「ウモオオオォォォ!」
背中に激痛が走った。文字通り、焼け付く痛みが、一人のミノタウロスを、陶酔の余韻から現実に引き戻した。
ミノタウロス達に、恐怖が伝染する。火を背負ったそのミノタウロスは、炎の壁を無理に突破しようとして、余計に身体を火に焼かれることとなった。どさりと崩れ落ちた彼の死体に触れたあるミノタウロスは、炎への更なる恐怖をつのらせ、仲間のミノタウロスを押し退け、暴れる。振り上げられた拳を受けたミノタウロスが訳も判らず反撃する。パニックは、戦いを厭わないミノタウロスの凶暴性のみを強調し、このような場にこそ必要とされる冷徹なまでの判断力を奪った。
そのミノタウロスが私を見る目は、狂気。
「何をやってる!逃げるんだ!」
私の胴に、片目のミノタウロスが手を回した。丸太でも担ぐように、私を肩に乗せる。私に襲いかかってきたミノタウロスの頬を、彼は殴り倒した。
「君だけの逃げ道があるんだろう?どこだ?」
ミノタウロスは私の耳に囁きかけた。
「どこって…」
「君をそこまで送っていくから!もう…」
言いかけて、片目のミノタウロスは、闇雲に斧を振り上げてきたミノタウロスの斬撃を横に避け、後ろに回って背中を蹴り倒した。蹴られたミノタウロスは、やぐらの支柱の一本に激突した。
「この状況じゃ、君一人では無理だろう!」
私は、片目のミノタウロスの意図が理解出来なかった。
「え、だって、貴方を連れていったら…」
「オレは逃げない!」
―――やっと判った。
「まさか…貴方!」
「オレがその道を塞ぐ壁になる!」
そんな、そんなのって!
「早く!」
私は泣きそうになった。(今思えば、私もこの時パニックに陥りかけていたのだ)
「…やぐらの、裏の方…火を放った場所を少し開けてもらってて、待っててもらってるけど…」
最後まで言い終わらない内に、私を抱え、片目のミノタウロスは走り始めていた。混乱した自分のかつての友、親戚を殴り、蹴り、とうとう腰に吊るしていた斧に彼が手をかけた時、私は怒鳴った。
「降ろして!」
ミノタウロスは答えない。斧を引き抜き、一閃。斧を構えていた右手毎、彼は仲間の腕を斬った。
「降ろしなさいっ!」
「無理だ!危険すぎる!」
「ふざけないで!私だって戦えるのよ!守ってもらう筋合いはないの!」
「いや…、オレにはある!」
宿屋の主人の奥さんに助けてもらった恩を、返せなかったこと?
…つまり、これは、貴方なりの、贖罪のつもりなのね?
「ふざけんじゃないわよっ!降ろせって言ってるんだから降ろしなさいっ!」
一瞬、狂ったミノタウロスをもたじろがせるほどの怒声を、私は吐き散らした。
「貴方が恩を返せなかった話は知ってるのよっ!だから何よ!今それで私を助けてアンタが死んだんなら、それでいいわけっ?よくないわよっ!単なる自己満足に私を利用しないで!一人でも私は助かるわよ!」
彼は首を振った。再び襲いかかってきたミノタウロスたちを、斬る、張り倒す、蹴る、走る。
「降ろして、降ろしなさいよっ!」
「騒がないで、気付かれる!」
ミノタウロスはやぐらの裏手に回った。炎の壁に、わずかに隙間が出来ている。揺らめく炎の向こうに、件の宿屋の主人と、私に慣れ慣れしくしてきた青年が見えた。彼らはミノタウロスに担がれている私を見て目を丸くしている。
ミノタウロスも彼らを見て、私を降ろした。
「あの人達が仲間なんだろう?早く行くんだ」
私がミノタウロスを睨みつけたまま、動かないでいると、何をやっている、と宿屋の主人が叫ぶ声が聞こえてきた。私が脱出した後、やぐらに火を放つ予定だったことを思い出した。
「ルルーさん!このままじゃ自然にやぐらまで火が回ってしまう!早く!」
宿屋の主人のダメ押し。私は一歩ミノタウロスから下がった。
「死ぬのは勝手よ!だけど、死んだってアンタの罪は消えたりしない!だって…死んだら、ただその罪から逃げたことになるだけなんだからっ!」
ミノタウロスはぽかんと口を開けた。
私は一目散に炎の壁の間隙に走り込んだ。背後でドオォン、と破裂する音。私は主人と青年の肩を掴んで、伏せさせた。
やぐらに火が回ったのだ。