柳原安子 やなぎはらやすこ 天明三〜慶応二(1783-1866)

従二位参議正親町三条実同(さねとも/さねあつ)の娘。正二位大納言柳原均光(なりみつ)の妻。三十歳の時夫と死別し、以後五十余年を独身で過ごす。慶応二年十二月二十八日、八十四歳で死去した。柳原白蓮は玄孫にあたる。
香川景樹に入門して和歌を学び、景樹没後は熊谷直好の指導を受けた。秋園古香・高畠式部と共に桂園派を代表する女流歌人。明治時代に佐佐木信綱が『続歌学全書』などで家集『桂芳院遺草』を紹介し、世に知られるようになった。墓所は京都市上京区の浄福寺。
 
以下には『桂芳院遺草』より八首を抄出した。

 

鶯の声や氷に響くらん音立てそめつ谷川の水

【通釈】谷を渡る鶯の声が、川面の氷に響きわたっているのだろう。谷川の水も氷の下で音を立て始めた。

【補記】鶯の声に呼応したかのように響き始める谷川の水音。一首のまとめ方は旧風であるが、鶯の声が氷った川面に響くとの想像は新鮮。

【参考歌】源順「拾遺集」
氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬ鶯の声

 

夜のほどの野分も知らず咲きにけり窓に取り入れし朝顔の花

【通釈】夜の間吹き荒れた野分も知らずに、今朝咲いたのだった。昨夜窓に取り入れておいた朝顔の花よ。

【語釈】◇野分(のわき) 秋に吹く暴風。今言う台風にあたる。

【補記】野分の来るのを見越して取り入れてやった鉢の朝顔が、翌朝花を咲かせた。日常の些細なできごとを詠んで、しみじみとした喜びを湛えている。

 

あさましの花の姿やをみなへし世をあき風に散りもはてなで

【通釈】情けない花の姿であるよ、おみなえし。世を飽いたのちも、秋風に吹かれて散り切らずにいて。

【補記】枯れがたになっても散り果てない女郎花のありさまに、老残の我が身を重ねた歌か。「あさまし」とは言いつつ、王朝和歌の優美な風趣を伝える一首。

 

夕風になくひよ鳥の声落ちて日かげさびしき杉の一むら

【通釈】夕風の吹く空で鳴いていた鵯たちの声が落ちて、そこだけ日が射している杉の一叢がさびしげである。

【語釈】◇ひよ鳥 秋、山地から人里に群れをなして移って来る。ピーヨピーヨと喧しく鳴く。

【参考歌】衣笠家良「新撰和歌六帖」(「六華集」などは定家の作とする)
鷺のとぶ川辺のほたで紅に日かげさびしき秋の水かな

 

夕べ夕べ木の葉ふる音わびしきに紅葉する木は植ゑじとぞ思ふ

【通釈】夕べごとに木の葉が降る音が遣り切れなくて、紅葉する木はもう植えまいと思うのだ。

【補記】紅葉の散りざまを目に見てではなく、音にわびしさを聞いての感慨であることが一首に陰翳を与えている。

 

君ゆけば帰らむ日まで世の中に花も紅葉もあらじとぞ思ふ

【通釈】あなたが旅に出たので、帰って来る日まで、私にとってはこの世に花も紅葉もあるまいと思うのだ。

【補記】人との別れに際して詠まれた歌では「君が船遥かになりぬ波風も今はな立ちそとめむよしなし」という作もある。佐佐木信綱は安子の歌について「女らしい優美なところと、また感情のはげしいところとがある」と評している(『近世和歌史』)が、掲出歌は次の一首と共に彼女の「はげしい」一面をあらわす。

 

むらぎもの心一つに思ふこと命のうちにいふひまもがな

【通釈】心の中だけでひそかに思い続けていること――このことを、命あるうちに言う機会があってほしい。

【語釈】◇むらぎもの 心の枕詞。「群肝の」の意と言われる。◇ひま この場合、それをするための時間、機会といった意。

大原のおく寂光院といふ寺にしる由ありて、我が身なからむ後のことなど頼みおき侍るとて書いつけたる

うづもるる身は露霜のふる塚は春だに花の雪に隠れむ

【通釈】世に埋もれた我が身が露霜のようにはかなくなったのちの古塚は、春でも花の雪に埋もれて、人目から隠れているだろう。

【語釈】◇寂光院 京都大原の天台宗の尼寺。聖徳太子の創建と伝わる。建礼門院徳子が平家滅亡後に隠棲した寺。◇ふる塚 露霜が「降る」「古」塚、の掛詞。塚とは土を高く盛って作る墓のこと。◇花の雪 雪のように舞い散る桜の花。

【補記】寂光院に自分の死後のことを頼んでおこうと書き付けた歌。作者は維新前夜の慶応二年十二月二十八日、八十四歳で死去。晩年は人との交流を避け、孤独のうちに風雅の暮らしを送ったという。


公開日:平成19年12月01日
最終更新日:平成19年12月01日