戸田茂睡 とだもすい 寛永六-宝永三(1629-1706) 号:露寒軒

駿河大納言忠長の家臣、渡辺監物忠の六男として駿府城内に生まれる。名は馮、通称茂右衛門。後に戸田茂睡恭光を名乗る。歌人山名玉山は従兄。
幼少時、父が主人忠長の乱行の責を負って下野那須黒羽の大関家にお預けになり、茂睡も蟄居生活を強いられた。赦免後、江戸に出て浪人生活を送り、延宝二年(1674)、岡崎藩主本多侯に仕える。晩年は出家し、江戸浅草や本郷丸山に隠棲して歌作・著述に励んだ。宝永三年四月、七十八歳で逝去。墓は浅草寺にある。自詠「塵の世をいとふ心の積りては身の隠れ家の山となるらむ」より、「隠れ家の茂睡」と時人に称された。
和歌史上では、いちはやく堂上歌学を批判し、歌詞・歌想の自由を説いた歌論家として評価される。家集はないが、自らが編んだ私撰集『鳥の迹』、歌文集『紫の一本』などに歌が収められている(校註国歌大系十五にこれらの書から茂睡の作を抄出した「戸田茂睡歌集」がある)。他の著書に歌論書『百人一首雑談』、『梨本集』(日本歌学大系七所収)、将軍綱吉の時代の貴重な記録として評価される『御当代記』等がある。主要著作は『戸田茂睡全集』(国書刊行会、大正十四年刊)に収められている。

戸田茂睡は歌人というより歌論家として和歌史に足跡を残した人である。
茂睡の生きた時代の和歌は、中世以来の師資相承の歌学がなお支配的で、歌作上さまざまな制約を課していた。例えば最初の五字に「ほのぼのと」を置くのは、歌聖人麻呂の作と伝わる「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」に遠慮して「禁じ手」とされていた。しかし茂睡は後鳥羽院御製「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」など豊富な実例を挙げて、こうした禁制を不合理と批判した。
伝統歌学、いや因襲歌学を、文献による実証を通して本格的に批判したのは、茂睡を以て嚆矢とする。
俗語の使用なども当然制限されていたが、茂睡は万葉集の「飯(いひ)(は)めど うまくもあらず ありけども 安くもあらず(後略)」などを例に挙げ、「人の言ふと言ふ程の詞を歌に読まずといふことなし」と、束縛からの解放を宣言した。
彼の態度には「道理に反する権威は認めない」という近代的精神の萌芽が見られる。
尤も茂睡の実作は、彼の理論に追いついていなかった、と言わざるを得ない。俗語の導入と言っても、例えばこんな具合である。
ひく琴に声も惜しまぬほととぎす感に堪へかね我もねになく
「感に堪へかね」などは当時の口語であろうが、こうした詞遣いは歌を散文的にし、卑俗にし、安易にするという結果ばかりを招いている。
茂睡の歌論は後世に直接の影響を与えたわけではないが、その実証主義的精神は契沖・真淵達の国学へと、和歌の改革は蘆庵・景樹達へ、さらに明治時代の鉄幹・子規達へと、批判的に引き継がれて行くことになる。

以下には『鳥の迹』より六首を抄出した。

暮山花

暮れかけて山路の花にたれか来ん入日をつなげささがにの糸

【通釈】日が暮れ始めて、山中の花を見に誰かがやって来るだろう。沈む日を繋ぎ止めよ、蜘蛛の糸。

【語釈】◇ささがに 細蟹。形が小さい蟹に似ていることから、蜘蛛をこのように呼んだと言う。

【補記】夕桜は情趣のあるものとされ、殊に新古今以後「暮山花」の題は好まれた。なお私撰集『鳥の迹』は元禄十五年(1702)、茂睡七十四歳の撰。

太田道灌が別業日暮里にて

夕霧に谷中の寺は見えずなりて日暮の里にひびく入相

【通釈】立ち込める夕霧に谷中(やなか)の寺は見えなくなって、日暮(ひぐれ)の里に響く入相の鐘よ。

【補記】霧と入相の鐘の取り合せは月並だが、「谷中(やなか)」「日暮(ひぐれ)の里」の地名が情趣を醸し出す。風流を愛した武将歌人道灌を偲べばなおさらであろう。谷中は今の東京都台東区谷中、上野寛永寺の子院が建ち並び寺町として栄えた。日暮の里はいま荒川区東日暮里・西日暮里として地名が残る。

【参考歌】源兼昌「詞花集」
夕霧に梢も見えず初瀬山いりあひの鐘の音ばかりして

玉山入道なくなりしあくる年の春、上野の花を見、去年の盛りにはともにながめしものをと思ひ出でて読みける

立ちよるもひとりさびしき()の下に花も去年(こぞ)見し人や恋しき

【通釈】立ち寄ったところで、独り寂しい思いをするばかりの木の下で――花も去年見た人が恋しいのだろうか、なにか寂しげに見えてならない

【補記】従兄であり歌の師でもあった山名玉山(1623〜1694)が亡くなった翌年春の作。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

述懐の歌の中に

みそら行く光はさらにかはらぬにいつの月日の老となしけん

【通釈】空を行く日と月の光は全く変わらないのに、私は歳月を経てこのように変わり果ててしまった。いつの月日が老いとなしたのだろうか。

【補記】老境の述懐。続く二首は「老いぬれば姿こそはといさめても心も花になりがたの身や」「今は身にうとき人だにゆかしきは老の心の哀れはかなさ」。

【参考歌】正徹「草根集」
過ぎやすき月日の数も身にとまる老となしてや年の行くらん

山家を

谷ごしにあなたもさこそながむらん友山住(ともやまずみ)の暮の灯影(ほかげ)

【通釈】谷を隔てて、あちらの方もこうして眺めているだろう。共に山に住む友が、夕暮に灯す明りを。

【補記】谷を隔てて隠棲する同士、友を慕う切なさ。なお、係助詞「こそ」に呼応するのは已然形なので、第三句は正しくは「ながむらめ」とすべきところ。

高野よりの下向に住吉へまうでて

いのらずよ身はかりそめの旅衣袖敷しまの道の外には

【通釈】祈りはしないよ、所詮我が身ははかない旅の身――旅衣の袖を敷いて寝る、その「敷き」しまの道――和歌の道の精進のほかには。

【補記】我が身の延命・長命は祈らず、ただ和歌の道に上達することだけを祈る、と言う。住吉神社は平安後期から和歌三神の一つとして尊崇されていた。


公開日:平成18年03月11日
最終更新日:平成20年05月27日