出羽国米沢城主伊達左京大夫輝宗の長男。
五歳の時、天然痘で右目を失う。天正五年(1577)元服し、藤次郎政宗と改名。天正十二年、十九歳で家督を継ぐ。同十三年、安達郡小浜城主の大内氏を破ったのを始め、会津の蘆名氏、白河の結城氏、須賀川の二階堂氏などを攻めて次々に領土を拡げた。同十八年、豊臣秀吉より小田原参陣を命ぜられ、母と対立、毒を盛られたが一命を取り止める。弟を殺し母を実家に追放したのち、遅れて小田原に馳せ参じた政宗は、死を決意し白装束を着て秀吉の前に現れたという。天正十九年(1591)、米沢から玉造郡岩出山に移る。同二十年、文禄の役に出兵。秀吉の没後、長女を徳川家に輿入れする。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦では東軍に参戦、上杉領白石城を陥落させ、刈田郡を与えられて六十万石となる。同七年、新築の仙台城に移る。同八年(1613)、支倉常長らをローマに派遣する。寛永十三年(1636)、江戸の桜田屋敷で死去。
晩年はことに文雅を好み、たびたび歌会などを催した。木下長嘯子とは交友があった。家集『貞山公集』などに歌が伝わる。川田順編『戦国時代和歌集』には四十三首の歌が収録されている。
「伊達政宗公集」 古典文庫615
ささずとて誰かは越えむあふ坂の関の戸うづむ夜半のしら雪(集外三十六歌仙)
【通釈】閉ざさなくても、誰が越えようか。逢坂の関の門戸を埋める、夜間降り止まぬ白雪よ。
【本歌】九条良通「千載集」
ふるままに跡たえぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざしなりけれ
心なき身にだに月を松島や秋のもなかの夕ぐれの空(伊達政宗卿詩歌要釈)
【通釈】もののあわれを解さない我が身でさえ、月の出を待ちわびる松島よ――仲秋十五日の夕暮の空の下で。
【参考歌】源順「拾遺集」
水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のも中なりける
西行「新古今集」
心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日