徳川光圀 とくがわみつくに 寛永五〜元禄十三(1628-1700) 諡号:義公 通称:水戸黄門

寛永五年六月十日、水戸に生れる。父は初代水戸藩主徳川頼房(家康の十一男)。母は家臣谷重則の娘、久子。三男であったが、将軍家光の指示によって世継ぎとされ、寛永十年、江戸小石川の水戸藩邸に入る。承応三年(1654)、前関白近衛信尋の次女、尋子(泰姫)と結婚。明暦三年(1657)、駒込邸に史局を置き、『大日本史』の編纂に着手する(のち小石川に移し、彰考館と称す)。寛文元年(1661)、水戸藩二代藩主となる。藩政改革に取り組み、種々の文化事業を興して明君と讃えられたが、五代将軍綱吉との確執から、元禄三年(1690)致仕を余儀なくされ、家督を頼重の子綱条(つなえだ)に譲って、久慈郡新宿村(今の常陸太田市郊外)の西山荘に隠居した。同年、権中納言に叙される(中納言の唐名を「黄門」と言うため、後世、水戸黄門と通称されるようになった)。同九年十二月二十三日、亡妻尋子の命日に剃髪。同十三年十二月六日(西暦1701年01月04日)、薨去。七十三歳。義公と謚された。常陸太田市瑞竜町の瑞龍山に儒式墓所があり、同市新宿町の久昌寺に義公廟がある。また水戸市常磐町の常磐神社に祭神として祀られている。明治三十三年、贈正一位。
種々の学芸に精通したが、詩歌はことに好むところで、堂上派の歌人中院通茂や冷泉為景と親交をもち、また山本春正岡本宗好らに命じて地下歌人の撰歌集『正木のかづら』を編集させるなどした。万葉集の研究を重視し、契沖を庇護して『万葉代匠記』を執筆・進呈させたことも和歌史上の大きな業績である。嗣子綱条の編になる歌文集『常山詠草』五巻がある(続日本歌学全書八・校注国歌大系十五に所収)。他の著書に『常山文集』『甲寅紀行』『鎌倉日記』などがある。

以下には『常山詠草』と『正木のかづら』より五首を抜萃した。

夕立

夕立の風にきほひて鳴る神のふみとどろかす雲のかけ橋(常山詠草)

【通釈】夕立をもたらす風と先を争うように、雷神が轟々と音響かせて踏み渡ってゆく、雲の懸橋よ。

【語釈】◇夕立の風 夕方、突然起こる強い風。この風の後に俄雨が降ったり雷が鳴ったりすることが多い。◇雲のかけ橋 幾重にもたなびく雲を、空に架け渡した橋に見立てた表現。

【補記】下記参考歌と第二句のみ異なる。光圀の詠は動感・丈高さにおいて参考歌を凌ぐ。同題「見るがうちに風こそかはれこの山の峰越す雲のあとの夕立」も柄の大きな叙景。

【参考歌】飛鳥井雅親「亜槐集」
夕立のあとはとだえずなる神のふみとどろかす雲のかけはし

磯月

荒磯の岩にくだけてちる月を一つになしてかへる波かな(常山詠草)

【通釈】荒磯の岩に砕けて散る月光――その光を再び一つにして、帰ってゆく波よ。

【補記】秋歌。下記参考歌のように岩に砕け散る月光を詠んだ歌は少なくないが、「一つになして帰る波」と詠んだのは当詠の創意。

【参考歌】木下長嘯子「挙白集」
よせかへり千々にくだけて荒磯やひとつもうせぬ波の月影

月前懐旧

もろともに見しその人の形見ぞと思へば思へば月もなつかし(常山詠草)

【通釈】一緒に眺めたあの人を思い出すよすがと思えば、月も慕わしく感じられる。

【補記】月に向かって亡き人を偲ぶ。妻の尋子が残した歌に、同一句を含む「おもふまじ思ふかひなき思ひぞとおもへばおもへばいとど恋しき」があり、おそらくは亡き妻を思っての作であろう。

【参考歌】二条為氏「新千載集」
めぐりあふ影は昔のかたみぞと思へば月の袖ぬらすらむ

雪のあした風軒につかはされける

君があたり思ふ心の通ひ路をふりなうづみそ今朝の初雪(正木のかづら)

【通釈】あなたの住む辺りへと思いを馳せ、心の中で幾たびも私が辿っている通り路――その道を降り埋めないでおくれ、今朝の初雪よ。

【補記】雪の積もった朝、風軒(常陸松岡藩の大名、中山信正)に贈った歌。『正木のかづら』は光圀が山本春正らに命じて選ばせた、地下歌人を中心とした私撰集。

【本歌】作者不詳「万葉集」「伊勢物語」「新古今集」
きみがあたり見つつををらむ生駒山雲なかくしそ雨はふるとも

例ならず悩みて起きもせず寝もせぬ枕の上を時鳥二度鳴きわたりければ

時鳥なれも独りはさびしきに我をいざなへ死出の山路に(常山詠草)

【通釈】ほととぎすよ、おまえも独りで行くのは寂しいだろうから、私を死出の山路へと誘ってくれ。

【補記】「死出の山路」は、冥土へ向かう死者が越えるべき山道。死の苦しみを山越えの辛さに譬えたもの。ほととぎすは「しでの田長(たをさ)」とも呼ばれ、冥界と現世を往き来する鳥と考えられた。

【参考歌】相模「相模集」
なきかへるしでの山ぢのほととぎすうき世にまよふ我をいざなへ


公開日:平成18年06月27日
最終更新日:平成18年06月27日