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99.11.08

みずはぐむ

 もう何年も前のことになりますが、源氏物語の研究者であった、ある教授の退職記念パーティのお手伝いをしたことがあります。
 パーティは立食形式でした。会場には、同僚の先生方、学外で活躍していられる研究者、そして大学院生らが多数参集していました。しかし、中でももっとも人目を引いたのは、教授が当時公開講座で教えていられた、聴講生の中高年の女性たちでした。参加者の半分、とまでは行かなかったかな、とにかくけっこうな人数の女性が、にこやかに「先生、先生」と教授を十重二十重に取り巻いていた。
 粉黛の薫香が充満する会場。教え子(?)の女性に囲まれた教授は、さながら老光源氏といったところでしょうか。準備のためあちこち動き回っていた僕は、ひどく空腹だったところへ、くすしき香に刺激されて、だんだんぼうっとしてきました。
 会が始まると、祝辞に次ぐ祝辞で、なかなか食べ物にありつけない。「早く話が終わらないかな……」とひそかに思っていたのは、きっと、僕一人ではなかっただろう。そのとき、ある若手の研究者が、マイクを渡されて次のようなスピーチをしたのでした。
「……今日は、みずはぐむご婦人もおおぜいお集まりで、たいへんご盛況で……」
 いささか沈滞気味だった場内は、このときドッと沸いた。女性たちも晴れやかに笑っていた。教授もにこにこしていた。
 「みずはぐむ」(旧仮名遣いでは「みづはぐむ」)の「みずは」は、「瑞々しい歯」と書く。このことばは、古代の文献に出てくるもので、「源氏物語」の研究者であればその意味を知っています。けっして、「瑞々しい歯の、明眸皓歯の女性」という意味ではない。

「昔見たまへし女房の、尼にてはべる、東山の辺に移したてまつらん、惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者のみづはぐみて住みはべるなり。……」(源氏物語 夕顔巻)
(昔知っていた女房が尼生活をしている東山辺にお移ししましょう、私の父の乳母だった者が老いぼれて住んでおります。……)

 訳をご覧になればお分かりかと思いますが、「みづはぐむ」は、「老いぼれる」とか「老いさらばえる」の意。語源は諸説あるようですが、「ひどく年を取って、全部歯が抜けてしまった後、ふたたび新しい歯(瑞歯)が生えてしまったほどの老人」という説が分かりやすい。「瑞歯」はめでたいものらしいですが、とにかく並大抵の老人じゃない。まあ化け物の範疇ですな。人に面と向かっては言えないことばだ。
 パーティに参加していた公開講座の女性たちは、スピーチの意味が分からなかったから、平和に微笑していることができた。しかし、彼女たちは、教授にほかでもない源氏物語を教わっていたはずだ。「みずはぐむ」の意味を悟った聴講生が金切り声を上げて飛びかかってきたら、スピーチをしていた彼はどうするつもりだったのでしょうね。

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