濡れた髪をタオルで押し上げて、パジャマ姿の私は脱衣所から部屋に向かっていた。
「露天風呂なんて、なかなかやるじゃない」
お月様を見ながら、たっぷりサタン様との思い出にひたっちゃったわ。思い出といっても、送り迎えして頂いたことだけ…。
……………。
ま、何にしてもゆっくり入るお風呂はやっぱりいいわよね。
「さってっと…」
ドアノブにルームキーを差し込み鍵を開けて、部屋に入って―――
「きゃあああっっっ!誰っ!?痴漢っ!?変態っ!?」
ベットの近くに、うずくまっている何者か。
明かりは、開け放してある窓からさす月光のみ。
人影が立ち上がる気配を見せた。
「うら若き乙女の部屋に忍び入る変質者!覚悟なさいっ!」
髪をタオルでまとめあげて、私はさっと身構えた。
くるりと振り返る変質者。と同時に、私は懐に飛び込み、得意の掌底突きを…。
「お嬢さん…私は貴女が壊したテーブルの修理に来ていたのだが…?」
暗い中にぼんやり浮かぶ、宿屋の主人の呆れ顔。
「あ、あら…?なんでこんな暗い中で…」
「君が勢いよく入ってくるものだから、ランプの光が消えた」
シュっと音がして、ぱあっと室内が明るくなる。主人は手にランプを持っていた。
「これをテーブルに置くようにな。そうでないと、この部屋は真っ暗だ」
「あ、ありがとう…ごめんなさいね。テーブル直った?」
「直ったよ」
「そ、そう…」
さすがの私も、気まずい。
「で、でも、こんなに窓開けておかなくたって…」
「ああ、ちょっと暑かったから」
「そう?」
この村、じゃなくて町は、私が抜けてきた森のすぐ近く。夏とはいえ、夜は涼しい。私がお風呂あがりだから…かしら?
「あと、月が見たかった」
「月?」
私は主人の肩ごしから窓の外を見た。窓枠は額縁、『のどかな村の月の夜』とでもいう題名の絵みたいな風景。
「満月にしか見えないわ…」
「連中には少し欠けて見える。暦でも、明日が満月だ」
連中、とはミノタウロス一族のことだろう。
「まるで、ミノタウロスに聞いてきたみたいな言い方ね」
「聞いたんだ」
「え?」
「私がじゃない、妻がだ。昔、若いミノタウロスを妻が助けたことがある」
「昔って…」
「まだ結婚したばかりの時だ。…三十年は経ってるな。
若いミノタウロスが、何故か村に紛れ込んだことがあってな。いかにも軟弱そうなミノタウロスだった。
その頃、村は丁度イケニエを取られて二ヶ月も経っていなかった。これ幸いと、村人たちは恨みを晴らすべく、ミノタウロスの首を斬り、連中の祠に投げ込んでやろうとした。
そいつは矢を射かけられ、右往左往と逃げ回った。それを助けたのが妻だ」
物好きな女ね、と私は思ったけど、口にするのはやめた。
「そのミノタウロスは刺さった矢で右目を潰したが、命に別状はなかった。お礼にと、傷が癒えるまでこっそりうちの仕事の裏方を手伝ったり、一族の話を色々として帰った。
『この恩は、必ず返す』と言い残してな」
月を見つめる主人の瞳が、月光を乱反射している。
「私は思ったさ…、妻が、それから七年後、イケニエに選ばれたとき…」
そのミノタウロスが、妻を助けてくれるのではないかと…、多分、主人はそう言いたかったんだと思う。
彼の瞳から、涙がこぼれた。
「所詮、ミノタウロスはミノタウロスに過ぎなかった!」
慰めの言葉も、気休めの言葉も、私は言える立場にない。
「…私が倒してあげるわよ」
髪をまとめていたタオルを、私は取った。
ばさりと髪は肩や背に落ち、頬を打った。
「右目に矢傷のあるミノタウロスでしょ?そんなドジで弱虫なミノタウロス、物の数じゃないわ」