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98.10.14

麦のあいよせ

 壺井栄の「母のない子と子のない母と」(1951)は、少年史郎やその仲間のことを中心に、美しい小豆島の自然を織り交ぜながら描いたオムニバス形式の小説です。
 ある早春、史郎はおじいさんから「麦のあいよせ」を手伝うように言われます。

 海は、あの冬のあいだの乱暴さをわすれはてたようなおとなしさで、オリーブのよろこぶ風をそよろそよろにおくりつづけています。青々とした麦畑と菜の花の黄色と、そのあいだをおへんろさんの白い姿がちらほら、鈴の音とともにぬっていく小豆島の春。こうなると村の子どもも遊んでばかりはいられなくなります。
「史郎、きょうは麦のあいよせだ。あそびにいっちゃ、ならんぞ。」
 朝めしがおわらぬうちにとどめをさされて、史郎はちょっとがっかりしましたが、ものの二分とたたぬうちに、もううれしさのほうにかわっていました。(「五 青い空」筑摩書房版壺井栄全集6 p.184)

 この「あいよせ」をご存じでしょうか。別のところでは、「おい、かぎやの若いの。あいうちか、きょうは。おじいさんわい?」(p.191)のように「あいうち」とも出ています。
 さて、あるとき(というのは1956年ごろ)、壺井栄の文章が小学5年生の国語の教科書に載りました。題名は「早春の海へ」だったそうですが、たぶんこの小説の上記の個所ではないかと推測します。壺井さんのかかりつけである医師の子どもが、学校で彼女の文章を習ったものの、この「麦のあいうち」が分からなかったのだそうです。そこで、作者は医師に教えてあげた。

 あいうち、つまり麦と麦の間をクワ(鍬)でうつ――といっても、これはたがやすことだと説明して、ついでに、冬を越した麦がようやくのびはじめたころの一番あい、大分のびてきてからの二番あい、ぐんぐんのび出しての三番あいではあいをうちながら麦の根元に土をよせるのであいよせともいう。――などと昔を思い出しながらいい気になって説明したのだった。(「きのうきょう」=「朝日新聞」1956.05.11 p.3)

 ところが、この医師の他にも、熱海市の人からも同様の質問の手紙が来た。「学校の先生たちにもわからず、字典をしらべたり、大学生、高校生、中学生の兄姉相よって、五年生の男の子のために家族会議を開いたがわからないから」というわけです。
 たしかに、今『日本国語大辞典』ほかの主な辞典を見てみても、「あいよせ」「あいうち」は載っていません(「敵味方が相打ちになる」というのはあります)。
 これは無理もない。じつは、このことばは香川県の方言です。
 近石泰秋『香川県方言辞典』によれば、こうあります。

あいうち 麥畑の中耕すること。(はようあいうちせなんだら、正月がきよるのに。志度)〔下略〕

とあり、県東部の大川郡などで使われるようです。小豆島のことは載っていませんが、同じ使われ方とみていいでしょう。「あいよせ」は載っていませんでした。
 もしかすると、壺井栄は香川方言だということを意識せずに用いたのかもしれません。小学生が困るのもむべなるかなです。
 今であれば、教師用の指導書がしっかりしていて、教科書中の語句が分からないなんてことはありえないのでしょう。でも、戦後まもなくのころは、教科書を前に一家が首をひねったということもあったんですね。

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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