駿河守護氏親の三男として駿府城に生れる。若くして出家し、承芳と称して善徳寺に入門する。しかし天文五年(1536)、亡父の跡を継いだ長兄氏輝が夭折したため、一族より推されて還俗、家督を継いだ。これを不満として兵を起こした異母兄良真を破り、自害させた。
翌天文六年、武田信虎(信玄の父)の娘を娶る。優れた軍師太原雪斎(たいげんせっさい)を用い、遠江・三河へ勢力を拡大し、東海に覇をとなえた。同二十三年には武田信玄・北条氏康と同盟を結び、弘治元年(1555)、織田氏の蟹江城を攻略して美濃・近江を制し、上洛の機会を窺う。
永禄三年(1560)五月、ついに二万五千の大軍を率いて駿府を発ったが、桶狭間で信長軍の攻撃を受け、討ち死にした。享年四十二。
検地を行なって年貢と軍役を定め、楽市により商工業の自由化を図り、また法度を定めて内政を整備するなど、領国経営にも優れた手腕を発揮した英君であった。
『秀雅百人一首』に入撰(「昨日なし明日またしらぬ人はただ今日のうちこそ命なりけれ」)。
入日さす遠山桜ひとむらは暮るるともなき花の蔭かな(戦国時代和歌集)
【通釈】入日に映える遠山の桜――その一群だけは、なお暮れることもない花の蔭であるよ。
【補記】『戦国時代和歌集』は昭和十八年(1943)甲鳥書林刊、編者は川田順。掲出歌は平瀬家蔵の短冊手鑑に見える歌という。日没後の余光に照り映えて、そこだけは暗くなるとも見えない遠山の一群の桜林の蔭。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月14日