K環境学習プログラムについて

 

甲府市自治基本条例策定の極私的経過報告その7 

森本 優(2006/08/03)


一、K環境学習プログラムについて

 

 巨大宗教団体をバックとして持つ民間団体が環境学習プログラムを作り、自治体や学校そして青年会議所等の各種団体・企業に入りこんでいるが、問題なのではないのか。

 特に、公教育の私物化につながり、また、組織のネットワークを広範囲に結んでゆくことで、巨大組織の意向が個人の意志を押しつぶす方向にあることを危惧する。

 何故そのようなことを言うかというと、今の時代の流れと併せて考えるならば、団体・組織・企業同士の繋がり・縛りの中で、「市民」の「意思」は整えられ、個としての「異端者」の意見は封印されてしまう傾向が顕著だからだ。

 その結果として、「市民」(宗教団体や企業群が背後にいる)の自らの手で作り上げた管理統制社会が出来上がってしまうのではないのか。

 

 K環境学習プログラムについては、当初から、なぜどこにでもあるような環境家計簿を、何カ国語にも翻訳して世界の子ども達に広めようとしているのか、また、二人の主婦が始めたものだと説明されているが、わずか5、6年でこれほどの展開ができるものなのか、少なからぬ疑問を抱いていた。

 また、電気事業連合会も協賛していて、ページの合間に原子力発電の必要性を説明した文章を滑り込ませていて、うさんくささも感じていた。

 

 私は、某教団と原子力産業との間で、K環境学習プログラムを使って原発を進める市民運動が、今から6、7年前から密かに仕掛けられたと考えている。これに、環境オタクが脳天気に(一部は自らの利益のため自覚的に)乗っかって、先兵としての役を引き受けているのが残念でならない。

 おそらく某教団としても、信者の獲得や事業の拡大等、勢力を伸ばす絶好の機会なのだろう。

 

 因みに、未来バンクの田中氏によれば、原子力予算は、国からここ50年余りの間で、現在価値で言うなら、累計で25兆円が補助されていて、年に換算すれば現在価値で5000億円にもなるとのこと。

 そして、もし、このような巨額の金が50年に亘って自然エネルギーに補助されていたら、とっくに自然エネルギーの方が使えるものになっていたはず、との指摘をしている。

 未来に経済・環境の両面において大きな負担を残してしまう原子力発電はもう止めて、人と自然が生き続けられる自然エネルギーに変えてゆきたいと、希望するのが普通の国民の感覚なのではないのか。

 しかし、ここでも既得権者の利益が優先され、CO2削減の問題も絡んで、よりいっそう時代にそぐわない原子力発電が推進されようとしているのが現実だ。

 

 ところで、このよう巨大宗教団体とそれをバックに持つ民間団体やその周辺の市民団体・関連企業群が、これからの地球を救うものと信じて疑わない人たちがいるようだ。

 しかし私には、宗教団体によって繋がれた団体・組織・企業のグローバルなネットワークが、個々の市民を統制・管理し、更には支配に向かうのではないかと気になって仕方がない。

 また、例えば、某教団の教主様が「救世主」としてまもなく立たれると言われても、じゃあ「救世主」様に身も心も捧げます、という話にはならないと思う。

 もし万が一、そのようなことが全世界規模でなされるとするならば、本当に洗脳が上手く働き、お互いの利害関係によってがんじがらめに管理・統制された世界になっている必要があるだろう。

 でも、そうなれば、自らの神性(仏性)の否定でしかない。

 言い換えれば、己の魂を売り渡すことでしかないのだ。

(「「個の尊厳」(憲法第13条)を中心として 参照)

 

 老獪な親分たちが黒幕となって子分たちを道具として使う例はよくあるが、大抵非難の矛先は、姿を現して動き回っている子分に集まってしまうものだ。

 今まで自然エネルギーを推進し原発には異を唱えてきた人たちが、K環境プログラムを進めるということは、K環境プログラムも当然自然エネルギーを進めることを前提としているものと一般に受け取られるのが当然だろう。

 しかし、実際はそれが原子力推進を次世代に刷り込むようなものだとしたら、騙された人たちや原発・原爆の被害者等の感情は如何ばかりであろう。

 このようなことをしていたのでは、今まで築き上げてきた人間関係・信頼関係はズタズタに損なわれてしまうだろう。

 


二、自治基本条例策定経過報告

 

 全体会(5月12日)の話では、一般市民が参画できるような常設機関は、仕事量が多いので設置は不可能とのことらしい。

 しかし、事務的な困難さから一刀両断に切り捨ててしまうのはいかがなものだろうか。住民自治の拡充を謳いながら、事務的な理由から参画協働社会を担う市民を育ててゆく装置(仕組み)ができないというのでは、本末転倒というしかない。

 そもそも二元代表制も人間が作った制度であり、絶対的なものではない。 直接民主制がより重要視されている地方分権時代の今こそ、自己決定・自己責任の下、一人ひとりの市民が市政を担ってゆくことのできる舞台装置を、知恵を合わせて準備してゆきたいものだ。

 また、常設機関委員の民主的正統性が問題とされていたが、要するに本音は、「偏った人たち」が市政を引っ掻き回すことになるので、常設機関は、仕事量の多少にかかわらず認めたくないということらしい。

 ひどく警戒されたものだ。

 ここでも、既得権者を脅かす制度は徹底的に敬遠されるということか。

 


甲府市自治基本条例をつくる会会議録


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