施基皇子
しきのみこ
生没年
?〜716(霊亀2)
系譜など
天智天皇
の第7皇子(『類聚三代格』は第3皇子とする)。母は越道君娘
(こしのみちのきみのいらつめ)
。正室は多紀皇女(天武天皇の皇女で伊勢斎宮。天平勝宝3年薨)。側室に紀朝臣橡姫(白壁王の母)がいる。子に
白壁王
・湯原王・榎井王・春日王・海上女王・坂合部女王・難波女王・衣縫女王などがいる。
名は書紀に
芝基・施基
とあり、続紀に
志紀・志貴
に作る(以下、略伝では書紀・続紀での表記を
藍色の太字
で示す)。万葉集では
志貴
に統一されているが、『皇胤紹運録』『尊卑分脈』など
施基
に作る書も少なくない。子の白壁王(光仁天皇)即位後の770(宝亀1)年、
御春日宮天皇
と追尊された。
田原天皇
とも称される。
なお万葉には題詞脚注にもしばしば志貴皇子の名が見え、04/0531「海上王奉和歌一首」に「志貴皇子之女也」、04/0631「湯原王贈娘子歌二首」に「志貴皇子之子也」、04/0669「春日王歌一首」に「志貴皇子之子母曰多紀皇女也」、06/1015「榎井王後追和歌一首」に「志貴親王之子也」とある。
奈良豆比古神社 奈良市奈良坂町
志貴皇子療養の地と伝え、皇子を祀る
略伝
679(天武8)年5月の六皇子の盟約に参加(
芝基
)。685(天武14)年1月の新冠位授与の際は、名が見えない。686(朱鳥1)年8月、諸皇子と共に封を加増され、
磯城皇子
と同じく200戸を加えられる(
芝基
)。689(持統3)年6月、撰善言司に任じられる(
施基
)。694(持統8)年12月の藤原京遷都ののち、「明日香宮より藤原宮に遷居りましし後」の御作歌(01/0051)がある。703(大宝3)年9月、近江の鉄穴を賜る(
志紀
)。この時四品。同年10月、
持統上皇
御葬送の際、造御竈長官(
志紀
)。704(慶雲1)年1月、封100戸を加増される(
志紀
)。706(慶雲3)年9月から10月にかけての
文武天皇
難波行幸に従い、このとき御作歌(01/0064)がある。707(慶雲4)年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉(
志紀
)。この時三品とあり、翌年の叙品の記事と矛盾する。708(和銅1)年1月、三品を授けられる(
志貴
)。
白毫寺 奈良市白毫寺町
志貴皇子の宮があったと伝わる
710(和銅3)年の平城遷都後、「
長皇子
の志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌」があるが、長皇子の作(01/0084)のみで、志貴皇子の作は見えない。714(和銅7)年1月、長親王らと共に封200戸を益増(
志貴
)。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例となった。715(霊亀1)年1月、二品(
志紀
)。716(霊亀2)年8月11日、薨去(
志貴
)。六人部王らが葬事監護に派遣される。薨伝に「天智天皇第七之皇子」とある。
『類聚三代格』宝亀三年五月八日条には「丙辰(霊亀二)年八月九日崩」と記し、続紀でも771(宝亀2)年5月の記事に「始めて田原天皇の八月九日の忌斎を川原寺に設く」とあり、薨去の日付は8月9日が正しいか。なお万葉集には霊亀元年9月薨去と見え(
笠金村
歌集の歌02/0230〜0232)、続紀等の記事と矛盾する。このことから、鹿持雅澄『萬葉集古義』は、万葉に見える「志貴皇子」は天智の皇子である施基皇子でなく、天武の皇子である
磯城皇子
であろうと推断している。
770(宝亀1)年11.6条に御春日宮皇子(春日の宮におほましましし皇子)とあり、万葉集の挽歌(02/0232・0234)からは三笠山の野辺に宮を営み、高円山に葬送したことが窺える。山陵は田原西陵と称され、高円山の東南、奈良市須山町にある。
万葉には6首。上記2首(01/0051・0064)のほか、03/0267・04/0513・08/1418・08/1466。いずれも秀歌として名高く、万葉を代表する歌人の一人に数えられる。
関連サイト:
志貴皇子の歌(やまとうた)
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