足利義尚 あしかがよしひさ 寛正六〜長享三(1465-1489) 号:常徳院

第八代将軍義政の子。母は日野富子。日野勝光の娘を正室とする。死去の前年に義煕(よしひろ)と改名。
永く子を授からなかった義政が弟義視を養子とし後継者と決めた翌年の寛正六年に生れる。母富子とその兄日野勝光は義尚を将軍に立てようと画策し、義視の後見である細川勝元に対抗して山名持豊(宗全)と結んだ。この将軍後継を巡る争いが細川・山名両有力守護大名の勢力争いと絡みあい、応仁の乱の引きがねとなった。
文明五年(1473)、九歳で元服し、第九代征夷大将軍に就任。初め実際の政務は父義政がとったが、同十一年十一月には義尚が初めて政務をとる。翌年、権大納言に任ぜられる。幕府の威信恢復のため、長享元年(1487)、近江守護六角高頼(佐々木高頼)討伐の軍を起こすが、同三年三月二十六日、近江国鈎(まがり)の陣中で病没した。薨年二十五。相国寺に葬られた(現在、墓所は相国寺の別坊大光明寺にある)。法号は常徳院悦山道治。従一位贈太政大臣。
文武両道に秀で、学芸を好んだ。一条兼良に政道・歌道を学ぶ。和歌には殊に熱心で、十四歳頃から盛んに歌会を主催した。文明十三年の三十番歌合(続群書類従第15輯上所収)、同十四年将軍家歌合・同年十五番歌合・同十五年将軍家詩歌合・同十八年殿中十五番歌合などである(以上は群書類従第13輯に所収)。文明十五年(1483)十月、『新百人一首』を撰定。また同年、姉小路基綱・三条西実隆・河内頼行・二階堂政行ら公家・武家歌人を結集して和歌打聞『撰藻鈔』の編纂に乗り出したが、陣没により未完に終わった。『常徳院御集』等と呼ばれる数種の家集が伝わる。

「常徳院殿御集」群書類従233(第14輯)
「常徳院詠」私家集大成6

  3首  2首  3首  1首  2首  1首 計12首

十七年正月十七日、題をさぐりて百首歌よみ侍りしに、梅

槙の戸をおしあけ方の梅が香に憂き春風や夢さそふらむ(常徳院詠)

【通釈】明け方の梅の香が枕辺まで匂ってきて――無情な春風は夢を見るようにと誘うのだろうか。

【補記】「槙の戸をおし」は「押し開け」と言うことから「明け方」を導く序。同時に、戸を押し開けるほどの春風の強さ――そして、風が運ぶ梅が香の濃さ――を暗に示してもいる。なお春風を「憂き」と言うのは、風が香を運ぶだけでなく花を散らすものでもある故。文明十七年(1485)、作者二十一歳の詠。

【本歌】よみ人しらず「新古今集」
天の戸をおしあけがたの月みれば憂き人しもぞ恋しかりける
【参考歌】慈円「拾玉集」
槙の戸をおし明がたの空さえて庭白妙に雪降りにけり

帰雁

ほどぞなき秋にこしぢの月かげを花にかすめて帰る雁がね(常徳院詠)

【通釈】短い間であった。秋に越路の明月を残してやって来た雁が、いま春の月影を桜の花に霞ませながら帰って行くよ。

【語釈】◇こしぢ 越路。北陸地方。雁は秋、海の彼方の故郷から越路を経て京に渡来するものと考えられた。「来(こ)し」を掛ける。

【補記】文明十七年(1485)二月二十二日、水無瀬殿法楽に藤原(二階堂)正行の勧進に応じた歌。

【参考歌】後鳥羽院「後鳥羽院御集」
かへる雁たびの空にもわするなよ芳野の花にかすむ夜の月
  新院中納言典侍「玉葉集」
霧わけて秋はこしぢの天つ雁かへる雲井もまたかすむなり

野道菫

すり衣君が袖ふる春雨に紫野ゆき菫つみてむ(常徳院詠)

【通釈】あなたが摺り衣の袖を振っている――その袖に降る春雨に濡れながら、紫野を行き、菫を摘もう。

【補記】文明十八年四月六日、宗山出題の二十首歌。

【本歌】額田王「万葉集」
あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

夏車

夕がほの露の契りや小車のとこなつかしき形見なりけむ(常徳院詠)

【通釈】夕顔の花に置いた露のようにはかない契り――それだけが、牛車の床(とこ)ではないが、あの人との常(とこ)懐かしい思い出として残ったのだろうか。

【補記】「小車」は恋人のもとへ通うのに使った牛車。その「床(屋形)」から「常なつかしき」を導いている。文明十九年五月二十一日庚申の作。

【参考歌】源氏物語「夕顔」
光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時の空目なりけり

夏刀

あやめ草おなじ姿に置き馴れて枕の露や光そふらむ(常徳院詠)

【通釈】菖蒲(しょうぶ)造りの刀を毎夜同じ有様で床の辺に置いて寝るために、枕に落ちる露もいっそう光を増すのだろうか。

【補記】「あやめ草」は菖蒲造りの刀(菖蒲の葉の形の鎬(しのぎ)作りの刀)を暗示する。「枕の露」は後朝の女の涙であろう。鋭い刃が露に輝きを添えると言うのである。なお「置き」は露の縁語。上と同じく文明十九年五月二十一日の作。

十五日夜二首歌中納言入道すすめ侍りしに、秋月入簾

月見よと簾うごかす秋風に君まちをれば夜ぞ更けにける(常徳院詠)

【通釈】月を御覧と言うように簾を動かす秋風に吹かれながらあなたを待っていると、いつの間にかすっかり夜が更けてしまった。

【補記】文明十八年八月十五日、飛鳥井雅康(出家して宋世)に勧められて作った歌。

【本歌】額田王「万葉集」
君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾うごかし秋の風ふく
【参考歌】作者不明「万葉集」
山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける

浦月

伊勢の海や潮干のたづの声たけてわかの松原月冴えわたる(常徳院詠)

【通釈】伊勢の海の潮干にいる鶴の声が高くなって、わかの松原に月が冴え渡っている。

【語釈】◇潮干(しほひ) 潮が引いてあらわれた所。◇わかの松原 万葉集由来の歌枕。吾の松原。伊勢国三重郡、今の四日市市辺りかという。

【補記】長享二年(1488)二月二十五日、近江の陣中にあって、聖廟法楽五十首として詠んだ歌。義尚は翌年三月、陣中に病没。

【本歌】聖武天皇「万葉集」「新古今集」
妹に恋ひわかの松原みわたせば潮干の潟たにたづなきわたる

紅葉深

露しぐれのこれる山のもみぢ葉に夕日をそめて秋風ぞ吹く(常徳院詠)

【通釈】露時雨が濡れ残っている山の紅葉――その葉の色に夕日を染めて秋風が吹いているのだ。

【語釈】◇露しぐれ 露と時雨。紅葉は露・時雨に濡れる毎に色を濃くしてゆくとされた。

【補記】秋風が吹くたびに紅葉が散り、その色が夕日を濃くしてゆくと見た。文明十七年五月頃の日吉社奉納和歌。

小川亭にまかり人々遊びなどし侍りし次に、題を探りて、冬竹

一よさへ夢やは見ゆる呉竹のふしなれぬ床に木枯の風(常徳院詠)

【通釈】呉竹の一節ばかりの夢さえ見ることなど出来ようか。寝慣れない床に木枯の風が響いて――。

【語釈】◇一(ひと) 「一節」「一夜」の掛詞。なお「よ(節)」は竹の縁語。◇夢やは見ゆる 夢を見ることなど出来ようか、いや出来はしまい。「やは」は反語。◇呉竹の 「ふし」の枕詞。木枯の風が竹林に吹き荒んでいることを暗に示してもいる。

【補記】「小川亭」は不明。文明十六年冬の作。

【参考歌】藤原有家「新古今集」
夢かよふ道さへたえぬ呉竹のふしみの里の雪の下をれ

白地恋

かりそめの道のたよりの梅の花その香にふれし袖ぞ忘れぬ(常徳院詠)

【通釈】一度かぎりの道のついでに立ち寄った梅の花だが――その香に触れた袖は決して忘れない。

【語釈】◇白地恋 「白地」は「あからさま」と訓む。すなわち題意は「かりそめの恋」「ほんの一時の恋」といったところ。

【補記】梅の花に仮初めの情を交わした女を暗示。文明十七年(1485)二月二十五日、北野天神奉納和歌。

憂き人の心のあきの袂より月と露とはうらみはててき(常徳院詠)

【通釈】つれない恋人の心に秋が訪れて――私を飽きて――その人の袂から見た月と露とは、恨める限りは恨みきってしまった。

【補記】心の冷えきった相手の袂に涙の露を落とし、そこに月が映っていた、というのであろう。「うらみ」には「裏見」が掛かり、「袂」の縁語。

【参考歌】宗尊親王「柳葉集」
憂き人の心のあきの初時雨いつことの葉の色をそめけん

夜神祇

神楽歌にうたふさざ波よるなれど日吉のちかひ曇らぬものを(常徳院詠)

【通釈】神楽歌に合わせて歌う漣が寄せる――今は夜だけれども、日吉社に立てた誓いは決して曇りはしないのだ。

【語釈】◇さざ波 琵琶湖のさざ波であるが、神楽歌「篠波」を掛け、さらにまた「楽浪(さざなみ)」は琵琶湖西南部一帯の古名でもある。◇よるなれど 「よる」は「寄る」「夜」の掛詞。◇日吉 日吉大社。滋賀県大津市坂本本町にある比叡山の鎮守。◇ちかひ 戦勝の誓い、ひいては平和な吉き日を恢復せんとの誓い。◇曇らぬものを この「ものを」は詠嘆の終助詞。

【補記】長享元年(1487)九月、義尚は六角氏を討伐するため自ら軍を率いて近江へ向かった。その際、東坂本の陣所で詠んだ歌。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草員外」
みな月の月影しろき小忌衣うたふさざ浪よるぞすずしき


最終更新日:平成17年10月24日