大館

概説 大館は蝦夷管領安東氏の居城で、中世蝦夷地の中心をなしていたが、その創築は不明。南部氏との抗争に敗北した津軽安東氏は嘉吉3(1443)年に蝦夷地の松前に渡ったというから、この前後に大館は築城されたとみられる。その後、長禄のコシャマインの攻撃で落城したが、コシャマインの敗北により大館も回復して下国氏が守備していた。明応(1492-1501)頃下国恒季は、秋田安東氏に滅ぼされ、代わって相原季胤、村上政儀が守将となったが、永正10(1513)年、アイヌの攻撃を受け落城、守将は自刃した。翌年蠣崎光広父子が大館に入城しているので、光広の謀略による落城であったといわれる。慶長11(1606)年に港に近く交易に有利な福山の地に松前城を築城し移るまで、大館は中心の城として栄えた。
大館と小館(正面奥)を隔てる堀切
    その他の写真
  1. 小館は一面雑草の海
  2. 大手口(台地中央の谷からの入り口)の右下には井戸跡
  3. 今も井戸跡には水が溜っている
  4. 大館は畑になっている。周囲は草茫茫。
訪問記[2001/06/25]過去東側館下の徳山大神宮までは行ったことがあったがいつも雑草に覆われていて登り口は分からなかった。今回は縄張図を持参で北側の大館と南側の小館を隔てる堀切へ登る道を簡単に見つけることができた。しかし、館の内部は雑草がものすごく、十分に観察することができなかった。さらに残念なことに北海道内最大の規模といわれる大館北側の堀切・空堀へは到達できなかった。
[2002/06/24]ちょうど1年ぶりに訪ねたが雑草の繁茂状態はまったく同じだったため新たな探索はできなかった。ただ、大手口下にある井戸跡の水が今年はほとんどなく、周囲の石組みだけが目印だった。大館の主郭部は広大で、縄張図を見ると勝山館の第一平坦面(主郭部)の2倍の面積はあるのだが、ものすごい雑草地のため見ることができるのは畑の所だけだ。その北側には道内最大規模といわれる堀切もあるそうだがとてもとても辿り着けそうにない。
所在地北海道渡島支庁松前町神明、福山。徳山大神宮西側の台地の上。
参考書『図説中世城郭事典第一巻』、『北海道の館』、『道南十二館の現状』