近江佐々木氏(宇多源氏)の一族の出。美濃守岩山政秀の子かという。将軍足利義尚に側近の武士として仕える。長享元年(1487)、義尚が近江佐々木六角氏を攻める際も随行し、義尚の陣没により出家して道堅と号したらしい。永正七年(1510)近江に、大永五年(1525)には能登に下向したという。
和歌は飛鳥井雅親に学び、義尚主催の歌合などに参加。文明十五年(1483)、義尚の和歌打聞の編纂に加わる。『道堅法師自歌合』『道堅法師詠草』など数種の詠草が伝わる。『実隆公記』より三条西実隆との親交が知られ、実隆の家集『雪玉集』にも多くの歌が記録されている。
「道堅法師自歌合」群書類従221(第13輯)
「道堅法師百首」続群書類従397(第14輯下)
「道堅法師詠草」続群書類従447(第16輯上)
故郷花
咲く花のけふのあるじに身をなしてしのぶも悲し故郷の春(道堅法師詠草)
【通釈】故郷の花も咲いているだろう。その花の主人に今日は我が身をなして彼の地の春を偲ぶ――切ないことよ。
【補記】かつて故郷の家の花見に友を呼び「あるじ」として歓待した春の日を追慕する。花・月・恋を詠じて西行を追慕するかのような「詠五十首和歌」より。
【校異】群書類従本の「自歌合」では、第四句「思ふも悲し」。
【参考歌】藤原公任「拾遺集」
春きてぞ人もとひける山ざとは花こそやどのあるじなりけれ
法性寺為信「為信集」
けふいくか花のあるじに身をなしておくるる人のとふをまつらん
古寺花
世の憂さもまたやあひみむ初瀬山いのりし道は花ぞふりしく(道堅法師詠草)
【通釈】無常の世の辛さにまた遭遇するのだろうか。かつて観音に息災を祈った初瀬山の道には、花が降り敷いている。
【補記】「初瀬山」は奈良県桜井市、長谷寺のある山。これも「詠五十首和歌」より。
河辺花
暮れゆけばただ春風の音羽川おとを聞きても花ぞ悲しき(道堅法師詠草)
【通釈】日が暮れてゆくと、音羽川も川辺の桜も見えなくなり、ただ春風の音ばかり――その音を聞くにつけても花の身の上が思いやられて切ない。
【補記】「音羽川」は山城の歌枕。比叡山に発し、雲母(きらら)坂あたりを流れ、高野川に注ぐ小川。同じく「詠五十首和歌」。
【校異】続群書類従本は第四句「おとに聞ても」。川田順編『戦国時代和歌集』に拠り「おとを聞きても」を採った。
花下送日
吉野より
【通釈】吉野から外へは出ることがない。ここで何日も費やして――同じ下陰から花は見ないのだけれども。
【補記】奥深い吉野の山を何日もかけて辿りつつ、花から花へと渡り歩く。「同じかげなる花」は「同じ下陰にあって見る花」「同じ姿である花」の両意を兼ねよう。「詠五十首和歌」。
【参考歌】西行「山家集」「新古今集」
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
難波江
難波江や芦のしげみの下くぐる音にもちかき水の秋風(道堅法師百首)
【通釈】難波江の芦の茂みの下を潜り流れる音――その音にも、水の秋は近く、秋風が吹き始めるのも直だと感じる。
【補記】名所歌枕を題として一晩で百首を詠んだ「聖廟法楽 一夜詠」の夏二十首より。三条西実隆と競詠したもので、実隆の家集『雪玉集』にも「名所百首和歌」として収録されている。
【参考歌】坂上是則「古今集」
もみぢばのながれざりせば竜田河水の秋をばたれかしらまし
中務「中務集」「新千載集」
下くぐる水に秋こそかよふらしむすぶ泉の手さへ涼しき
野径月
里遠く野はなりにけり長き夜の月のゆくへをとふとせしまに(道堅法師自歌合)
【通釈】人里を遠く離れて野を来てしまったなあ。秋の長夜、月の行く先を訪ねようとしていた間に。
【補記】「詠五十首和歌」。
【校異】続群書類従本『道堅法師詠草』では第二句「今は成けり」、第三句「長月の」とある。
海上月
秋ふかくなるとの海の早汐におちゆく月のよどむ瀬もがな(道堅法師詠草)
【通釈】秋も深まった鳴門の海の早潮――その潮流に乗ったように素早く落ちてゆく月のとどこおる浅瀬があってほしい。
【語釈】◇なるとの海 鳴門海峡。「なる」に「成る」を掛ける。◇早汐 速い潮流。鳴門海峡は渦潮で名高い。◇おちゆく月 海に沈む月であるが、海面に映じた月の光が渦潮に落ちて行く状景も思い浮かべられる。
【補記】二条風の手堅い技巧を感じさせる歌。「詠五十首和歌」。
永正六年閏八月十五日 三条前内大臣家
ふかき夜の宿をば出でて我ながら行くかたしらぬ道の辺の月(道堅法師詠草)
【通釈】深夜の宿を出て、自分でもどちらへ行くのか知らない道――その辺際に照る月を目指して。
【補記】明月に心奪われての彷徨。「道の辺(べ)」はこの場合「道の果て」「道の極み」の意。三条西実隆邸における中秋名月の歌宴での作。
【参考歌】西行「山家集」
ゆくへなく月に心のすみすみてはてはいかにかならんとすらん
月前虫
露の間と見るもはかなし鳴く虫の命の末のよもぎふの月(道堅法師詠草)
【通釈】露の間と見るのも甲斐ないことよ。鳴く虫の声も弱まり――その命の末を照らす蓬生の月よ。
【補記】「露の間」は虫の残された命の短さを言う。尤も第四句から五句にかけて「末の世」が掛けられていると見れば、風前の灯は虫の命だけではないことになろう。
【参考歌】後鳥羽院「新古今集」
秋ふけぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむしよもぎふの月
雑
思ふこそ遠きも憂けれ行くとなれば我が路ならぬ海山もなし(道堅法師詠草)
【通釈】旅路を思えば遠いことは憂鬱だけれども、実際行くとなれば、海であろうが山であろうが、我が路とならぬことはないのだ。
【補記】「詠三十首和歌」。出発前の憂慮を打ち消しての力強い決意を詠んだ、珍しい旅歌。
山家水
住むとならば水の音する石のうへ木の下露のかかる所を(道堅法師詠草)
【通釈】住むのだったら、水の音がする石のほとり、そして木の下露がかかる、こんな場所が良いなあ。
【補記】「すむ」は「澄む」と掛詞になって水の縁語。「水の音」は山清水の岩に濯ぐ音であろう。「かかる」は「懸かる」「斯かる」の両義。
【参考歌】三条西実隆「雪玉集」
すむとならばその山水の末までも我が身にごらぬ心ともがな
最終更新日:平成17年10月31日