HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
99.06.10

田舎のカレーライス

 井上靖「しろばんば」に、いわゆる「ら抜きことば」が出て来るというので前回参照)、この小説を読み始めたところです。
 「しろばんば」は、井上靖の代表作の一つですが、恥ずかしながら僕は読んでいませんでした。中学の国語教科書の「読書案内」といった欄では必ず取り上げられる本で、「教科書が勧めるぐらいだから面白いはずがない」と拒否反応を示してしまったのです。
 この物語の時代は大正の初め。「伊豆湯ヶ島のおおらかな自然に囲まれ、素朴な人情と風俗の中で、主人公の洪作がこまやかな感情と柔軟な思考をもつ少年に育っていくさま」(教育出版『中学国語1』)を描いたものです。読んでいくと、さっそく「前編二章」の半ばで「ら抜き」に出合いました。
 おぬい婆さんと土蔵で暮らす洪作が、夕食に婆さんに「ライスカレー」を作ってもらって食べる場面です。洪作が「おお、辛い!」と顔をしかめてみせると

「そうともな。ライスカレーというものは辛いもんじゃ。曾祖父(じい)ちゃまは、大そう辛いものがお好きで、おばあちゃんさえ食べれなんだ
 おぬい婆さんはいった。おぬい婆さんの作ったライスカレーは美味(うま)かった。人参や大根や馬鈴薯(じゃがいも)を賽の目に刻んで、それにメリケン粉とカレー粉を混ぜて、牛缶の肉を少量入れて煮たものだが、独特の味があった。(『しろばんば』新潮文庫 p.49)

 「食べられなんだ」といわず「食べれなんだ」というところが「ら抜き」ですが、やはりこれは伊豆地方の方言でしょう。文法学者松下大三郎が、静岡で「逃ゲレル、受ケレル、といふなり」と明治時代に書いているそうで(井上史雄『日本語ウォッチング』)、地方では東京語より早く「ら抜き」が表れています。井上靖が大正期の方言を思い出して書いたのか、戦後の言い方に引かれたのかは分かりませんが、不自然ではないわけです。
 ちなみに、越後の新発田では、すでに幕末に儒者が「ら抜き」を使用していた例があるとのことですこちらのサイトを参照。佐藤貴裕氏ご教示)

 ところで、大正初めの伊豆の田舎でカレーライスが作られていたとは面白い。もっとも、田舎とはいえ、おぬい婆さんの夫は地元名士でした。
 カレー自体は、幕末に見た日本人がいたようです。文久3(1863)年に遣欧使節の随員・三宅秀が上海から乗り継いだフランス船で乗客が手づかみでこれを食べていたのを目撃したとか(富田仁『舶来事物のネーミング』早稲田大学出版部)。明治になって、敬宇堂主人『西洋料理指南』や仮名垣魯文『西洋料理通』などにも紹介され、また札幌農学校のクラーク博士も寮の規則に「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りに非ず」と定めたといいます(同書)
 夏目漱石「三四郎」にも、三四郎が与次郎からライスカレーを奢られるところがあります。

昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日ポンチ画をかいた男が来て、おいおいと云いながら、本郷の通りの淀見軒と云う所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。(『三四郎』新潮文庫 p.36)

 「しろばんば」では、本家の娘が作るのは「カレーライス」というのですが、おぬい婆さんのそれは「ライスカレー」です。呼び方が区別されています。小説の記述からすると、このお婆さんのライスカレーは、うまそうというより、なんとなく鬼気迫るものを感じます。


追記 こちらに後日談を書きました。(1999.08.07)

追記2 小菅桂子『にっぽん洋食物語大全』(講談社+α文庫)では、カレーライスの歴史が詳説されています。「但しらいすかれいは……」というクラーク博士の文言も紹介されています。
「雑穀が主食の時代に「らいすかれいはこの限りに非ず」というのはちょっと疑問がある。しかし札幌農学校は、その当時〔注、明治8、9年ごろ〕から寮での昼食は、ナイフにフォークの洋食であり、普段の主食はパンであったという。となると、米の飯の時だけボーイズの大好きな「らいすかれい」を取り入れ生徒の体位向上を計ったということも十分考えられる」(p.184)
 
とあります。
 クラーク博士のエピソードの出所が気になります。(2001.08.04)

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 1999. All rights reserved.