光明皇后 こうみょうこうごう 大宝元〜天平宝字四(701-760) 略伝 諱:安宿媛

藤原不比等の三女。母は県犬養橘宿禰三千代。武智麻呂・房前・宇合・麻呂・文武夫人宮子の異母妹。甥にあたる首皇子(聖武天皇)の妃となり、阿倍内親王(孝謙天皇)と基親王をもうけた。諱は安宿媛(あすかひめ、またはあすかべひめ)と言ったが、天平十二年(740)頃から光明子と称し、後世光明皇后の名が広まることになる。
神亀元年(724)、夫が即位すると、夫人となる。同四年に出産した基親王はただちに皇太子に立てられるが、翌年病死した。長屋王の変を経て、天平元年(729)、臣下としては異例の立后を果たす。同二年、皇后宮職に施薬院を置き、自らの財によって薬草を集め、病者に施した。天平九年の疫病流行で四人の兄を失う不幸に遭うが、天皇が東大寺造立に専念するようになると、次第に政治上の影響力を増し、天平勝宝元年(749)、娘の阿倍内親王が即位するに及んで皇后宮職を改め紫微中台を設置し、甥藤原仲麻呂に長官を兼ねさせて、ほぼ実権を掌握した。同八年、聖武帝が崩ずると、自ら願文を草し、天皇遺愛の品々を東大寺に献じた。これが正倉院の始まりである。天平宝字二年(758)、淳仁天皇が即位すると、百官僧綱の上表により天平応真仁正皇太后の尊号を受けた。同四年六月七日、病により崩御。聖武と並べて佐保山陵に葬られた。興福寺五重塔や新薬師寺の造営を始め、仏教上の業績は数知れない。万葉集には三首の歌を残す。

藤原后の天皇に奉る御歌一首

我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし(万8-1658)

【通釈】あなたと二人で見たとしたら、どれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。

【補記】聖武天皇に献った歌。

 

朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我がやどの萩(万19-4224)

右の一首の歌は、芳野の宮に幸(いでま)す時に藤原皇后作らす。但し年月未だ審詳(つばひ)らかならず。十月五日、河辺朝臣東人、伝誦してしか云ふ。

【通釈】朝霧のたなびく田に羽を休め鳴いている雁を、引き留めることができるだろうか、我が庭の萩は。

【補記】天平勝宝二年(750)、京から越中にやって来た河辺東人が家持に伝えた歌。当時、光明子は正しくは皇太后。皇后の称は作歌当時の地位を適用したものか。聖武朝において記録に残る吉野行幸は神亀元年(724年)年三月・神亀二年五月(万葉巻六)・天平八年(736年)六月〜七月の三回。

春日にして神を祭る日、藤原太后の作らす歌一首 即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ 参議従四位下遣唐使

大船に真楫しじ()きこの吾子(あこ)唐国(からくに)へ遣る(いは)へ神たち(万19-4240)

【通釈】大船に櫂をたくさん取り付けてやり、この我が子を唐国へ遣わします。守ってやって下さい、神々よ。

【補記】天平勝宝三年(751)、越中国大目(だいさかん)高安倉人種麻呂が大伴家持に伝え、家持が記載した歌。藤原清河の入唐は翌年のこと。清河は光明子の甥だが、国母の立場から「吾子」と呼んでいる。

光明皇后、山階寺にある仏跡にかきつけたまひける

三十(みそぢ)あまり二つの姿そなへたる昔の人の踏める跡ぞこれ(拾遺1345)

【通釈】三十二相の姿を備えた昔の人、釈迦のお踏みになった跡が、これなのですね。

【補記】山階寺は興福寺。仏跡は仏足石のこと。三十二相は仏が備えているとされた三十二の姿・形。参考サイト(やさしい仏教入門)


最終更新日:平成15年11月14日