インド南部、タミルナドゥ州



 南インド最大の都市でタミルナドゥ州の中心マドラスMadrasは正式にはチェンナイChennaiですが、現地の人達はマドラスと呼んでいます。 このページでも現地の人に従ってマドラスを使う事にしました。

(インド東部編から)

1.インド大陸縦断鉄道の旅1、インドの鉄道(カルカッタ→マドラス、1月22,23日)

 デリー、バラナシ、カルカッタと北インドをまわったので次は南インドへ向かう事にした。 マドラスかバンガロールを始点にして、ケーララ州、タミルナドゥ州をまわることにした。
 カルカッタから陸路だと鉄道で南インド最大の都市マドラスへ向う方が便利らしい。 カルカッタからバンガロールへ向かう列車もあるが、始発駅が1,000km北西のアッサム州Guwahatiでカルカッタの鉄道の玄関口ハウラー駅には早朝3時55分の発車となる。 早朝発だし始発ではないので荷物の置き場所の確保が難しい。 さらに遅れる恐れもある。 また、ケーララ州のコーチンと州都トリバンドラムへ向かう列車があるがマドラスを経由するので無駄な感じがする。
 途中に有名なヒンドゥー教の聖地、プリーがあるがとりあえず直接マドラスに行って南インドをまわって時間があればムンバイからそれほど離れてないエローラ、アジャンタや旅行者の間で評判がいいラジャスタン州を訪れることにした。

 カルカッタ・ハウラー駅→マドラス・チェンナイセントラル駅間は距離1,663km、一番早いCoromandal Expressでも定刻で27時間20分かかるので今回は奮発してエアコン3段寝台のクラス3Aにした。
 Indian Railwaysは旅客に1等のエアコン1A(寝台付き)、2等のエアコン2段寝台2A、1等のエアコン無しFC(寝台付き)、2等のエアコン3段寝台3A、エアコンの2等座席CC、2等のエアコン無し3段寝台SL、2等のエアコン無し座席「II」(ローマ数字の2)の6つのクラスがある。 どのクラスがあるかは列車により異なるが、カルカッタ・ハウラー駅→マドラス・チェンナイセントラル駅間の料金は1,675kmの料金が適用され、1A3,399Rs、2A1,700Rs、FC1,255Rs、3A1,062Rs、CC712Rs、SL366Rs、「II」236Rsと格差がある。(さらに予約手数料1A35Rs、2A、FC、3A、CC25Rs、SL20Rs、「II」15Rs、普通列車を除いて追加料金1A50Rs、2A、FC、3A、CC30Rs、SL20Rs、「II」10Rs請求される。) 無論、庶民はSLか「II」を利用するだろう。 こちらは既に体験済みだ。 中産階級で2A〜CC、1Aは上流階級、VIPの利用だろうか?

 当日、ハウラー駅に着いて案内所で乗り場を聞くと別棟の「ニューセンター」という建物の18か19番線らしい。 言われた通りの方角へ向かうと古い建物だが、乗車する列車の番号が電光掲示板に表示され、18から21番線まであった。 なぜ建物が違うかと言うと会社が違うからかもしれない。

 Indian Railwaysと言うだけあってCentral(マハーラシュトラ州、マディヤプラデシュ州などに路線を持つ)、Eastan(ウエストベンガル州、ビハール州に路線を持つ)、Northern(パンジャブ州、ハリヤナ州、デリー市、ウッタルプラデシュ州、ラジャスタン州などに路線を持つ)、North Eastarn(アッサム州などインド東北部に路線を持つ)、Southern(カルナータカ州、ケーララ州、タミールナドゥ州など南インドに路線を持つ)、South Central(アンドラプラデシュ州、ゴア州、カルナータカ州などに路線を持つ)、South Eastern(ウエストベンガル州、オリッサ州、ビハール州、マディヤプラデシュ州などに路線を持つ)、Western(グジャラート州、ラジャスタン州を中心にデリー〜ムンバイの幹線を持つ)の9つの鉄道会社が存在する。 インドの主要列車が掲載されている時刻表「Trains at a Glance」によると運賃表は一つなので運賃は全社共通らしいが車内販売のお茶が会社によって一杯3Rsだったり4Rsだったりするので各社の裁量に任せられている所もあるのだろう。
 無論、ニューセンターはSouth Easternの駅舎だろう。 ちなみにSouth Easternの本部はカルカッタだ。 ニューセンターにSouth Easternの本部もあるかもしれない。

 中国、ヨーロッパ各国では「国鉄」1社が主要な鉄道会社だ。 日本もかつてはそうだったが民営化の際に政治的な理由から分割された。 なぜインドの鉄道会社がこれだけ多く存在するのだろうか? 営業距離6万kmと世界第二位の鉄道大国なので会社を分けた方が効率的なのかもしれない。 また、イギリス時代からのシステムと思われるが各地のマハラジャの都合など政治的な理由があるのだろう。 今でもインドは一つの国というよりいろんな国が集まってできた連邦国家の形態を採っている。 その多様性がインドの魅力でもある。

2.インド大陸縦断鉄道の旅2、所変われば(カルカッタ→マドラス、1月22,23日)

  駅から放送で案内が入ると早速乗車した。 寝台のある一画には一番乗りだった。 寝台は3段向かい合わせと通路を挟んで通路に沿った2段とSLと一緒だ。
 御近所はイスラエルの若い女性と東北部のナガランド州からの親子とインド人の中産階級らしい家族連れだった。 私の英語が下手なせいか?政治的な理由からか?家族連れの頭首の御隠居さんは私に興味を示さずにイスラエルの女性と笑顔で時折話しをした。 当然の事だが話しの輪は家族連れとその他に別れた。

 ナガランドからの親子はお父さんがナガランド州観光局のセコセさん、フランス語の勉強のためにマドラスの高校に入学する14歳の息子さんを送りに行くらしい。
 二人ともモンゴリアン的な顔立ちで、最初はネパールの人かと思った。 同じモンゴリアンか?セコセさんの英語は聴き取りやすかった。 こんにゃくを食べるなど共通の習慣もあるようだ。 セコセさんは良く気が付く人で色々面倒を見てもらった。 ナガの人は働き者なのだろうか? また、仕事柄か?「ナガランドへ行く時は便宜を計るから。」と職場の連絡先を教えてもらった。(ちなみにナガランド州へ行くにはパーミットが必要になる。 カルカッタのナガランド州物産店と同じ建物にあるナガランド州観光局で簡単に取れるとか。)
 ナガランドについては'99年にバンコクで知り合った多良俊照さんが書いた「入門ナガランド」という本が社会評論社から出版されている。 興味のある方は一読されるといいだろう。

 列車は発車するとしばらくゴミ捨て場のようなスラムを通った。 さらに進むと田園風景が広がった。 季節柄か?なにも栽培されてなくてもともと何のための農地か分らなかった。

 夕方の5時に着いた駅の駅名を見ると今までと違った文字で表記されていた。 オリッサ州のオリヤー語らしい。 ヒンディー語、ベンガル語と違って文字が上の線でつながってなくてアルファベットみたいに一つ一つ離れている。 ご存知だろうがインドの州は概ね言語別になっていてそのうち英語を含む15の言葉が公用語になっている。 中国の漢人も地域ごとに会話が成立しにくいもしくは出来ない方言があるが、文字は漢字という共通のものがある。 ところが、インドの場合は文字まで独自のものを持つ言語が多く、そのためにルピーのお札には14種の文字で表記されている。
 中国人同士で出身地の話しになると「私は上海人。」とか「私は広東人。」となる。 インド人も同じように「私はベンガル人。」とか「私はタミル人。」となるのだろうか? 中国、インドのどちらも「同じ中国人」、「同じインド人」と言う意識がないのかもしれない。

 途中から乗車した女性の荷物にも見た事が無い文字で何か書かれていた。 聞いてみるとカルナータカ州のカンナダ語だそうだ。 お札の上から4番目の言葉だそうだ。 この女性はギョロっとした大きな目の丸顔だった。 北インドはあまり見かけない顔つきだった。 時折カンナダ語だろうか?見慣れない文字の雑誌を読んでいた。 公用語ごとに出版物もあるらしい。 表情が無いが物静かで品のある人で、イスラエル女性の事をさりげなく気遣っていた。

3.インド大陸縦断鉄道の旅3、奮発すれば(カルカッタ→マドラス、1月22,23日)

 夕方になると制服を着た乗務員が夕食の注文を取りに来た。 これも上のクラスならではのサービスだろう。 となりの車両がPantry Carという調理をする車両である。 インドの長距離列車にはレストラン形式の食堂車ではなくて調理をするPantry Carが連結されていて専門の乗務員が乗客の注文を聞いて後で乗客に渡す形式だ。 その都度代金を請求するわけでないので恐らく乗客名簿から降りる駅を割り出して乗客が降りる前に請求するようにしているのだろう。
 メニューは菜食主義者むけのベジタリアン25Rsとチキンのノンベジ30Rsの2種類だ。 食事は金属のお盆に盛りつけてあって、アルミでパックされたご飯とカレーのおかずに付け合わせの野菜にビニール袋に入った水だった。 ちょっと落ちるが飛行機の機内食のような感じだった。 ビニール袋に入った水の始末に困ってセコセさんに聞くと笑って「小さい穴を空ければいいじゃない。」と言われた。 口で袋の端に穴を空けてインド式に口を付けずに手で袋を押して飲んでみたが、こぼれてしまい、セコセさんに笑われてしまった。 ちなみにセコセさんは持参のミネラルウオーターのペットボトルにあけていた。

 食事が終わって一段落付くとする事が無いので寝台の準備をして皆横になった。 今回は上段が取れたので私は上段、イスラエル女性はその下中段、下段はセコセさん。 私の向かいにセコセさんの息子さん、中段にカンナダ語の荷物の女性、下段には別の中年女性が横になっていた。 通路側上下は例の家族連れの女性陣。 御隠居さんとお父さんは別の場所に移動したらしい。 中国では乗車時に友人、知人、家族と近くになりたい人が一人で乗車した人に切符を交換して場所替えすることがあるが、一旦車掌の検札があるとあとは場所替えすることはなかった。 インドは融通が利きやすいのだろうか?それとも有無を言わさず動かされるのだろうか?
 以前エアコンが効きすぎるという話しを聞いたが、車両の両端が効きすぎだったが他はまあまあだった。 さらに3AにはSLにはなかった枕、毛布、シーツが付いていて快適に眠れた。
 時折、目を覚まして辺りの様子を伺ったがSLのように通路が人で埋まっていたという事はなかった。 やはり上のクラスは快適だ。 奮発しただけの事はある。

4.インド大陸縦断鉄道の旅4、翌朝には(カルカッタ→マドラス、1月22,23日)

 翌朝、目が覚めると夜行列車にありがちだが景色が乾期の休耕地から緑の水田とヤシの木に変わっていた。 カルカッタ周辺ではヒンドゥー教寺院とモスクがあったが時折キリスト教の教会も見える。 文字は昨日のオリヤー語より丸みを帯びていた。 オリッサ州のとなりのアンドラプラデシュ州に入ったらしい。 言語はテルグ語だ。

 北インドの言語で主に使われているデーバナーガリー文字は文字の上が線でつながっているが、南インドの各言語は一つ一つ離れていて丸みを帯びている。 これは紙が普及する前の書類の材料によるものらしい。 北インドでは木片に先のとがった金属棒で彫るように文字を書いていたそうだが、南インドではヤシの葉に彫っていたので線があると繊維に沿って裂けてしまう。 そこで南では丸い文字になったらしい。

 車窓には水田が広がっていた。 所によって田植えをしていたり、栽培していたり、稲刈りをしていた。 北緯10度代の熱帯でありかつ近くに大きな川があるのだろうか?乾期でも田植えしているくらいなのだから。 作業はほとんど人手。 何人か共同で一つの田んぼで作業をしていた。 30〜40年前まで日本もそうだったらしい。 ただ、農薬の使用、もみの選別に大きなファンを使って空もみを飛ばすなど機械や薬品も使っている。 何分にも人口10億と世界第二位の人口大国でありかつ人件費が安いだろうから日本みたいに機械に頼る必要はないのだろう。

 チェンナイセントラル駅到着の30分前くらいから通勤電車の線路が並走するようになっていた。 また文字が変わっていた。 タミルナドゥ州に入ったらしい。 文字は丸みを帯びているが若干上か下が線でつながっている、オリヤー、テルグから見ると角張った文字だ。 タミル語だ。 紙が普及されてから開発された文字なのだろうか?
 これには見覚えがある。 タミルナドゥの人達の中にシンガポールやマレーシアへ渡った人達がいる。 そのため、シンガポールの公用語の一つになっていて公共の場ではタミル語でも表記されている。

 列車は定刻通りの17時35分にマドラスの中心駅チェンナイセントラルに到着した。 列車を降りると湿った暑い空気とオートリキシャの運転手が出迎えた。

5.繁栄の裏に(マドラス、1月23〜26日)

 ガイドブック「地球の歩き方・インド編」には宿はセントラル駅から2km離れているエグモア駅に多いとのこと。 しかし、両駅は鉄道で接続されてないのでバスで向かう事にした。
 バスから外の様子を見ると熱帯アジアの都会によくあることだがバイクが多い。 北インドでは見かけなかった女性運転のバイクもあった。 交通量から大気汚染を心配したが、滞在中に外出から帰って鼻をかんでも紙が黒くなるということはなかった。
 肌の色が北インドの人達より黒い人が多い。 シーク教徒男性のターバンと並んで日本人がイメージするインド人に近い人達かもしれない。 夜、客引きに声をかけられだが姿が見えずとういことがあった。 日本のある芸能人が「夜に外でサンコンさんから声をかけられたが、サンコンさんは暗闇に溶け込んでいたので見つけるまで時間がかかった。」と言ったのを思い出した。
 バスは10分くらいでエグモア駅に着いた。 道に迷いつつ、ガイドブックに載っていたDayal-De Lodge(S185Rs)にした。 ホットシャワー付きでそこそこ広い部屋、さらに疲れていたのでちょうど良かった。 洗濯禁止、楽器の演奏禁止、電化製品(宿備え付けの電子蚊取りを除く)の使用禁止と禁止が多いがそこそこ清潔だし玄関では必ず宿の人が出入りする人をチェックしていたので安心して利用できた。 以前、マレーシアのペナンでお世話になった宿とどこか似ていた。 そこもインド系の人の経営だった。

 マドラスはガイドブックでは人口540万でインド第四の都市とある。 目抜き通りのアンナーサライにあるショッピングモールのビルはデリーやカルカッタよりも垢抜けた所だった。 他にも新しいビルが建っていたりと都会の雰囲気はマドラスが上らしい。 バイクが多いというのもこの町がインドではリッチな所かなと思わせた。 マドラスは近年ソフトウェアの開発などインドハイテクの拠点バンガロールから360kmとそれほど離れてない。 シンガポールなど海外で成功したタミルの人達の投資も多いかもしれない。

 宿の部屋の蛇口の水を口に含むと噂通り塩水だった。 地図で見るとマドラス近辺には大きな川が無い。 そんな所がなぜこれほどの大都会になるか分らないが水事情が良くないらしい。 建物によってろ過器の性能でも違うのだろうか?塩味の濃さは建物によって異なっていた。
 また、上水道だけでなく下水も悪い。 町の大きな水路は水が真っ黒で悪臭が立ち込めていた。 人口540万なので生活廃水はかなりのものだろう。 さらに町の北に大きな化学プラントがあるので水質汚濁は深刻だろう。

 町の繁栄の裏にはこうしたこともある。 30〜40年前の日本と同じ事をしているのかもしれない。

6.ヒンディー語はいらない(マドラス、1月27日)

 妹尾河童著「河童が覗いたインド」や「地球の歩き方・インド編」に詳しく記述されているので簡潔に説明するが、30年前に死んでも今なおタミルナドゥ州で有名な政治家アンナードゥライの話しである。
 インドの公用語が10以上ある理由の一つにこの人の存在がある。

 インドと同じく多数の言語や方言がある中国、フィリピン、インドネシアはそれぞれ標準語を開発して公用語にしている。 インドも同じく独立してから時の政府が公用語、標準語として北インドで普及していたヒンディー語を採用しようとしたが、タミルナドゥ始め各州から猛反対されてやむを得ず言語は今の形になったらしい。 弱い政府と言えなくも無いが分裂せずに国として成り立っているのがすごいと思う。
 インドよりはるかに人口が少ないヨーロッパでは数えるのが嫌になるくらい国がある。 それはそれで彼らが決めた事なのだから否定はしないがEUを作って統一する方向なのでいろいろ不都合なことが多いのだろう。

 マドラスの海岸にアンナードゥライの廟があって記念館が併設されている。 記念館は彼のタミールナドゥ州知事時代の晩年のものが主でタミル語のみの説明なのでよその人には難しいが一つだけ理解できる展示があった。 左に選択を意味する四角いマスが、右にタミル語、英語で「English」、ヒンディー語の言語が書いてあるものが3段あってタミル語、英語を選択していてヒンディー語を選択していない。 アンナードゥライがヒンディー語を否定したことを示しているのだろう。
 そのため、鉄道の施設以外でヒンディー語にお目にかかる事がない。 看板はほとんどタミル語で、英語や近隣州の言語で併記してあるものも結構あるので英語が多少なりともわかれば問題無い。

 人口が12億の中国でもバイクの数や言葉で北と南では違いがある。 華南の広東省ではバイクが多い。 また、上海で見かけた「普通語を話しましょう。」という標語をお目にかからなかったのも広東省政府が北京の党中央に対して反感を持っているのかもしれない。 インドも中国も北と南で経済格差、中央政府と地方政府の対立というのがあるらしい。

 アンナードゥライは今でもタミルナドゥ州のあちこちで似顔絵や写真をお目にかかる事ができる。

7.歌って踊って4千年(マハーバリプラム、1月26〜28日)

 マドラスには都会だけあって博物館や動物園など文化的な施設が多く、もう少し滞在したかったがバスで2時間ほどのマハーバリプラムでインド各地の古典的な踊りが見れるダンスフェスティバルの今シーズンの最終週が26日から始まるのでマドラスは3泊して出る事にした。
 26日の金曜日はインドの祝日、憲法記念日にあたる「Republic Day」だったのでマドラスからのバスは日帰りらしい人達で混雑した。 マハーバリプラムに着くと例によって客引きの出迎えを受けた。

 宿を決めてバスターミナルにあった案内所でダンスフェスティバルの会場の場所でも聞こうかと歩いていると入口のゲートがあった。 門をくぐると奥に椅子が並んでいて、その向こうに仮設の舞台があった。 その向こうには大きな岩に彫られた彫刻があった。 「アルジュナの苦行」というヒンドゥー教の神話に基づくもので13世紀に彫られたらしい。 なかなかしゃれた演出だ。

 フェスティバルは12月、1月の週末、金土日曜日の午後6時から3つに区切られて一人のプロダンサーかダンススクールの10人くらいのグループが踊った。 大体全部見ると3時間だが、途中の8時くらいに帰るお客が多いので真中に「今日のハイライト」と言える人が踊った。

 インドの古典舞踊は女性が踊って脇で男女3〜4人が演奏をしているというのが多いらしい。 タミルナドゥ州自体踊りの本場の一つでバラタナーティヤムという名の踊りだ。 フェスティバルではやはり地元、バラタナーティヤムが多かった。 パントマイム的で表情が豊かでありかつ例の首の動きと手の動き、足に鈴を付けているので足のステップなどが複雑にからんで見ている者を魅了する。
 ダンススクールの中学生くらいの子から彼女たちのお師匠さんクラスのベテランの女性まで年代は様々だった。 表情と微妙な手つきは熟練の技らしく、学生とベテランの差が素人の私にもわかった。

 バラタナーティヤムの他にもオディッシイ、カタックの踊りが見れた。 カタックは北インドでムガール朝時代に生まれた中東的な回転が多い激しい踊りらしい。 そのためか?バラタナーティヤムの踊り手はおっとりした人が多かったがカタックの踊り手の女性は気が強そうな人でこだわりがあるらしく、足のステップが観客に良く聞こえるようにマイクの位置を気にしていた。 また、彼女が本当に踊りが好きだということが熱意がこもった説明でわかった。 彼女はカルカッタのNandini Sinhaさん。 インドの古典舞踊に興味のある方はもし彼女が来日することがあれば見て欲しい。

 韓国・朝鮮の古典舞踊は物悲しい感じがする。 一方、インドの古典舞踊は笑顔があって明るい感じがする。 古典舞踊に関してはインドが「太陽」で韓国・朝鮮は「月」とたとえられるかもしれない。 どちらも面白いので興味のある方は機会があれば是非見て欲しい。

 インドの映画やテレビのコマーシャルには良く踊るシーンやノリのいい音楽がかかる。 古来からインド人は歌や踊りが好きならしい。 まさに「歌って踊って四千年」だ。

8.明るい漁村(マハーバリプラム、1月26日〜2月3日)

 マハーバリプラムはヒンドゥー教関係の遺跡が多く、村自体観光で潤っている。 インド各地や海外からも旅行者が訪れている。 遺跡が小高い丘みたいな岩山の中にあるためか伝統的に石の彫刻が盛んで村の南側に作業場が集中している。

 海に面しているので村の北側に漁村がある。 ダンスフェスティバルと遺跡巡りが終わるとする事が無いので良く浜をぶらついた。 浜にはプラスティックの船も若干あったが丸太を削って6本ロープでつなげた筏の様な船がたくさん並んでいた。 漁具をよく見ると網のおもりに石が、碇は木に石を縛ったものがあった。 石のおもりの碇は江戸時代の日本でも使われていたらしいがここでお目にかかるとは思ってもなかった。 まだ伝統的な方法の方がお金がかからないのだろう。

 ある日の夕方に男達数人を乗せて船が3艘海に出た。 最初はどこかの町にでも行くのかと思ったが沖に出てから停止した。 漁を始めたらしい。 浜にいて網の手入れをしていた人達も一緒に沖を見ていた。 しばらくすると船は浜に戻った。 船が浜に近づくとあちこちから人が集まってきた。 収穫は九州でとれるキビナゴみたいな5cmくらいの小さい魚がバケツに半分くらいだった。 九州では刺し身にして食べるらしいがここではカレーにするか干物にするのだろう。
 漁が終わった男達と集まった人達の表情は明るい笑顔だったのでまずまずの出来だったのだろうか?

 また、別の日には一艘の船がサワラみたいな1m以上の大きなものや鯛みたいな魚などバケツ一杯くらいの収穫だった。 これは近くの観光客向けレストランにでも卸すのだろう。

9.塔門の町(カンチプラム、2月3〜5日)

 マハーバリプラムは静かでいい田舎だったが8日目を過ぎてそろそろ移動しないとここで旅が終わってしまう恐れが出てきた。 9日目の昼に宿をチェックアウトしてバスで西へ2時間半のカンチプラムへ向かった。

 バスのチケットを見たらこんなことが書いてあった。”THE COMPANY IS NOT RESPONSIBLE FOR LOSS OF LIFE 〜” つまり「乗車中に事故で死んでも責任はとらないよ。」ということらしい。
 車窓は時折町を通過するだけでほとんどヤシの木と水田、サトウキビ畑だった。 カルカッタからマドラスの鉄道で見たのと同じで代掻き、田植え、栽培、収穫がいっぺんに見れた。 代掻きに耕運機を使っていた以外はほとんど人手だった。 妹尾河童の「河童が覗いたインド」よりも若干機械化されただけでほとんど変わってないらしい。 時々煙突の工場があったが製糖工場か精米所らしい。 季節柄、刈り取ったサトウキビを満載したトラックを見かけた。 農家は茅葺きの土壁でなんだか日本の昔の農家みたいだ。 いろんな意味で合理的な家屋なのだろうか?
 外国人が珍しいのか?通過する町ではじーっと見られたり小学生くらいの子供達が寄ってきた。 観光地では「ペンが欲しい。」とか「お金が欲しい。」とか何かを恵んでもらうのが目的で近寄ってくるが、ここでは好奇心だけらしい。

 2時間を過ぎてから南インドのヒンドゥー教寺院特有の塔門、ゴプラムの大きなものが見えてきた。 バラダラージャ寺院の高さ60mのゴプラムだ。 カンチプラムの町に入ったらしい。 日本の祭りに使われる山車のような4階建てのビルくらいの大きな木造の車があったりひさしの長い瓦屋根と家の造りが日本みたいだったりして面白い。
 バスターミナルに着いてから宿探し。 ガイドブックに載っていたSri Rama Lodge(S85Rs)にした。

 タミールナドゥ州の寺院は暑い昼間の12時〜16時まで閉まっている。 16時になるのを待ってから宿を出て当地で一番大きいエカンバレシュワラ寺院へ向かった。 まだまだ外は日差しが強く暑かったが寺院の中はひんやりとしていた。 ヒンドゥー教の寺院は御神体がある本殿らしい建物には他の宗教の人は入れないがそれ以外は大丈夫らしい。 この寺院の中には御神木のマンゴーの木がある。 御神木という事自体、日本の神道みたいだ。 他にもヒンドゥー教寺院のそばに御神木らしい大きな木があるのを見かけた。

 次にカイラーサナータ寺院へと向かった。 さる役所のものらしいIDカードを持っていたおじさんに入場料を聞くと10Rsらしい。 当地は大抵、1Rsなのでおかしいと思って中に入らずに外から眺めた。 近所の人が話しかけてきたので修復のことを聞くと「この寺はもろい砂岩でできていて、大気汚染で破損したので修理している。」とのことだった。 カンチプラムのはるか西には大都市のバンガロールがある。 酸性雨が降ってもおかしくない。 知っている人は私同様心配しているのだ。

 翌日にはバスで通過したバラダラージャ寺院に行ってみた。 途中、結婚式の会場をいくつか見た。 結婚シーズンらしい。 乾期ということは農閑期なのだろうか? 日曜日だったこともあったが女性は当地名産の金糸を織り込んだ華やかな生地のサリーを着ている人が多かった。 柄が東南アジアのラオスみたいだ。
 寺院は刑務所のような高い塀に囲まれて、二つの大きなゴプラムがあった。 中に入ると僧侶の格好をした人が近づいてきた。

 観光地にある寺院の僧侶は他の宗教の人間にも声をかけて祈とうをさせてお賽銭をせびる。 額が少ないと「いらない。」と言うことがある。 近づいてきた人は入場料を払わせてから案内の話しをしだした。 ガイドをしているらしい。 様子を見ていると外国人ばかり狙っている気がする。 さしずめ観光坊主と言ったところか?
 一応支払額を20Rsと申告しておいて案内させた。 インドの歴史、ヒンドゥー教の知識があれば役に立つかもしれないが案内の印象があまり残ってないので私には必要ないらしい。

 案内が終わると「もっと払え。」と言ってきたが断った。 この手の人間はどこでも似たようなものだがインドは特にしつこい。 何をするのか最初に言わないのがいやらしい。
 観光地で寄ってくる子供は「ペンが欲しい。」、「お金が欲しい。」、「日本のコインが欲しい。」、「お菓子が欲しい。」としつこい。 どこでも「ペンが欲しい。」とたかるのは一部の旅行者がばら撒いているからだろうが、観光地では親がやらせているからしつこいのだろう。 集めたペンはどうするのだろうか?回収して文房具屋に売る人間がいるのだろうか?

 砂糖に群がるアリみたいにうっとうしい人間が集まるが、寺院自体は彫刻やゴプラムと本殿の配置など見る価値があるもので面白かった。 ほとんどの子供の「ペンが欲しい。」は試しに言ってみた程度なので「無い。」というとすぐに諦める。 町の人はこちらから道を聞くと親切に教えてくれた。 これもどこでも一緒だ。

10.みんなで映画を見よう!インド人の楽しい休日(カンチプラム、2月4日)

 インド旅行の楽しみの一つに映画鑑賞がある。 マドラスでは宿の近くに映画館があった。 ある日の昼間に行ってみると、平日にもかかわらずその日の券は全て売り切れだった。 噂通りインドでは映画の人気が高いらしい。 しかも映画の世界を征服したかのようなハリウッド物ではなく国産が多いというのが面白い。

 カンチプラムにいた日に丁度日曜日をはさんでいた。 宿の近所に映画館があるのは知っていたが、日曜日だったしマドラスの件もあるので諦めていた。 ところが、映画館の近くを通っていると券を買って入場する人がいた。 モギリの人に聞くと席があるらしい。 エアコン20Rs、エアコン無し15Rsで安いエアコン無しにした。

 中に入るとすでに映画は始まっていた。 映画はコメディで言葉のギャグが多かったのでタミル語がわからない私には辛かったが我慢して見ているとなんとなく話しが見えてきた。 親子2代に渡る話しだったが日本でも上映されたラージニー・カーントの映画とパターンが似ていて歌あり、踊りあり、アクションあり、恋愛あり、お涙頂戴ありとなんでもありで出生の秘密ありというのも同じだ。 日本で見たラージニー・カーントの映画にも出演していた役者さんも何人か似たような役で出演していた。 出来の方は日本で見たラージニー・カーントの映画よりも歌と踊りのシーンに金がかかってないがまあまあと言ったところだろうか?

 なんでもありというのは映画を見ている人が家族連れや若い人のグループ、カップルと幅広いので誰にでも見てもらう事を前提にしているからだろう。 歌と踊りのシーンは歌って踊って四千年のインド人ならではでの趣味である。
 これだけ盛りだくさんだと脚本や演出が大変だろうが、歌と踊り、アクション、恋愛とシーンによってグループを作って監督あたりがまとめているのかもしれない。

 映画作りはよそとは違う個性的なものだが、観客の態度もまた違う。 面白いギャグが出ると拍手をしたりピューピューと口笛を吹いたりする。 有名な俳優が画面に出るとこれまた拍手をする。 画面の切り替えがうまく行かないとヤジが飛ぶ。 封切り前に映画音楽のテープが売られるらしいので歌と踊りのシーンになると「予習」した観客が歌い出すという噂だったがこれは無かった。

 ラージニー・カーントは映画「ムトゥ・踊るマハラジャ」で最初に「SUPER STAR」と画面で紹介されたが実際、タミルナドゥ州のあちこちでアンナードゥライに負けないくらい写真や似顔絵を見た。 人気はかなりのものらしい。

11.印仏折衷の町(ポンディチェリー、2月5〜8日)

 タミルナドゥ州の北部、マドラスから南へ150kmほどのところに飛び地みたいに連邦直轄地がある。 45年ほど前までフランスの植民地だったポンディチェリーである。 もともと興味が無かったがダッカで知り合ったカナダ人のおじさんに「フランス風で面白いところだよ。」と教えてもらいどんな所か興味を持った。
 また、タミルナドゥ州では夜行を使わずに移動は6時間以内に抑えたかった。 昼間にバスで少しずつ移動して景色を楽しみたかったからだ。 カンチプラムから3時間ほどと適当な場所なので行ってみる事にした。

 カンチプラムからの景色はやはり田園風景だった。 時折、井草らしい青くて長い草を切っているところを見た。 ここにも日本のゴザと同じ敷物がある。 誰が考えたか知らないが湿度の高い地域ではありがたいものだ。
 ポンディチェリーのバスターミナルには午後二時ころに着いた。 警官の制帽が円筒形のフランス風で白い制服もあって軍服みたいな普通の警官の制服よりおしゃれな感じがした。 乗合リキシャに乗って早速宿探しを始めた。 

 ところが、旅行者が使いそうなところは一杯でインド人が使いそうな安そうなところへ行くと昼寝しているのか?受付が開いてない。 公園で物乞いにたかられながら3時まで待つと丁度西洋人旅行者が宿のありそうなところへ向かって歩いていた。 付いて行くとガイドブック「地球の歩き方」には載っていない宿が集まった一画があった。 そのうちの一つRaj Lodgeがシングル1泊80Rsだったのでそこにした。 部屋には蚊が飛びまわっていたが持参の殺虫剤を噴射するとあっという間にほとんど死んでしまった。

 観光案内所でもらった地図を見ながら歩くと東西1,000m、南北1,500mほどの楕円形の道で囲まれた中にいろんな性格を持った地域があった。

 東側の海岸に近いいい場所はこの地を治めていたフランス人のお屋敷だったらしい建物や役所がある。 夕方になると短パン姿の年配のインド人がウオーキングをしていた。 サリーやパンジャビー・ドレスの伝統的な服装の女性がほとんどのインドだが、この町では洋装の女性をちらほら見かける。

 西側はごみごみしたインド人が多い市場や職人街があり、町の周囲を囲む道の西側が今ではこの町で一番賑やかな通りになっている。 家の玄関に日本の鬼みたいな絵やお面が飾ってある所が多かった。 多分魔除けだろう。 こんなこともインドから日本へ伝わったのだろうか?
 海に面しているだけあって朝の市場は鮮魚部門が一番賑やかだった。 ここにいるのはほとんど女性だった。

 北インドでは銀行や鉄道駅など学歴を要する職場以外は男性が多かったがタミルナドゥ州ではあちこちで働く女性を見かけた。 北はイスラム教徒が支配したら歴史が長かったからだろうか? 市場の場合は「釣るのは男、売るのは女」という役割分担ができているからだろう。 漁業で有名な沖縄の糸満もそうらしい。
 賑やかなことも活気があって面白かったが、売っていた魚も面白かった。 鯛やサワラみたいなものやイカ、小さなエビ、大小のハタ、サメまでいた。 サメカレーというのもあるのだろうか?
 野菜、果物はどの店でも山積みにされていてこの地域の豊かさがわかった。

 南側にはモスクがいくつかあって緑の塗装をした家が多いイスラム教徒地区だった。
 もちろん、モスクだけでなく東側にはカトリックの教会が、ヒンドゥー教の寺院は西側を中心にいくつかあった。 ヒンドゥー教寺院のなかには塔門の石像が西洋的で天使らしい像まであった。 印洋折衷といったところか?

 食事関係もインドで普通の大衆食堂はもちろん、やはりフランスの影響か?パン屋が多かった。 ただ、フランスパンはあったものの、ラオスやベトナムみたいにフランスパンのサンドイッチはお目にかかれなかった。 インド人には受け入れられなかったのだろうか?

 バラナシを始めインドの町は入り組んでいて迷う事が多いがこの町は計画的に道を作ったから直線が多く迷いにくい。 おかげでこの町では散歩が楽しめた。 そんなことも居心地がいい一つの理由だった。

12.過去の栄光(タンジャブル、ティルティラパリ、2月8〜12日)

 タミルナドゥ州中部にカベリという名の川がある。 隣のケーララ州、カルナータカ州を水源にベンガル湾に達する760kmの川だ。 インドのガイドブックに「タミルナドゥの穀倉地帯」と書かれていて、古来からいくつかの王朝が盛衰を繰り返していたそうだ。

 ポンディチェリーと南インド観光のハイライト、ミナークシ寺院があるマドゥライの中間くらいにタンジャブルという古い町がある。 そこで、次はカベリ川デルタ地帯にある古都タンジャブルへ向かう事にした。
 ポンディチェリーを出たバスは例によって田園地帯を走った。 ガンジス河流域などインドの人口過密地帯は大体こんな感じだ。 もちろん、北と南では作物が違うが。
 カベリ川のデルタ地帯に入るとチダムバラム、クンバコナムと町中に大きなゴプラムを見かけるようになってきた。 川にはガンジス同様石の階段のガートがある。 また、川を中東からの交易船が溯ったのだろうか?結構モスクを見かける。 白い帽子を被った男性や被り物をした女性が多い。 もちろん、ヒンドゥの寺院や教会もある。
 乾期、雨期で水量が違うからだろうか?大河のデルタ地帯にありがちな川船は見掛けなかった。 昔からなのか、車の普及でなくなったのかわからないが。

 ポンディチェリーを出てから約5時間後の4時にタンジャプルのバスターミナルに着いた。 この町には2つのバスターミナルがあるらしい。 一つは市街地にあるOld Bus Standでもう一つはそこから南の方角に離れているNew Bus Standだ。
 ガイドブックを鵜呑みにしてバスが着いたのはNew Bus Standだろうと思って宿があると思われる駅へと向かった。 バスを降りてみると持参のコンパスはバスの進行方向は南を指していた。 歩いてガイドブックに書いてあったRaja Rest Houseに着くと宿の人は「150Rsのダブルならある。」と言った。 辺りを捜してみたが他にそこよりも安そうな宿がなかったので150Rsの部屋にチェックインした。
 後で宿の北にある旧市街地へと歩いてみたがポンディチェリーからのバスの終点のOld Bus Standは歩いて10分くらいだった。 その近くにRaja Rest Houseより安そうな宿が何軒かあった。 翌日、シングル55RsのSafier Lodgeへ移った。 部屋はあまりきれいではなかったが私にとっては困らない程度だった。

 着いた翌日にこの町最大の見所、ブリハディーシュワラ寺院に行ってみた。 寺院はBig Templeといわれるだけあって敷地の近くに来ると外側に濠がある広大なもので、本堂も高さ63mと大きかった。 寺院というよりお城みたいだった。 10世紀にこれを建てたチョーラ朝は当時最盛期でスリランカまで領土だったらしい。 そうなると権力者は調子に乗って大きな建物を建てて国の経済が傾いて王朝が衰退してしまうというのがパターンだ。 今の日本も似たようなものらしい。

 中に入ってみるとシバ神の寺院にありがちな牛の像、ナンディがあった。 これも破格の大きさだったが顔を見ると口から鼻へ長い舌が伸びていてその辺のノラ牛と変わらなく、恐い感じがしない。 天井には肥満体型の天使が描かれていた。 「天使」というとイスラム教、キリスト教といった中東起源の宗教を思い出すが、ヒンドゥ教にも存在するらしい。 本堂には塔の側面に数え切れないくらいの像が、下部には古い文字がびっしり書き込まれていた。 周囲の回廊には神様や書かれた当時の風俗の壁画があって面白かった。 ここは来て良かったと思った。

 その日の午後にマハラジャの宮殿へと行ってみた。 そこも敷地が広かったが、今のマハラジャはかつてほど財力が無いのか?公開してあるところでさえ建物が老朽化していた。 もっともその辺の話しはインドに限ったものではなく、日本やヨーロッパでもある事だ。

 その翌々日にバスで1時間半ほどのティルティラパリへ向かった。 ここにはインドに割と多い岩山に建てた城、ロックフォートがある。 寝坊したので11時にそこに着いた。 強い日差しを浴びながら汗だくになって83mの岩山を登るのかと思ったが参道には屋根が付いていたので想像以上に楽だった。 遠くから岩山を眺めるのもいいが、頂上からの眺めがなかなか良かった。 北にカベリ川とその向こうに午後に訪れるつもりのランガナータスワミー寺院が林に囲まれているのが見えた。

 なんとなく寺院まで歩いて行く事にした。 カベリ川を渡るとブルーのパンジャビードレスを着た少女が川の中州でびしょぬれになってボールで遊んでいるのが見えた。 こちらは汗でびしょぬれだったが涼しくほのぼのとした光景だった。 暑い昼時だったので他にも川で泳いでいる子供がいた。

 ランガナータスワミー寺院は本堂が低く塔門、ゴプラムが高い近代の様式の寺院で、ここも敷地が広かった。 残念ながらインド最大73mの高さを誇るゴプラムは彩色中で作業用の覆いがかかっていた。 外周を囲む複数の壁の中程まで門前町になっていて観光客相手の店や土地の人の店がいくつもあった。
 寺院に入ると涼しそうなところで昼寝をしている人がたくさんいたのはおかしかった。 暑い中を歩いてきたので昼寝をしている人のそばで座って休んだ。 やはり涼しくて快適だった。
 近くに土産物屋が数軒並んでいた。 土産物屋には子供のおもちゃも置いてあった。 丁度日曜日だったので家族連れが多かった。 おじいちゃんにねだったものの断られ、座り込みもむなしく抱きかかえられて強制送還となった子供、甘いお父さんに嫌な顔をされながら満額回答を得た子供、ちらりと見ながら何事も無かったかのように去っていく辛抱強い子供と様々だった。

 これらの寺院や遺跡がアンナードゥライはじめタミル人たちの心の支えになっている「過去の栄光」の一つだろう。 「過去の栄光」から自信を持ち、中央政府と立ち向かっていく勇気を得たのではないだろうか?

 タンジャブルとティルティラパリの間にはいくつもの学校が建っていた。 ほとんどが技術系の学校だった。 地方でも拠点都市には大概あるらしい。 近年、各国で引く手あまたのインド人技術者の中にはこうした学校を出た人もいるのかと思った。
 日本では技術系離れで理系の学生が減っているらしい。 学費が高いという経済的な事情、産業の空洞化もあるが、女性週刊誌ごときに「理系の男と結婚してはいけない。」と書かれる有り様である。
 保守的なものの、少しずつ発展しているこれからの国インドと昔から甘い汁を吸い続けている人間のせいで新たな産業が育たなく、技術力が低下している落ち目の日本。 バスの車窓からだけでもいろんな事が見えてくるのだ。

13.南インドのハイライト(マドゥライ、2月12〜15日)

 タンジャブルの次に寺院巡りのハイライト、ミナークシ寺院があるマドゥライへ向かった。
 バスは徐々に南へ向かっているからか?時々車窓にバナナ園を見掛ける。 また、内陸で乾燥しているのか?水田は少なく、時々牧場を見掛けた。 マドゥライは石の産地でもあるらしく、大理石の採石場があった。

 マドゥライのバスターミナルに2時頃に着くと例によってオートリキシャの運転手のお出迎えがあった。 今までのタミルナドゥ州では断るとすぐにあきらめるが観光地だからか?ここではなかなかしつこかった。
 市バスで鉄道駅へ向かい、「地球の歩き方・インド編」に載っていた宿へ向かうとその宿がある通りにやたら客引きがいた。 彼らに付いて行くと余計な手数料を負担する事になるので無視して同じ通りをTown Holl Rdを越えて南へ向かうと客引きがいなくなった。 マドゥライは一大観光地からか?料金の割に部屋はきれいでなかったが、手頃な宿が何軒か立ち並んでいた。 その中のRuby Lodge(W80Rs)に宿泊した。

 宿からミナークシ寺院は徒歩で10分くらいだった。 マドゥライはミナークシ寺院の周辺に商業地区が広がる町で、夜になると土地の人が大勢出歩いていた。 寺院は塔門、ゴプラムが周囲の明かりに照らされていた。 ゴプラムの壁を埋め尽くしていた彩色された彫像が良く見えた。 寺院の周囲には土産物屋、茶店に宿が立ち並んでいた。 どことなく感じが長野のような日本の門前町と似ていた。 ここでも観光地にいがちな土産物屋のしつこい客引きがいた。 今はインド人にとっても観光シーズンらしく、修学旅行らしい制服を着た子供達が集団で巡礼宿に入っていった。

 翌日、ミナークシ寺院へ参拝に行った。 入口で履き物を預けてから寺院へ入る。 広い敷地にいくつかの寺院があって回廊で結ばれていた。 回廊といっても敷地のほとんどを占める。
 東門から入ると象がいた。 大きな寺院には大抵いて、象に喜捨すると鼻の先を喜捨した人の頭に乗せて祝福する。 有料だが記念撮影もしてもらえる。 インド人でも触る機会が少ないらしく、恐る恐るといった感じの人が多い。
 東門近くの「千本柱の間」は博物館になっていて、神々の銅像が展示されていた。 他に漫画みたいな神話の絵も展示してあった。 この寺院が造られた13世紀から16世紀ごろの風俗だろうか?王族や庶民の生活、火葬の様子、残酷な処刑シーンまであった。
 本殿の近くに2Rsで団子状のバターが売ってあった。 御利益があるのか?近くのシバとパルバティーらしい銅像に当てるためのものだ。 当たった人は夜店の射的で当てたみたいに喜んでいた。 そう言えば宮崎県の鵜殿神社だろうか? 海の断崖に神社があって、崖の下にある岩のくぼみに近くで売っている陶器の玉「運玉」を入れるといい事があるということを思い出した。

 本殿近くと天井の無い沐浴場は参拝に来た人が座って休んでいた。 例によって暑い昼間は昼寝の人も多かった。 彼らと同じ事をしているとあっという間に時が過ぎて行くのだろう。

14.インド最南端の地(カニャクマリ、2月15〜19日)

 マドゥライからタミルナドゥ州最後のポイントでインド最南端のコモリン岬がある町、カニャクマリへと向かった。
 マドゥライから235km。 鉄道は早朝の1本のみなのでバスの方が便利だ。 所要6時間なので朝8時に郊外にあるバスターミナルへ向かった。

 バスはマドラスから出ている便で埃にまみれているものの、リクライニングできるインドにしては上等のバスだった。 車窓は大きな川がありそうなところには水田があった。 南下しているからか?バナナ園も多い。 それ以外は牧草地で乾燥しているらしい。 マドゥライから気づいた事だが、髪の毛が縮れた人が南下に従って増えているような気がする。 いくつか町に立ち寄ってから午後3時に海に面したカニャクマリの町に着いた。 ほぼ235km南下したせいか?バスを降りると空気が蒸し暑く感じた。
 宿はバスターミナルから数分の州政府直営ホテル、Hotel Tamil Nadu 「II」の中にあるYouth Hostel(D50Rs)にした。 カルカッタを発ってから個室が多かったのでほとんど旅行者と会話してなかったので同じ部屋の旅行者との会話はいい気分転換になった。

 この町もヒンドゥ教の聖地になっていて、クマリアンマン寺院が岬のそばに建っていた。 岬には階段のガートがあって、沐浴をする人が何人かいた。 寺院の参道には土産物屋に食堂が立ち並び、葛飾柴又の帝釈天の参道みたいだ。 そこから北の海岸は教会が何軒か建つ漁村だった。 マハーバリプラムで見た船と同じような木材を組んだ筏みたいな木造船が多かった。
 岬には朝と夕方にインド人観光客が大勢御来光と夕日を見に訪れていた。 そういう発想はインドが起源なのだろうか?

15.庄屋さんのお屋敷(パドマナーバプラム、2月18日)

 妹尾河童著「河童が覗いたインド」にカニャクマリから40kmの地点パドマナーバプラムにケーララ系のトラバンコール王朝が建てた木造の宮殿、Padmanabhapuram Paleceがある。 バスターミナルで聞いてみると2時間ほどで行けるらしいのでカニャクマリから日帰りで行ってみる事にした。

 実際はタッカライTakkalaiという町からバスを乗り換えて1時間半ほどで着いてしまった。 宮殿は木造で壁に漆喰だろうか?似たような建材を使っていたし思ったよりこじんまりとしていて日本の「豪農屋敷」、庄屋さんのお屋敷を大きくした感じだった。 柱に彫られた彫刻も日本のものと似たような模様だった。 インドは人の顔つきや習慣など日本とは非常に異なっているが時々ひょっこりと「なつかしい」と感じさせることがある。 特に南インドで多い。
 しかし、宮殿内を歩いてみると通路が複雑に入り組んでいたり脱出用のトンネルが用意してあったりとただならぬ雰囲気はやはり支配者の住居であることに違いない。

 ここは日本人定番のガイドブック「地球の歩き方・インド編」で紹介されてないからか?日本人旅行者を見かけなかった。 そのせいか?インド人観光客に珍しがられた。
 宮殿に入場する前に一人の青年に「カメラ」と呼び止められた。 私持参のカメラに写してくれという事かと思ったが彼らもカメラを持っていたのでシャッターを押してくれという事かとも思った。 ところが、彼らは私と記念撮影したかったのだ。 入れ替わり立ち代わり撮影した。 彼らは撮影が終わると笑顔で立ち去った。
 宮殿ではなぜか女性が多いインド人観光客の団体の後ろで見学した。 時々彼女たちの視線がこちらに集まっていた。 笑顔の時もあるので好意的みたいだ。

15.進路を変えて北西へ(カニャクマリ→トリバンドラム、2月19日)

 最南端にたどり着いたのでもうこれ以上南下できない。 続いてタミルナドゥ州の西隣のケーララ州へ向い、アラビア海沿いに北上する事にした。 カニャクマリからケーララ州の中心、トリバンドラムは90km離れていてバスで3時間。 近くにはインド随一のビーチ・リゾート、コバラムビーチがあったが、海に面したマハーバリプラムに滞在したのでパスしてトリバンドラムへ向かう事にした。
 バスは普通の路線バス。 通路や前の座席には乗客の荷物があふれていた。 カニャクマリの最寄りの空港はトリバンドラムになる。 トリバンドラムまでは鉄道もあるのだがバスの方が本数が多いので便利だ。 安いのはいいが、この路線には荷物が多い観光客が多いのでそれ相応のバスがあってもいいと思うが時期によって変動があるので仕方ないかもしれない。

 車窓はタッカライまでが昨日訪れたパドマナーバプラムと同じ道。 タッカライを越えるとタミル文字より丸みを帯びたマラヤラム語表記の看板が増えてきた。 ケーララ州の車のナンバー「KL」のバスやオートリキシャがたくさん止まった町で隣りの席のおじさんに聞くと「もうすぐケーララ州との境だよ。」とのことだった。 彼は境界の看板を指差してくれた。

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