履中天皇 りちゅうてんのう 別名:伊邪本和気命(いざほわけのみこと)

仁徳天皇の第一皇子。母は磐之媛。反正・允恭天皇の同母兄。仁徳天皇崩後、異母弟の住吉仲皇子の叛乱を抑え、履中元年二月、磐余稚桜宮に即位。平群・蘇我・物部氏らに執政を委ねたという。陵墓は大阪府堺市の百舌鳥耳原陵。
古事記に三首の歌謡を伝える。以下にはそのうちの二首を抄した。

波邇布(はにふ)に到りまして、難波の宮を見やりたまへば、其の火なほ炳(あか)くみえたり。かれ天皇また御歌はしけらく

埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり

【通釈】埴生坂の上に立って眺めると、燃えている家々が見える。妻の家のあたりが。

【補記】古事記下巻。難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見しての詠。説話を離れて読めば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、のどかな国見歌になる。

 

大坂に 遇ふや嬢子(をとめ)を 道問へば (ただ)には()らず 当麻路(たぎまぢ)()

【通釈】大坂で逢った少女に道を尋ねると、まっすぐに大坂を越える道を言わずに、遠回りの当麻道を行くよう教えてくれた。

【補記】古事記下巻。住吉仲皇子の兵に塞がれた逢坂の入口で、たまたま遇った少女が「まっすぐには行かず、当麻道をお通りなさい」と教えてくれた時、天皇が詠んだ歌。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日