、秋たつ日もはっきりと意識される一日ですね。ゆく春を惜しみ、秋の移ろうのを悲しんでも、夏や冬が来るとはあまり言わないようです。
 夏の景物や冬の気象を詠むことは多いのでしょうけれども。
 「卯の花の匂う垣根にほととぎす早やも鳴きて…」と、小学唱歌は伝統の季節感を歌いこみながら、きっぱりと「夏は来ぬ」というところ、ある意味で近代的なのかしらん。(「酒屋へ三里、豆腐屋へ五里」の山里でもない垣根に、気軽にほととぎすは鳴いてくれるかしら、とは無用の詮索)

 時鳥いまだ至らぬ雨のうちに春は遠くも去りにけるかな

 御作は時鳥を待つ心に長雨=眺めのアンニュイをどこか通わせて、ゆかしい歌ですね。

 未聞啼杜鵑 糸雨餞徂春
 『和漢朗詠集』を編んだ古人の心ばえに時間を超えた挨拶の意を含めて付け合い。

 それにしても 定家卿の「ふりにけり・・・」の歌。近代的な感覚も感じられる歌だと思いました。



 アヤメの仲間たち    ..水垣    
      2005/05/06(金) 23:23  No.624
 
 
今日は自宅から鎌倉駅まで歩く道すがら、アヤメの仲間の花をたびたび見かけました。自宅付近の空地でダッチアイリス(阿蘭陀菖蒲)、鶴岡八幡宮の源氏池のほとりには杜若(上掲写真)と黄菖蒲。途中から雨に降られましたが、やはり菖蒲に雨はよく似合います。

 ふりにけりたれか砌のかきつばた
     なれのみ春の色ふかくして(藤原定家)

追加写真
ダッチアイリス
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/image/dutchiris.jpg
黄菖蒲
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/image/kisyoubu.jpg

参考サイト
「いずれがアヤメ?カキツバタ?」
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/izure.html



 RE:音無の滝    ..水垣    
      2005/05/06(金) 23:07  No.623
 
 
資盛さんのご意見、私こそ大変参考になりました。どうぞまたお気軽にお書き込み下さい。こちらこそ今後ともよろしくお願いします。



 RE:夏の立ちける日、古歌の改作の話    ..水垣    
      2005/05/06(金) 23:05  No.622
 
 
立春立秋の歌は非常に多いのに、比べて立夏の歌は非常に少ないですね。立夏そのものを主題とすることはほとんどなく、そのかわり更衣の歌や時鳥を待つ歌が好んで詠まれました。『清唱千首』から例を引きますと、

 今朝よりは袂も薄くたちかへて花の香遠き夏衣かな 後花園院
 櫻いろに染めし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ 和泉式部

といったように。

改作は、古歌を自分にひきつけて理解する(というより「消化する」)ために役立ちそうに思えます。しかし、秀歌ほど改作は難しいことになりますね。
改作というのではありませんが、私も貫之の歌に興を覚え、

 時鳥いまだ至らぬ雨のうちに春は遠くも去りにけるかな

などという歌を今思い付きました。恥ずかしながら記し残しておきます。

『清唱千首』ですが、私も愛読しております。あまり影響を受けたくないので、「千人万首」を選び始めた時、敢えて読み返さないことに決めたのですが、改修工事の段階に入って、ようやく再読を自分に許しました。



 RE:音無の滝    ..資盛    
      2005/05/06(金) 00:41  No.621
 
 
なるほど、おっしゃる通りですね。冷静に考えてみると、便りが無いという意味まで含めると、たしかに歌の焦点がぼやけてしまいます。ちょっと私情が入ってしまったようです(笑)

大変勉強になりました。またいろいろとお世話になることもあるかと思いますので、よろしくお願いします。



 夏の立ちける日、古歌の改作の話     ..逸爾散士    
      2005/05/05(木) 22:46  No.620
 
 
 立夏と聞いて、貴サイト内検索で立夏と立春を検索したら立夏は6件かな。立春は35件ほど。
 3月尽という詞書は見たように覚えますが、夏が立つとて詠める歌というのはあるのかしらん。

 部屋を片付けていたら、十数年前、まだワープロを使っていた頃に友人に送った文章を見つけました。その友人とは毎月、古典和歌を所望する人です。私が古典和歌を愛好するようになったきっかけは、塚本邦雄氏の『清唱千首』(冨山房百科文庫)から、その春夏秋冬恋の部立ての最初の六首の感想を書いて彼に送ったことで、見つけたのはその感想文です。
 文章そのものは他人には退屈でしょうし、公開を予定しないで綴ったから引くこともないのでしょうが、私はその時から、古歌を改作して鑑賞していました。

 花鳥もみな行きかひてむばたまの夜の間に今日の夏は来にけり
                     (紀 貫之)

 の改作を示して、

 花も鳥も春のものとて移りなむ一夜に今日の夏は来にけり
 「こんな歌だったら、一晩で春から夏なるとは、稚気あふれるレトリックだと攻撃されてもしかたないだろう。」
 と記しています。

 三島江に茂りはてぬる蘆の根のひとよは春をへだて来にけり
                    (藤原良経)

 明けぬれば弥生もはつぬ蘆の根のひとよは夏に生ひしものかな
 と改作してみて、「三島江に茂りはてぬる蘆の根の」は「ひとよ」を言い出すための序詞、「ひとよ」は「一夜」と「一節」の掛詞と鑑賞して、「「茂りはてぬる」とまで念入りにいって三島江の蘆を詠みながら、それが「ひとよ」を引き出すための技巧として、けして一首の中心テーマではないという構造、これは「言葉は意味内容を伝えるものだ」という、近代合理主義の観点ではついにわからないことかもしれない。」と頭でっかちなことを書きつけています。そもそも近代合理主義をわかっていないのにね。

 私の未熟の論はともかく、改作してみると古歌の良さと意味あいが自分ではより鮮明に理解できたかなと思えます。
 
 『清唱千首』には出典も記してあって、貫之の歌は
  貫之集四  天慶五年、亭子院の御屏風の料に歌二十一首
 後鳥羽院第三度百首・夏十五首の冒頭という良経の歌は 
  千五百番歌合 三百二番 夏一 
 とそれぞれの前にあります。
 春から夏への移ろいを、一点に絞って表現した歌としては興味深い和歌だと思います。      
  



 卯の花    ..水垣    
      2005/05/05(木) 22:24  No.619
 
 
立夏を迎えた途端、思いなしか卯の花が目につくようになりました。唱歌にあるように生垣にしている家も多いのですが、崖地に沿った道が多い鎌倉では、野生のものを目にする機会も屡々です。なぜこの花が我が国の初夏のシンボルとして愛されてきたのか、初めて心から納得できるような気がしました。
その名ゆえに和歌では「憂し」の掛詞として用いられることが多かったのは、花自身の与かり知らぬこと。燦々たる陽射しの中、純白の花びらが眩ゆく咲きこぼれる様は、ただ無心に清らかさを感じさせます。雛あられのような蕾もふっくらと愛らしい。

 白妙の衣ほすてふ夏の来て垣根もたわに咲ける卯の花(藤原定家)



 立夏    ..水垣    
      2005/05/05(木) 00:00  No.618
 
 
今日五月五日は旧暦三月二十七日、とうとう立夏です。

 ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮の空

惜春の歌と言えば思い出す、式子内親王、千載集の歌です。
写真は鎌倉永福寺跡。立ち枯れた薄がなお残っているものの、すっかり新緑の装いです。



 RE:音無の滝    ..水垣    
      2005/05/04(水) 11:04  No.617
 
 
>わくらばになどかは人の問はざらむ音無川に住む身なりとも

>などは、歌枕「音無川」に「便りがない」という意味を含めているようですが。

おっしゃる通りです。「人の問はざらむ」のあとに「音無」とあれば、「音信が無い」といった意味を帯びることになりますね。
でも俊忠の歌では「おつる泪や音なしの滝」とあり、忍び泣きする自分の泪を滝に喩えているわけですから、「音なし」に「便りがない」という意の入り込む余地があるでしょうか。そこまで解釈を広げてしまいますと、歌の焦点がぼやけてしまう恐れがあります。
掛詞は多義的であればよいというものでもない、という一例ではないかと思います。いかがでしょう。

応援のメッセージ、ありがとうございます。がんばる気持が湧いてきます。
お好きとおっしゃる建礼門院右京大夫や忠岑の歌などについても、またお話を聞かせて頂ければ幸いです。



 音無の滝    ..資盛    
      2005/05/03(火) 21:04  No.616
 
 
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
なるほど、詞花集『恋上』の構成は素晴らしいですね。1首1首にとらわれすぎて、構成にまで考えが及んでいませんでした。

「音無の滝」には、便りがないことの暗示が含まれているのかどうか、ということを考えているのですが、これはどうなのでしょう?
例えば、恋歌ではありませんが、音無川に関して、行尊の

わくらばになどかは人の問はざらむ音無川に住む身なりとも

などは、歌枕「音無川」に「便りがない」という意味を含めているようですが。

改修工事、がんばってください。いつか、冷泉為村など、近世の歌人まで完成するのを楽しみにしております。



 俊忠の歌について    ..水垣    
      2005/05/03(火) 19:32  No.615
 
 
資盛さん、はじめまして。ようこそおいで下さいました。
当サイトが和歌の世界を広げるきっかけとでもなりましたら、大変嬉しく存じます。

>こひわびて独りふせやによもすがらおつる泪や音なしの滝

重之の「風をいたみ」、能宣の「みかきもり」、崇徳院の「瀬をはやみ」と、恋の名歌が続く詞花集『恋上』の末尾に置かれた歌ですね。恋の嘆きが痛いほど続いたあと、「音」もなくひっそり巻を閉じるという構成が泣かせるなあと感心した覚えがあります。

「恋しくてどうしようもなく、小屋に独り臥せり、声を忍んで一晩中泣き続ける――私の目から落ちてやまない涙こそが音無の滝ではないか」といった意味になるでしょうか。「独りふせや」は「独り臥せ、伏屋」の掛詞ですね。
「お」の頭韻はご指摘で初めて気づきました。「音無」と言いながら、思わず忍び音は漏れる、というわけでしょうか。するどい読みだと思います。

『俊忠集』には題「寄滝恋」とあり、そもそも歌枕「音無の滝」という名義への興味から発想して作った歌のようです。

改めて読んでみまして、流れるような調べが快く、ちょっと小唄風にも感じます。忍ぶ恋の辛さを詠みながらも、「おつる泪や音無の滝」と、知的な趣向が前面に出て終わる終り方が、歌としてやや弱い気もしますが、おっしゃるように「お」の頭韻に泣き声を聞くとしたら、哀れ深さは増して来ますね。

今、「千人万首」の改修工事を少しずつ進めているところです。俊忠に辿り着きましたら、この歌を含め再検討したいと思っております。



 はじめまして。    ..資盛    
      2005/05/03(火) 12:39  No.614
 
 
和歌の世界に興味を持ち始めたばかりの大学生です。
このサイトには大変お世話になっております。
好きな歌人は(名前をご覧になればわかる通り)建礼門院右京大夫です。
また、このサイトを通じて京極派も好きになりました。
さらに、なぜか時代をさかのぼり、壬生忠岑(の恋歌)も。

さっき何となく『詞花和歌集』を読んでいたのですが、
『恋上』の巻軸歌となっている中納言俊忠の、

こひわびて独りふせやによもすがらおつる泪や音なしの滝

って、「千人万首」に撰ばれていないのですね(T_T)
いろいろと事情があり、やたらと共感して(笑)、
どんな解釈がされているんだろう?と、このサイトを見てみたのですが。
下の句の頭韻が、まるで泣き声のように聞こえ、とても気に入りました。

この歌、水垣さんはどう思われますか?



 花と犬    ..水垣    
      2005/05/02(月) 23:58  No.613
 
 
皆様、ゴールデンウィークの前半、いかがお過ごしでしたでしょうか。
私はどこへ出掛けるでもなく、家で過ごしておりました。友人夫婦が柴犬を連れて泊りに来てくれて、遊び盛りの我が家のチビ犬は大はしゃぎでした。
連休後半はこれといった予定もなく、ウェブサイトの更新、あるいはブログのネタの仕込みに励もうと思っております。
アサヒネットのブログ(β版)の開始は5月10日頃になりそうです。

写真は、近所の路傍に咲くみごとなジャーマン・アイリス(多分)、そしてなぜか舌なめずりして花を見上げる我が家の犬です。



 RE:ヒントありがとうございました    ..逸爾散士    
      2005/05/02(月) 10:02  No.612
 
 
 お役にたったかしらん。


 RE: ヒントありがとうございました    ..水垣    
      2005/05/02(月) 00:46  No.611
 
 
宿題がんばってください。


 ヒントありがとうございました    ..宿題の問題がわからない人    
      2005/05/01(日) 20:43  No.610
 
 
御二人ともありがとうございました


 「新しき年の始めの…」の歌の表現技法について    ..水垣    
      2005/04/30(土) 01:02  No.609
 
 
逸爾散士様、助太刀感謝奉る。
ちょっと不親切で皮肉っぽかったかなと気がかりでしたので、ご投稿にはホッと救われる思いでした。ほんとにありがとうございます。
ご改作も「表現技法」を考える上で大変良い参考になると思います。宿題を出された先生の意図が今一つよく分からないのですが、おっしゃる通りなかなかの難問だと思います。

「宿題の問題がわからない人」様、皮肉のつもりはもちろん全然無かったのです。

万葉集の「表現技法」といいますと、逸爾散士様が挙げて下さった「枕詞」や「序詞」が代表的なものです。家持の歌に「枕詞」はありませんが、「序詞」と呼ばれる手法、あるいはそれにごく近い手法が用いられていますので、どこがそれにあたるか、よく考えてみてください。(「序詞」がどんなものかは、辞書などでも調べられるでしょう。)

それと、「表現技法」と言っても、なにも難しく考える必要はありません。たとえば、小さな子供が親に向かって、

「絶対に絶対に絶対にだからね!」

などと言う時でも、立派に表現技法(表現上の工夫)はなされているのです。この場合、堅苦しく言えば「繰り返しによる強調」ですね。
家持の歌をよく眺めてみて下さい。

 新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事

歌の外側(たとえば仮名)を眺めるだけでも、ある特徴を備えていることが見出せるはずです。
そして大切なのは、そうした表現上の工夫が、作品の主題や内容とどのように関連しているかを考えることです。

宿題は、答が見つかればそれでよい、というものではないでしょう。考えたり調べたりするプロセスが大事です。この歌をはじめ万葉集や和歌を愛する一人として、お若い(らしい)あなたが苦労をいとわずよく考え、調べてごらんになることを願っています。



 無題    ..逸爾散士    
      2005/04/29(金) 23:31  No.608
 
 
水垣様
 宿題の問題がわからない人さんへの、皮肉にならない程度にユーモアを交えた教育的指導に感心しました。
 私は人を教える立場になったことがありません。私が同じ質問を受けたら、「ふだん先生はどういうものを『表現技法』といって教えていますか?」と、木で鼻をくくった逆質問をしかねません。
 この歌の「表現技法」って、形式的な技法ではないような…。

 あらたまの年のはじめに降る雪の積もる吉事のいやまさりこそ

 (文法的にあっているかなあ。試しに改作してみたのだけれど。「こそ」は希望を表す助動詞「こす」の命令形のつもり)
  仮にこういう歌だったら、「あらたまの」は「年」にかかる枕詞。「あらたまの年のはじめに降る雪の」までは「積もる」を言い出すための序詞。(有心か無心か自分でわからない)
 こういうふうに中学生レベルの知識で「技法」を指摘できるのでしょうけど。
 ずいぶん鑑賞に踏み込んだ難しい設問をする先生がいるものです。もっとも後で求めた答えを聞いたら、○う○○○、○○○ん○○、だなんて興ざめな答えだったりして。




 山吹・為兼    ..水垣    
      2005/04/29(金) 17:44  No.607
 
 
先程犬の散歩から帰って来たところです。以前写真を掲げた場所の八重山吹が満開になっていました。「にほふより春は暮れゆく」とはよく言ったもので、立夏まで残すところ五日です。

ところで今日は旧暦三月二十一日、京極為兼の忌日です。花園院の『宸記』によれば、元弘二年(1332)三月二十一日、河内で死去。終焉の地が何処かについて、一昨年出た今谷明氏の伝記『京極為兼 忘られぬべき雲の上かは』は、守護所のあった丹南(現大阪府松原市丹南付近)あたりではないかとされていました。

 思ひそめき四(よつ)の時には花の春はるのうちにも明けぼのの空(玉葉集)

と、春を最も愛した為兼でしたが、山吹や躑躅の美しい季節に亡くなったのですね。
山吹を詠んだ為兼の歌も。

 さを鹿も言はでや惜しむ春くるる名残の色の山吹の花(鹿百首)




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