岩瀬城

概説 詳細は不明です。しかし、ここは笠間氏と益子氏の境目にあたる地域で、南東の谷中城橋本城は笠間氏の出城、北西の富谷城は益子氏の出城であった。その中間に位置する岩瀬城はそのどちらかの勢力下にあったことは確かだろう。
県立岩瀬高校の西側の標柱
その他の写真
訪問記[2003/05/05]岩瀬高校の西側の標柱から上を見上げるともう一本「岩瀬城跡」の標柱が見えたので、なんだすぐそこが城址なんだと思い、目の前の数メートルの土手を這い上がってみた。と、そこは土塁の上で確かに城内ではあるのだがあまりに民家の中、犬に吠えられすぐさま退散。南側の道路沿い西へ入って行くと、さきほどの郭には「せいかん荘クリニック 」という医院があるようだ。その西側に現在は道路として使われている堀切があり完全に台地を分断している。堀切から西側の郭へ登ると辺縁には土塁が廻らされている。南側の縁沿いに西へ向かうが所々大きな崩落部分がある。この郭の南側縁は60mほどだっただろうか。その西側にはまた堀切があり、堀切の西側は土塁と土塁から土橋で繋がる郭(現在は墓地)になっている。岩瀬高校側に郭があった可能性もあるが現在残っているのは三連の連郭式城郭である。
所在地西茨城郡岩瀬町岩瀬。県立岩瀬高校の西側にある、東西に細長い連郭式城郭。
参考書『茨城県遺跡地図平成2年度版』では大神宮の場所(県西総合病院東側にあるが遺構などは未確認)になっているが標柱は県立岩瀬高校の西側向かいに立っている。