福山館

概説福山館と松前城(福山城)の歴史:永正11(1514)年第二世武田光廣が花沢館(上ノ国町)から現在の松前大館(徳山館)に移り、五世慶廣(松前氏初代藩主)が現在の福山台地に居館を移し、慶長11(1606)年この福山館が完成。以来、松前氏は広大な蝦夷地を支配することになる。松前藩は幕府の蝦夷地政策のために、文化4(1807)年から文政4(1821)年の間は奥州梁川に移封となり、館は松前奉行所として使われるが、文政4年に復領し、再び蝦夷地の警備にあたった。安政元(1854)年、天守閣および海防のための7砲台を備えた三の丸を増設して松前福山城(現在の松前城)が落成。明治元(1868)年、松前城は旧幕府脱走軍により占拠されたが、翌年官軍の手により奪回された。
旧福山城本丸表御殿玄関:北海道指定有形文化財。慶長11(1606)年に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年、城中から火を出し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた[説明板より]。現在は倉庫として使われている。
福山館と松前城の位置関係:その答えは松前郷土資料館にある。館内に展示されている「文化年間福山館平面図」と「安政元年福山城見分図」。この2枚の図を頭の中で重ね合わせることで、時期の異なる福山館と松前城の共通部分と改築部分が推測できることを松前町役場のM田さんに教えていただいた。現時点ではまだ十分な検証がされていないため確定的な事を言える段階ではないという但し書きつきではあるが、おおよそ以下のように考えられるようだ。
(1)西側ラインは館時代から城時代を通じてほぼ同じ
(2)館時代の南側ラインは城時代の二の丸の南側ラインとほぼ同じ
(3)東側ラインは区画の変更が南東部にわずかにあるもののほぼ同じ
(4)北側ラインは館時代には現在の寺町の南端部に少し掛かっていたかもしれない
(5)三の丸は松前城改築時に増設
(6)北東部の御厩と御長屋のある区画は松前城改築時に増設
(7)御殿は北側へ移動した(曳き屋か?)
実際の図については松前郷土資料館へ行って確認していただきたいと思います。
旧福山城本丸表御殿玄関(現在は倉庫)
その他の写真
訪問記[2005/08/28]本日の松前訪問の目的は、ここ数年来の疑問であった「福山館と松前城の位置関係」を調べることだった。これという確実な当ては無しに松前を訪れたのだが、日頃の行いが良かったのか、いくつかの偶然が重なり信じがたい幸運に恵まれその答えを得ることができた。松前城は現在整備作業の最中で、発掘調査をやりながらの復元工事が行われている。今後の調査の中でも福山館についての発見があると期待される。
所在地北海道渡島支庁松前町松城
参考書