隼別皇子 はやぶさわけのみこ

古事記には速総別王とある。応神天皇の皇子。母は桜井田部連の糸媛。仁徳天皇の異母弟。日本書紀によれば、仁徳天皇四十年、天皇に命ぜられ雌鳥皇女(記では女鳥王)の媒(なかだち)として使者に立ったが、自ら皇女を娶り、天皇の恨みをかった。また皇子の舎人の歌に謀反の徴があったため、天皇は皇子を除くことを決意。皇子は雌鳥皇女をつれて伊勢神宮へ向かうが、伊勢の蒋代野(こもしろの。所在不詳)で天皇の遣った追手に殺された。
以下には、刺客に追われて雌鳥皇女と共に山を越える時に詠んだという歌を、古事記・日本書紀より各一首掲げる。

速総別王、女鳥王(めどりのみこ)、共に逃げさりて、倉梯山にのぼりましき。ここに速総別王歌ひたまはく

梯立(はしたて)の 倉梯(くらはし)山を (さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも

【通釈】倉梯山は険くて、岩に縋り付きながらのぼってゆくけれど、女のお前にはそれもしかねて、俺の手に取り縋ってくるんだよなあ。

【語釈】◇梯立の 「倉梯」にかかる枕詞。高床式の倉に梯子を立てて登ったことに由来する。

【補記】古事記下巻。仁徳天皇の追手を逃れ、雌鳥皇女と共に倉梯山(奈良県桜井市)を越える時に詠んだという歌。古事記ではこの直後、二人は宇陀の曽爾で殺されたと記す。古事記にはもう一首「梯立の 倉梯山を 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず」がある。

雄鮒(をふな)等、追ひて菟田(うだ)に至りて、素珥(そに)の山に()む。時に草の中に隠れて、わづかに(まぬか)るることを()。すみやかに()げて山を越ゆ。是に、皇子、歌よみして曰く、

梯立(はしたて)の (さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安筵(やすむしろ)かも

【通釈】梯子を立てて登るような険しい山も、いとしい妻と二人で越えるのなら、やわらかい筵のように楽ちんだよ。

【語釈】◇雄鮒 仁徳天皇の放った刺客、吉備品遅部雄鮒(きびのほむちべのをふな)。「鮒」の字は通用字を以て代えた。◇菟田 奈良県宇陀郡。菟田県(うだのあがた)があった。◇素珥(そに)の山 奈良県の曽爾高原であろう。ここを越えれば伊勢国である。

【補記】日本書紀巻第十一。仁徳天皇の四十年。古事記では倉梯山で歌が詠まれたとしているが、日本書紀では「素珥(そに)山」に潜んだ後山を越える時に詠まれたとする。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日