武田勝頼 たけだかつより 天文十五〜天正十(1546-1582)

甲斐源氏。武田信玄の子。母は諏訪頼重女。織田信長の養女雪姫、北条氏康の娘を妻とする。子には信勝ほか。
父が滅ぼした諏訪氏の名跡を継ぎ、信濃高遠に居城。元亀四年(1573)、信玄が病死したため武田氏の頭領となった。父の天下統一事業を引き継ぎ、天正二年(1574)美濃・三河・遠江に進攻、遠江国高天神城を落とす。しかし翌年、三河長篠城を攻めて織田信長・徳川家康の連合軍に大敗した。天正五年(1577)、信長の講和申し入れを拒否し、同六年から八年にかけ、家康・北条氏政らと合戦。天正九年(1581)、ついに家康軍に敗れ、高天神城は落城。韮崎に退いて反撃を期するも、翌年部下の背反に遭って織田軍に進攻され、天目山の戦に敗れて妻子・家臣と共に自刃した。享年三十七。

 

夏山の遠きこずゑの涼しさを野中の水の緑にぞ見る(続武家百人一首)

【通釈】遥か遠望される夏山の梢――その如何にも涼しげな様を、野中の水の緑に映して見ることだ。

 

朧なる月もほのかに雲かすみ晴れてゆくへの西の山の()(理慶尼の記)

【通釈】ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える。

【補記】辞世の歌と伝わる。「晴れてゆくへの」に「晴れて(浄土へ)ゆく」と「行方の」(目指してゆく方向にある)を掛ける。「西の山の端」は西方浄土を含意する。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日