祝町向洲台場(いわいまちむこうずだいば)

概説 鹿島灘を臨む標高約20mの砂丘地。江戸時代末期、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、天保11(1840)年に帰国したとき、那珂湊の砲台のみでは海防が不十分であると考え、対岸の祝町へも砲台を建設することを意図した。ただちに実施されなかったが、ペリー来航後の安政2(1855)年4月に縄張りが行われた。その後藩内の事情もあって、砲台築造は文久3(1863)年7月頃からはじめられ、翌元治元年の天狗党の乱では、この砲台から大炮が発射されている。明治期までは砲台の姿がよく保存されていた。県有松林内の土塁、張り出し部2〜9、方形台状遺構は旧状をよくとどめ保存状態は良好である。[『大洗町埋蔵文化財包蔵地調査カード』より]
アクアワールド大洗裏の松林に残る台場土塁
その他の写真
  1. 南端の方形台状遺構から東側(太平洋側)を臨む
訪問記[2004/04/26]こんなに大きな物だとは思わなかった。南北の差し渡し200m以上あると思われる。資料を探して、品川第三台場函館弁天台場(湮滅)と大きさの比較をしてみたいものだ。近世末期の台場跡は海岸線近くの砂丘地に立地していたことや施設としてそれほど規模が大きくなく全国的にも現存する物は非常に少ないと思われる。その中にあってこの祝町向洲台場は土塁がかなりしっかりと残っている貴重な遺構だと思う。史跡指定がされていないのは不思議なくらいだ。
[追記:函館弁天台場の正確な大きさの書かれた資料が手元にないが、函館の古地図を再現した書籍『箱館から函館へ』の図を参考に推測すると、最大差し渡しは約216mくらいだったと思われる。また、ほぼ方形の品川第三台場の対角線は手元の地図で計るとおよそ240m。すなわち祝町向洲台場と函館弁天台場品川第三台場とはほぼ同じくらいの大きさだったというのは興味深い。]
[2005/02/21]下草が冬枯れで土塁の形がとても見やすかった。
所在地大洗町磯浜町8179-1他
参考書