小田城

概説 宝篋山の南麓から小田の集落にかけての地域にある大規模な遺構。本丸は広さおよそ3ヘクタール、南東角に涼台、東北角に鐘楼台が設けられていた。
 頼朝の信任厚く、常陸国の守護にも任ぜられた八田知家(子孫が小田氏を称す)が築城して以来、15代目小田氏治が豊臣秀吉に通じた佐竹氏によって城を追われるまでの約370年間、ここは常陸国南部の中心的な存在であり、戦乱の打ち続く中世にあって、忘れてはならない一舞台であった。
 1338(延元3,暦応元)年9月、南朝勢力挽回をはかるため伊勢から東北へ向かった北畠親房は、途中常陸国信太郡東条浦に漂着、上陸して神宮寺城・阿波崎城へ拠った。佐竹氏に攻められた親房は、小田治久らに迎えられて小田へ入った。親房が抗戦のかたわらこの地で『神皇正統記』や『職原抄』を著したことは有名。[『茨城県の歴史散歩』、『茨城の歴史は語る』より]
旧筑波鉄道線路跡脇から本郭の涼台を望む
小田城周辺図(クリックで拡大)
現地説明会写真
  1. 南虎口跡に積まれている化粧石。つぶて石ではないかとの意見も出ていました(2000/12/03)
  2. かわらけがごっそりまとまって出土(2001/12/03)
  3. 大きな柱の下に敷いて沈下を防いだと思われる礎盤石と戦国時代の柱跡(左)(2003/12/07)
その他の写真
  1. 旧常陸小田駅プラットホーム裏側の空堀
  2. 志田郭南東端の櫓台土塁
訪問記[2000/12/03]小田城の現地見学会へ行って来ました。しばらくの間は現地調査が続くので説明板が掲示されていたり調査員がいたりの状況らしいです。ふらっと行ってもそれなりに楽しめそうです。
 地元のおじさん達が仰山集まっていて、そんな人たちから地元の話を聞くのもめったにないよい機会でした。たき火にあたりながらの世間話のなかから聞き出したおもしろい話をいくつか書いておきます。
(1)見学会の中でも小田城跡からはかわらけが大量に見つかるという話しがありました。その後さらに地元の方との話のなかで、この近辺には「かわらけ」と呼ばれる地名があったという話を聞きました。そこは瓦屋が多かったとのこと。かわらけ村というのは伝承では小田の時代からかわらけを焼いてきた所とのこと。今は栄という所に合併されたそうです
(2)城山(じょうやま)の伝説。小田方に滅ぼされてしまい城はないそうです。伝承によると、灌漑のために掘った水路を小田方へ対する叛意と誤解されて攻め滅ぼされたとのこと。それ以来、しろやまとは呼べず「じょうやま」と呼んでいるそうです。その水路跡の一部は今でも残っているらしいです。これって、つまり北条の多気義幹と小田の八田知家の抗争のことですね。水路というのは「裏堀」のことでしょう。「城山城」のページ参照。
[2001/12/02]現地説明会。今年の調査成果のポイントは主に本丸西側のエリアについて(1)郭の改修(2)戦国期の地層のかなり大規模な火災の痕跡(3)土塁の改修などの確認、といったところでしょうか。
[2002/12/01]今年も現地説明会へ行きたかったのだが、うつされた風邪がしつこい上に冷たい雨が降る日だったので、残念ではありますが参加を断念。参加した知人の話では、遺構を削って涼台の下にサイクリングロードが造られていたそうです。
[2003/12/07]恒例の現地説明会。今年は主に筑波線廃線跡地の調査報告。鉄道敷設の際に削られた法面でのローム層地山から戦国時代までの土層断面の確認。方形の主郭部の対角線上に全長に渡って巨大なトレンチが入っているといった状態は普通にはない貴重なケースというべきか。室町時代以前には、以前の発掘で確認された南東部の庭園遺構よりももっと広い範囲に石敷きがあって儀式などを行う庭だったと推定される。南北朝期の小田城は現在見られる櫓台などの張り出しのない方形館址だったようで、その後2度の大きな改変で現在見られる戦国期の姿になったということだ。櫓台の下に室町期の堀跡が発見されたことから、南北朝期以降堀を埋めて土塁・櫓台を外へ拡げ、さらにその外へ堀を拡幅していった様子が見られるとのこと。その他、遺物としては、建物跡の遺構として主郭中央部には直径40cmほどの石が複数見つかっていて、重量のある建物の柱が沈下しないように下に敷いた礎盤石らしい。またその近くには戦国時代の建物の柱跡と思われる木杭の残りが見られるのだが、小田は地下水位が高いので地中にあれば木材も残る可能性はあるそうだ。さらに、小田城で2個目の鉄砲玉も採集されている。戦国末期まで使われた城でないので鉄砲玉は少ないということだ。
 また、昨年度涼台の下を削り堀を埋めて造られてしまったリンリンロードについて、つくば市としてはもっと城址の外を通したいのだが、茨城県は地元の要望で造ったものだからという理由で廃線跡へ移すように言っているらしい。せっかく歩行者が散策を楽しめる城址公園のど真ん中をサイクリングロードが貫通する必要は無いと思うのだが。そもそも地元の要望とは言っても当時は城址公園計画は無かったのではないだろうか?
[2004/03/08]筑波山麓のつくば梅林でもらった『ミュージアムウォーキング・ポケットガイド〜筑波山麓編〜』の「小田城の堀跡(長久寺)」の項に「長久寺の東側には、小田城の堀跡といわれる水路があります」とあったので帰りに寄ってきた。長久寺東側の堀は雨のほとんど降っていない冬場の今でも水をたっぷりと湛えている。堀はそこから北それから東へと向かい、旧常陸小田駅プラットホーム西側まで泥田堀あるいは空堀となって続いていた。そのあと越後ノ丸さんが言っていた、本郭の南東側「志田郭」の南東端の隅櫓台のような土塁も見てきた。調査の入っている本郭だけでなく、小田の集落に埋没しつつある周辺遺構もじっくりと確認しておきたいと思った。
[2006/11/13]天気がよいので筑波山からのパノラマを楽しむつもりで出かけたが、駐車場が混んでいるため予定変更して小田城へ。発掘調査が行われている脇を通り一巡り。学芸員のHさんに今年の現説(12月03日)での目玉を一足先に教えてもらう。なお、小田城の発掘調査も今年を入れて残り3年だそうで、その後5年間で公園整備を行い平成26年に城址公園として完成するらしい。その後、三村山極楽寺跡を散策。忍性の供養塔と言われる五輪塔などを見てきた。
所在地つくば市小田
参考書『日本城郭体系4』、『茨城県の歴史散歩』、『茨城の歴史は語る』、『牛久市史 原紙古代中世』