藤沢城

概説 藤沢城は南北朝時代から戦国時代の終わりまで小田城の支城であった。永禄8(1565)年、小田氏治は上杉謙信と小田天王常で戦って敗れ、藤沢城に敗退したが、のち居城を回復した。しかし、同14年には再度藤沢城へ移っている。その後、天正2(1574)年、常陸片野城にいた太田三楽斎資正によって小田城は攻められ、氏治はまた藤沢城に移ってきたが、その後、再び小田城を奪い返した。しかし、同18年に豊臣秀吉によって小田城は攻められ、氏治はやむなく土浦に落ち、のち手子生城に入り結城に走ったため藤沢城も廃城となった。[日本城郭体系4より]
畑となった堀跡の向こうに本郭の台が見える
その他の写真
  1. 本郭への虎口
  2. 所々崩されてはいるが中城にはみごとな土塁が残っている
  3. 中城の台地南側の堀
  4. 精泉寺北側の土塁と空堀
  5. 八坂神社西側の畑地は自然の堀跡だろう
訪問記[2001/12/02]13時30分から小田城の現地説明会を聞いた後、阿見町の大竹先生方といっしょに立ち寄った。前回(2000/3/27)に来たときにはまったく場所を見つけられなかった。本郭内は畑となっている。本郭南西側の崖下には帯郭と思われる平坦地が取り巻いている。手元に縄張図がないので詳しくは分からないが、『日本城郭体系4』の航空写真を見るとかなり広いようだ。
[2003/04/07]城域北東側、精泉寺北側には立派な土塁と空堀が残る。土塁と空堀はそこから西へ伸び、(途中は分からないが)遍照寺の手前は残っている。おそらく遍照寺も土塁内であったと思われるが墓地の造成で湮滅したと思われる。八坂神社西側の低地は自然の堀跡だったと思われる。対岸の桜がきれいだった。
[2003/04/27]今日は城域南東側「中城」の台地を見てきた。国道125号線藤沢十字路から南へ400mほど行った辺りから左斜めへの細い道を上がると正面に怪しげな土塁がある。ここでバラ農園を営まれている「バラの御大尽」と言われる方に声を掛けて土塁周辺を見させてもらう。中城の土塁は『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』では単純に一本に描かれているが、実際は中央に横矢の張り出しが認められ、南側台地端下には堀があることも確認した。この南側台地下への続く堀(堀底道)は現在は写真の様にゴミ捨て場状態だが、作業をされている地元の方にお聞きしたところ「今は獣道ですが昔は筑波線常陸藤沢駅へ降りて行く道として使っていた」とのことです。どこへ行っても似たようなものではありますが、地元の方々はこういう周辺部の遺構は城址として認識していないようです。多くの人が認める中心部はなんとか残せても周辺部の保存がおざなりになってしまうのは心配なことです。
所在地新治郡新治村藤沢。主郭は神宮寺の南東側だが、城域は広大で八坂神社、遍照寺、精泉寺などを含む。
参考書『日本城郭体系4』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』