ことばをめぐるひとりごと
その24 来てくれよ このところ、「作家のことば遣いが変」というシリーズが続いていますが、今回も樋口一葉の文章からあら探しをしてみましょう。 そこの小説をものせんとするも、かゝる心ばへにてぞあれよかしなどをしへ給ふ。雨もやみぬ、あさては早くより参りくれよ、などのたまふ。暇を乞てかへる。(「日記」明治25年3月24日)
これは、彼女が、師匠の家を訪問した際、この師匠が「雨もやんだ、明後日は早くから来てくれよ」とおっしゃった、というのです。ここでは「参りくれよ」とありますが、「来てくれよ」の「て」を抜かして「来くれよ」とか「参りくれよ」とか言うことができるのでしょうか。 その後夫は、四十五年の春の末まで、矢張足かけ四年の間國もとにて暮し申し、私にも優しくいたしくれ、妙子をも可愛がり候。(谷崎潤一郎「友田と松永の話」1926年)
「なれど明年からは約半分ほどになろう。その間、浮浪人たちの授産が出費のたすけになるようにいたしくれるよう」(池波正太郎『鬼平犯科帳』文春文庫)
公爵 〔……〕それを補うにたる博識たるや、改めて賞讃の辞に窮するものあり、さいわい小生の請いを容れ、代って御依頼に応じくれる由。(シェイクスピア・福田恆存訳『ヴェニスの商人』新潮文庫)
これらはすべて、文語調を真似た文脈で使われていますが、それほど古い言い方ではないわけです。たとえば平安時代の人なら、「来てくれ」は単純に「来よ」と言ったでしょう。また、相手が同等以上の人であれば、「来たまへ」のように、尊敬語の「たまふ」が使われたでしょう。 妻{め}にいふ、「果物・おもの・酒・菜{あはせ}どもなど、おほらかにしてくれよ。我に憑きたる物惜しまずする慳貪の神、祭らん」といへば、 (「古本説話集」下・第五十六)
旦那が奥さんに、「果物やご飯や酒などを、たくさん盛って私にくれよ」というのですが、もはやこの例では、「私に盛ってくれよ」と、精神的な恩恵を受けるようにとってもいいでしょう。 わたしが参上すると、鶴のような痩身に白髪の美しい市川さんは、わざわざ立って迎え入れて呉れられた。(山崎朋子『あめゆきさんの歌』文春文庫) 今では、ちょっとめずらしい言い方かもしれませんね。 (1997年記)
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