永縁 ようえん(えいえん) 永承三〜天治二(1048-1125) 通称:初音僧正

大蔵大輔従五位上藤原永相の息子。母は大江公資女。金葉集などの作者河内は妹。
天喜四年(1056)、九歳の時父を失い、一乗院頼信に師事。康平四年(1061)出家し、天治元年(1124)、興福寺権僧正に至る。翌天治二年四月五日、没。七十八歳。
歌人としては承保三年(1076)の「前右衛門佐経仲歌合」、元永元年(1118)の「右兵衛実行歌合」に出詠し、天治元年頃、奈良花林院歌合を主催。『堀河百首』作者の一人。金葉集初出。勅撰入集二十八首。

ほととぎすをよめる

聞くたびにめづらしければ時鳥いつも初音の心ちこそすれ(金葉113)

【通釈】聞くたびに新鮮で心惹かれるので、ほととぎすの声はいつも初音の気がするのだ。

【補記】『袋草紙』によれば、この歌は実は高階政業(まさなり)が四要講で献じた作であったが、法会の講師であった永縁が自作とするよう懇願し、衆議の結果永縁の作とすることが許された、という。この歌によって作者は「初音僧正」の称を得た。

【他出】新時代不同歌合、釈教三十六人歌合、平家物語(延慶本・覚一本)、落書露顕、題林愚抄

行路暁月といへることをよめる

もろともに出づとはなしに有明の月のみおくる山路をぞゆく(金葉213)

【通釈】月の出と一緒に出かけたわけでなく、月が旅の伴だったというわけではないのだが、有明の月だけが見送ってくれる山道を行くのだ。

【語釈】◇出づ 出発する意と、月が出る意を掛ける。◇有明の月 ふつう、陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。◇月のみ送る… 白楽天の詩(下記【参考】)に拠る。

【他出】和歌一字抄、題林愚抄

【参考】「白氏文集・巻二十」(→資料編
親故適廻駕 妻孥未出関 鳳凰池上月 送我過商山(親故尋いで駕を廻らし、妻孥未だ関を出でず。鳳凰池上の月、我を送りて商山を過ぐ)

【主な派生歌】
ひきつらね雁は別れぬ有明の月のみおくる山路なりけり(寂然)

霰を

冬の夜の寝覚にきけば片岡の楢のかれ葉に霰ふるなり(風雅806)

【通釈】冬の夜になにかの物音でふと眠りから覚め、耳を澄ますと、丘の斜面の楢の枯葉に霰があたって立てる音だったのだ。

【補記】『堀河百首』では初二句「冬の夜を寝覚めてきけば」。

【他出】堀河百首、楢葉集、題林愚抄

【主な派生歌】
さらぬだに寝覚がちなる冬の夜をならの枯葉に霰ふるなり(藤原顕輔[続後撰])
時雨すと梢にみえし片岡のならの落葉に霰ふるなり(鴨長明)

旅にてよみ侍りける

白雲のかかる旅寝もならはぬに深き山路に日は暮れにけり(新古950)

【通釈】雲がかかるような山で野宿するのは馴れていないのに、山道を奥深く入ったこんな所で日が暮れてしまったよ。

【語釈】◇かかる旅寝 「かかる」には「(雲が)かかる」の意と「このような」の意が掛かる。

【補記】初出は堀河百首、題は「山」。新古今集は題詠でなく即詠であるかのような詞書となっている。

題しらず

我ならで物思ふ人を世の中にまたありけりとみるぞ悲しき(新後拾遺1431)

【通釈】私のほかに私と同じような物思いをしている人が世の中にいたと知ること、それが悲しいのだ。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年05月01日