インド南部2、ケーララ州、カルナータカ州



(インド南部編から)

1.ヤシの木、十字架、赤い旗(カニャクマリ→コラム、2月19日)

 ケーララ州に入ると急に赤旗が目についた。 ポスターも多い。 共産党が強いという噂は本当らしい。
 地形も変わったらしく、丘が多い。 道はカーブやアップダウンが多い。 タミルナドゥ州にも山はあるが、平地ばかり訪れていたので平らなイメージがあった。 平らな土地が少ないからか?ヤシ園ばかりで水田はない。 教会が多いのは同じだが。 隣りの州に入ったとたんにこれほど変化があるとは思わなかった。

 例によって急に交通量が増えて午後3時にトリバンドラムのバスターミナルに着いた。 早速宿探しを始めたが、ほとんどの宿に満室で断られた。 鉄道駅にも近いこともあるが、おかしいので最後に当たった宿のおじさんに聞くと大学の受験で州のあちこちから学生が集まっているらしい。 もう少し探せばあったかもしれないが、それほどまで魅力を感じなかった町なので予定を前倒しにしてバスで2時間の次の目的地、コラムへ向かった。

 この町も湿度が高く、汗だくになったのでバスターミナルでジュースを飲んでからバスを探した。 既に午後4時になっていたのでバスはすぐに満席になってバスターミナルを出発した。
 トリバンドラムの町を過ぎると国道に人が立ち並びはじめた。 その日は共産党が土地の人に呼びかけて国道に「人間の鎖」を展開させたらしい。 町中に入るとただでさえ交通量に対して狭い道が一層狭くなってしまった。 運転手は手を上に向けてうんざりした感じだ。 時折赤い旗を振った若い男達を乗せたトラックが国道を走っていた。 土地の人はお祭り感覚で参加しているのかもしれない。 午後5時になるとデモは終わった。 デモのせいか?コラムのバスターミナルには6時10分過ぎに到着した。 こちらは迷惑した形だが、この州での共産党の影響力を実感させる出来事だった。

 コラムでの宿探しはそれほど手間取らなかった。 最初に当たったところはタダでもいやな汚い部屋だった。 鉄道駅に向かって歩くと「Lodge」の看板があった。 その宿、Sika Lodge(S75Rs)は部屋の感じ、値段がまずまずだったのでそこに決めた。 ほっとすると疲れと空腹のせいでベットに座り込んでしまった。

2.水のある生活1(コラム→コーチン、2月21日)

 コラムは特に見所のあるところではなかったが、2泊して休養した。 コラムはケーララ州観光のハイライトの一つ、Back Water(水郷)の観光船が出ている町だ。 コラムに着いて翌々日の朝、86km北にあるアレプーザへ向かう観光船に乗った。

 10時半出航だったが、その日はインドの祝日だったので9時に乗船して座席を確保した。 船には屋根の下の元からある座席の船室があるが眺めは屋根の上の方がいいのでほとんどの乗客は屋根の上に上がる。 一応、目の細かい網のシートが屋根の上に張られてプラスチックの椅子が用意されていた。 10時ころには屋根の上はほぼ満席になり、10時半には満席で出航した。 乗客のほとんどが西洋人でインド人の観光客は10人くらいとあまり多くなかった。

 トリバンドラムは坂が多かったが、ケーララ州沿岸部の真中あたりは低地で坂がほとんどない。 日本では水郷と呼ばれる低地では世界中どこでも同じで車が普及してなかった頃は運河を掘って船を使って物資や人の輸送をしていた。 日本では茨城県の潮来や福岡県の柳川が有名だ。 インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島)では今でも川が輸送のメインだ。 ケーララの運河ももともと物資の輸送が目的だったが今では道路が整備されているので今では渡し船や土地の人の洗濯、水浴びなど生活の場になっているらしい。

 風景は、午前中は海水が混じった汽水だったのでヤシの木と日本の能登半島の富山湾に沿った海岸でも見られる大きな四つ手網、「Chinese Fishing Net」が多かった。 運河ばかりではなく、元からあった浜名湖みたいな海に口を開いた湖も2つばかり通過した。
 午後になると水門で区切られた淡水の水域に入ったので水田や牧草地が広がっていたところもあった。 村にはヤシの実から採ったらしい繊維が俵状にまとめられて山積みにされていた。 夕方に通過した水田が広がるところは、ヤシの木が無ければ故郷新潟の田園地帯みたいだった。
 コラムの桟橋で見かけた宿泊設備のある船、「ハウスボート」が夕方になるとあちこちでのんびり航行しているのを見た。 コラムでは中を見せてもらったが、小奇麗な洗面所付きのシングルルームが2つある船だった。 予算に余裕があれば優雅な旅を楽しむのもいいかもしれない。 ハウスボートは人気があるらしく、思ったより多く見かけた。

 日が暮れた午後7時にアレプーザの桟橋に船は着いた。 アレプーザの町で1泊して翌日にコーチンでのんびり宿探しするつもりだったが、歩いてみて適当な宿が少なかったのとコーチンまでバスで2時間しないのでまた予定を前倒ししてコーチンへ向かう事にした。
 この日はシバ神にお祈りする日、「シバラトリ」だったのであちこちの寺院で電飾されていて、大勢の人で賑わってた。 なぜか教会まで電飾されていた。
 コーチンへの国道は途中から4車線の日本の100番台の国道並みに整備されたインドとは思えない道だった。 このまま行けば9時前には着くかと思ったが、途中で曲がって住宅地の中を走る狭い道になりスピードが落ちた。 コーチンは橋の多い町でいくつか橋を渡ってから9時過ぎに一般にコーチンと呼ばれる地域のなかの一つの町、エルナクラムのバスターミナルに着いた。 近くにあったロッジが手頃だったのでそこに決めた。(Ninas Tourist Lodge、S90Rs) この日も長く疲れる日だった。

3.水のある生活2(コーチン、2月23日)

 Back Waterの観光路線で一番有名なコラム→アレプーザの船に乗ったが、途中下車が2回だけでほとんど移動だけだったのが不満だった。 ガイドブック「地球の歩き方・インド編」によるとケーララ州観光公団KTDC企画のボートツアーの中にヤシの繊維を採る村やえびの養殖場を訪れるものもあるらしいのでコーチンの案内所へ行ってみた。
 ツアーは2人から催行されるもので案内所で会った日本人女性から誘われたが料金は315Rsと割高だったのでその日は申し込まなかった。 日本人女性は翌日の午後のツアーを申し込んだ。

 やはり土地の様子を詳しく見れるのが魅力だったので翌朝に案内所で申し込んだ。 指定の時間に集合場所へ行くと昨日の女性、ミサコさんと隣りのタミルナドゥ州から来た新婚さんの合計4人だった。
 タクシーで30分ほど移動して船に乗った。 船頭さんはガイドも兼ねていていろいろ話しが聞けた。 船は手漕ぎだったので静かで落ち着いて観光できた。

 最初に訪れたのはヤシの実から縄を作る家庭だった。 ヤシの実を運河の水に漬けてから棒でたたいて繊維をほぐす。 乾燥した繊維を手動の機械で紡いでいった。 こうしてできた縄は町の市場や専門店に山積みされている。 次はエビの養殖場を訪れたが水田に水を張っただけといった感じだった。 日本でエビというとタイなど東南アジアからの輸入物というイメージがあるが、ここからも日本へ出荷されているそうだ。 インドとはいえ、ヤシの木や水田、気候、土地の人の人柄とここは東南アジア、特にインドネシアに似ている。

 前の観光船では移動だけだったこともあったが、一部の西洋人の乗客が例によって欲しがる子供にペンをばらまいているなど感心できない事があったのも不満だった。 こちらは4人とこじんまりとしていたので和気藹々だったし、土地の子供達と話す事ができたのも良かった。 コーチンへ行く機会があればこちらのツアーの方に参加する事を勧める。 また、時間もこちらの方が短いので時間が無い人にもお勧めだ。

4.インドのおしゃれな港町(コーチン、2月21〜27日)

 コーチンは私が滞在した宿がある本土側で業務街のエルナクラム、海を挟んで対岸の造船所や軍事施設がある島ウェリンドン、さらに海を挟んで対岸にあるポルトガルにオランダ、イギリスと当時の西洋の列強が入植していたフォート・コーチン、貿易商が多い商業の町マッタンチェリーの4つの地区に別れている。 陸続きのフォート・コーチンとマッタンチェリー以外は船や橋で結ばれている。 船はバス並みに本数があり、安いので土地の人の足になっている。 日本の瀬戸内の町のようだ。

 エルナクラムの町はゴチャゴチャしてはいるもののオシャレな店が入ったビル、日本のマンションのようなアパートがいくつも建っていてインドの中ではかなりリッチな町らしいことがわかった。 大学などの高等教育機関もたくさんあるらしく、ケーララ州観光公団KTDCの案内所に近い一画には本屋とインターネットカフェがいくつもあった。 朝夕になると学生らしいノートを手にした若者を多く見かける。

 フォート・コーチンは観光の町と言った感じで旅行者向けの宿がいくつかある。 インドの町は大概、西洋人が入植していた地区に高級住宅地やオシャレな店が多いが、車社会になると陸から離れている地域は不便になる。 恐らく、鉄道が通った時から寂れてしまったのだろう。 あまり新しい建物を見かけなかった。ちなみに今の港の機能はウェリンドン島とエルナクラムに移っている。
 マッタンチェリーも同じように寂れた感じがしたところで農産物を商う昔乍らの商家が建ち並んでいた。 かつてはここが町の政治や商業の中心だったらしく、王宮やユダヤ教の教会シナゴークがあり、モスクが多い。 かつてはユダヤ系の人が多く住んでいたらしい。

 この町も近代の交易で栄え、今も産業都市として栄えているので同じような港町の日本の神戸、横浜、中国の広州、廈門と西洋人が住んでいた地区があったこと、商工業の拠点であることなど共通点が多い。 港町には物資の出入りがあり、その商いは結構な利潤が出るらしい。 さらに、工業などの機能も集積しているのでお金が集まりやすく、お金持ちが多いということになるのだろう。 

5.果てしない虫との戦い(カリカット、2月27日〜3月1日)

 大概の旅行者はコーチンの次にマドラスに次ぐ南インドの拠点都市、バンガロールへ向かっているらしいが、私はかつての香辛料貿易の拠点だったカリカットを見たかったのでカリカット→マイソール→バンガロールと移動する事にした。

 コーチン・エルナクラムとカリカットはバスで5時間かかるらしいので朝9時にエルナクラムを発ってカリカットへ向かった。
 エルナクラムへ向かう車やバイク、乗客を満載したバスを見ながら市街を抜けるとエルナクラムへ向かう時に通った時と同じインドでは高規格の道路をバスは北上した。 エルナクラム近郊では大きなタイヤ工場があり、この町が大きな産業都市である事を実感。 また、大学もいくつかあった。

 出発してから地形が変わってアップダウンが多い道になった。 この辺はキリスト教徒が多いのか?キリストの絵が描かれたダンプカーが多かった。 さらに進むとモスクが目について、ヒンドゥ教の寺院が少なくなった。 カリカットには予定より1時間遅れの午後3時に到着した。

 バスターミナルの近くの宿はシングルの無いところが多く、しかも混んでいたので宿探しには手間取った。 もう一つのバスターミナルの向かいのK.S.Tourist Home(S107.5Rs)で部屋をとった。 一見、清潔そうな感じだったが前の宿泊客が不潔だったらしくてベットに南京虫がいた。 この地域の南京虫は刺されても蚊に食われた時のような腫れが短期間続くだけなので毒性が弱いのだろう。 お陰で最初は蚊の仕業と思っていた。 部屋は通気性が悪く、ただでさえ蒸し暑いケーララなのに一層蒸し暑かった。 虫にとっては格好の環境なのだろう。

 カリカットの商業地区へ行ってみると港の機能はコーチンに集約されてしまったのか?港は朽ち果てた桟橋が残っているだけだった。 香辛料貿易の拠点の痕跡は見た感じ残ってなかった。 ただ、農産物の集積地としての機能は残っているらしく、コーチン・マッタンチェリーにあったような商家が建ち並んでいた。

 観光資源に恵まれてないせいか?外国人はほとんど見かけなかった。 また、町の人はほとんどイスラム教徒らしくヒンドゥ教寺院は見かけなかったし、「飲酒お断り」の食堂が多かった。 そのため、土地の人に珍しがられて通りかかりの人に突然挨拶されたり握手を求められたりした。 イスラム教徒が多いインドネシアみたいだ。 オートリキシャは普通にメーターを倒しておそらくインド人料金で請求された。 旅行者にとってする事が無い町は大概人がいい。

5.ローヤル・シティ(マイソール3月1〜5日)

 海に面したカリカットからアラビア海に沿ってそそり立つ西ガート山脈を越えてデカン高原の町、マイソールへ向かった。 朝8時にカリカットを出たバスは早速登り坂が続いた。 この地域はほとんどイスラム教徒らしい。 女性は被り物をした人ばかりだった。 インドネシアでは外の世界との接触が多かった海岸沿いは大抵イスラム教が浸透して、イスラム教が浸透しなかった内陸には支配した西洋の列強が宣教師を送ったので大概キリスト教だった。 南インドでは反対らしい。

 さらに進むとヘアピンカーブが続いて高度を更に上げた。 だんだん肌寒くなった。 と同時にケーララのまとわりつくような湿気が無くなっていた。 峠を越えて盆地に入ると香辛料かコーヒーらしい農園やお茶の農園があった。 お茶はある程度寒くないと栽培できないらしい。 肌寒いのも無理ない。
 昼前には国立公園内に入った。 インドの国立公園は初めてだった。 一応、開発と住居の制限があるらしく公園内では住居や農場が無く原生かどうかわからないが森林や見事な竹林があった。 インドといえば人がひしめき合っているイメージがあったがこんな所もあるのだ。 一応国道を通っていたのだが、道の整備も制約されているのか?他のインドの道よりもデコボコが多かった。

 カルナータカ州に入ってしばらくすると下り坂になって展望が開けてきた。 富士山麓の樹海のような景色だった。 突如、右手に4頭の象が歩いていた。 野生の象らしい。 それからすぐにゲートがあって、そこで国立公園は終わり林の中にバナナ園が見えた。 すぐに林が切れて北海道のような農地が見えた。 かなり乱開発したらしく、山のほとんどを耕地化してしまったところまであった。 この地域は降雨量が少ないので水害の可能性は少ないかもしれないが、水害になったらほとんどの畑が流されてしまうだろう。 土地の乾燥化も促進することにもなる。

 マイソールは昔から豊かなところで今もカルナータカ州は金持ち州らしいが意外と道の整備は遅れているようだ。 マイソールの手前までデコボコが多い狭い道だった。 緑が少ない農地から緑が多い田園風景に変わってしばらくするとマイソールのセントラル・バスターミナルに着いた。 宿はたくさんあったが、料金が高めだった。 75Rsの部屋を見せてもらったらベットに大きな南京虫がいたので今回は少し高めの宿にした。(National Lodge,W100Rsを90Rsに負けてもらった)

 この町は「Royal City」を自称しているが、それにふさわしいものがある。 20世紀初頭に建てられた豪華な王宮だ。 外観は週刊少年ジャンプの連載漫画「こち亀」の中川巡査の実家の様だった。 中に入ってみると西洋風の装飾を施した天井、扉は木彫りで象牙細工をはめ込んだものまであった。 そんな豪華なものでさえ吹っ飛んでしまうようなものがあった。 銀を張った扉である。
 成金趣味のような気がするが、私のような旅行者を一人でも呼び寄せることができるので大きな観光資源となっている。 さらに、毎週日曜日と祝日の晩にイルミネーションをする。 これはなかなか好評で週末を過ごす家族連れやカップル、若者のグループが大勢来ていた。 土地の人の憩いの場でもあるのだ。

 この地を治めていたマハラジャは戦前にこの地域の治水に貢献するダムを建てている。 マイソール郊外で見た大きな工場には入口に被り物をしたマハラジャらしい人物の像が立っているのをみた。 ひょっとしたらマハラジャが創業者なのか? もしそうだとすると、かなりの実業家でもあったらしい。
 また、この町の動物園は今まで訪れた事がある動物園の中でも広いところで、象の敷地はグランドのような広さだった。 野鳥の檻はなかなか凝っていて、大きな檻の中をお客が歩きながら観察できるというものだった。 インドにこのような文化施設があるとは思いもよらなかった。
 この広い動物園もマハラジャの御威光で作られたのだろうか?。

6.裸の御神体(シュラバナ・ベルゴーラ、3月3日)

 インドでは多種類の言語が話されているが、多数派のヒンドゥー教だけでなくイスラム教、仏教など様々な宗教も信仰されている。 その一つに殺生・所有に厳しいジャイナ教という宗教がある。 マイソールの北西80kmのシュラバナ・ベルゴーラという町にジャイナ教の寺院があるというので行ってみる事にした。

 前日にバスターミナルで問い合わせたところ、朝6時半にバスがあるらしい。 早起きは辛いが3時間かかるらしい。 日帰りには丁度いいということで、早起きして乗車した。 乾燥した岩山に農地というマイソールへ向かう時と同じ風景を見ながら途中1回乗り換えて9時半にシュラバナ・ベルゴーラに到着した。

 妹尾河童著「河童が覗いたインド」のイラストと同じで岩山の頂上に大きな石像の上半身が見えた。 岩山自体が聖地なので履き物を麓で預けて石の階段を上った。 階段は妹尾河童が訪れた時は足の裏が火傷するくらい熱かったらしい。 一応靴下を用意したが朝早かったのか?まだ涼しい時期だったからか?裸足で歩いても大丈夫だった。 頂上近くの山門からこの岩山と集落を挟んで向かい側にあるもう一つの岩山とシュラバナ・ベルゴーラの町、どこまでも続くサバンナのようなデカン高原の山野が望めた。

 寺院に入ると奥にジャイナ教2代目の救世主、ゴーマテーシュワラの大きな像が立っていた。 無所有の教義のため、像は裸体である。 この像の周囲は回廊になっていて、ここにも聖者らしき像が数多く置かれていた。 これらも全て裸体だった。 この寺院に入る前に修験者らしい裸体の男性がいた。 もっとも普通の信者は服を着て菜食主義の生活だろう。 エセ仏教徒の私から見るとかなり厳しい宗教らしい。
 ちなみに女性は白い布で頭から体全体を覆うらしい。

 乞食は大概暗い表情をして自分達が困っている事を相手に示して喜捨を受ける様にしているが帰りに立ち寄ったバスターミナルにいた小学生くらいの女の子たちは違っていた。
 彼女たちは親から教わったのだろうか?それとも私が珍しかったからだろうか?逆に明るく振る舞って喜捨を募っていた。 もう一つ止まったバスターミナルではバスに寄ってきた子供達に喜捨の意志が無い事を示すためにわざと窓を閉めた。 普通の乞食はここで諦めるのだがここの子供達は逆に面白がって人に窓の開け閉めをさせて大喜びだった。 ただ単にからかわれただけだろうが、底抜けに明るい乞食というのもいるものだ。

7.高原のおしゃれな町(バンガロール、3月5〜12日)

 かつてのこの地域の中心だったローヤルシティ・マイソールを去り、現在のカルナータカ州の中心バンガロールへ向かった。

 マイソール、バンガロールともに拠点都市なのでバスは座席の座り心地によって3種類のノンストップ・バスと各駅停車の普通のバスが多く出ていた。 今まで選択の余地がなかったのだがここでは中間のクラスのバスに乗った。
 昼間だったので客層はビジネスマンが多かった。 日本なら郊外を走る観光バスのお下がりみたいな感じだった。
 車窓は例によって乾燥したデカン高原の牛車も走る普通のインドの国道だった。 コーチンよりもいい道かと思っていたので意外だった。 3時間くらいで交通量が増えて工業団地の案内の看板が見えてきた。 工事中で渋滞する道を過ぎるとバスは陸橋を登って高速道路みたいな道を走った。 やっぱり設備投資が進んでいるらしい。 陸橋を降りて牛車が走る問屋街を過ぎるとバスはバンガロール・シティ駅前のバスターミナルに到着した。 道行く人の多さから久々の都会を実感した。

 ここでも宿探しに苦労した。 都会らしく駅の近くは空きが少なく、あっても大概200Rsだった。 部屋不足からか?相部屋を用意した宿もあったが、安全面で不安だったので遠慮した。
 結局、駅の東南で少々汚く通りに面してうるさいもののシャワー・トイレに国営放送だけ写る白黒テレビが付いて130RsのHotel Mahalakshmiにした。 翌日、駅の東南地区を中心に探してみたが200Rs以上の部屋だけ空いていた。 ある宿の人に事情を説明すると「この町は最低180Rs出さなきゃ。 なにせ最近のITブームであちこちから人が来ているから。」と言われた。 この一言で今の部屋に落ち着く事にした。

 この町は19世紀にイギリスが建設した町なのだがバンガロール・シティ駅に近い市街地の西側は道がインドの町にしては広いと感じるだけで、牛車がのんびり動いていたりゴミがその辺に捨ててあったり、ヒンドゥ教の寺院があって新しいという感じがしない。 ところが、少し東へ移動すると急に緑が多くなり道が広いヨーロッパの町みたいになってしまう。 Mahatoma Gandi RdやBrigade Rdに到ってはゴミが少なく、道行く人はこざっぱりした格好でなまっているが英語で会話をしていた。 有名なブランドの店やケンタッキーフライドチキンなどファーストフードもありインドという感じがしない。 それでも「現代のインド」と言えるのだろう。
 これだけモダンな町なら宿代が高くても仕方ないだろう。

8.エレクトロニック・シティ(バンガロール、3月8日)

 ご存知かもしれないが、バンガロールは欧米を中心にハイテク関連の企業の進出が相次いでいる。 背景にはマイソールのマハラジャが教育に熱心だったこと、もともとインドの航空など軍需産業の町でもありインドの宇宙開発の拠点でもあるので技術者が多いこと、19世紀にイギリスが開発した新しい町ということでインド各地から人が集まったことが考えられる。
 日本同様、ハイテク関連の施設は町の郊外に建てられている。 いくつかに分散しているらしいが、市街からバスが出ているエレクトロニック・シティへ向かう事にした。

 駅のバスターミナルでバスを待っていると乗り場に就職活動だろうか?20過ぎくらいの若者が集まってきた。 ほとんどが洗い立てのシャツにジーンズ、革靴という格好で中産階級以上の家庭の御子息らしい。 バスの乗客のほとんどが彼らで、他には仕事で向かうビジネスマン風の人だった。

 牛車など遅い車両が走っている市街を抜けて国道7号線に出ると高級マンションの団地や一戸建て住宅が建ち並んでいた。 国道はコーチンの47号線同様、日本の国道並みに整備された道で横浜の国道246号線の沿道に風景が似ていた。 エレクトロニック・シティに向かう途中、COMPAQやNOVELLの施設があった。 バスに乗って1時間半後にヤシの木に混じって建設中のビルが見えてエレクトロニック・シティのゲートに着いた。 若者達はゲート近くのIT関連らしい施設に入って行った。

 エレクトロニック・シティ内には木が多く、お昼に訪れたものの木陰の中を歩いて行ったのでそれほど苦にならなかった。 空き地には屋台が出ていて技術者らしい人達が食事をしていた。
 インドのビジネス雑誌「Businessworld」にバンガロールの特集が組んであって、バンガロール近郊のIT関連施設の地図が掲載されていた。 私が訪れたエレクトロニック・シティはPHASE1のみで、まだ用地造成中、建設中らしい。 既にMOTOROLA、HEWRETT PACKARD、SIEMENCEが進出済みだった。 また、IT関連だけでなく化学メーカ3Mの中規模プラントがあり、日本の産業用ロボットメーカーのFANUCが研究施設を建設中だった。

 バンガロールといえばソフトウエアの開発というイメージがあったが、実際は集積回路の論理設計、通信システムの開発、バイオ関連の研究開発も行われているらしい。 近い将来、製造業は研究・開発はインド、生産は中国、東南アジアという形になるのだろうか?

 MOTOROLA、HEWRETT PACKARDは施設の周りを竹や木で覆い隠していたが、Infosysは外から中庭の芝生が見えて環境の良さを誇示していた。 海外からのお客に備えてか?両替可能な銀行やCiti BankのATMがあったが西洋人や日本人は見掛けなかった。
 バンガロール周辺には他にもIBMやTEXAS INSTRUMENTS、SONYなどの有名な多国籍企業も進出済みらしい。 また、この町にはトヨタの生産ラインがあり、日本のHI-LUXに相当するQUALISを生産しているそうだ。 QUALISは発売してからすぐにインドのRVのシェアの2割を占めたヒット商品らしい。

 Businessworld誌によるとここ数年でかなり投資額が増加したらしい。 バンガロールだけでなく、隣りのタミルナドゥ州やケーララ州でも用地の造成、施設の建設が行われているらしい。 特にケーララ州の国道47号線沿いで造成地を見かけた。
 造成地を見て感じた事だが、10〜15年前の日本と雰囲気が似ている。 確かに長期的に見てインドで研究・開発施設を建てるのはメリットがあるが、イメージだけが先行して実体に伴ってない様な気がする。 投資はほとんど好景気に沸く欧米からのもので、欧米が不景気になれば真っ先にこれらの施設は閉鎖されることが考えられる。

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