日本海で泳ぐ

三朝には以来20年間住んだけれど、夏は欠かさず日本海で泳いだ。自家用車がなかったのでバスを乗り継いで橋津海水浴場や石脇海水浴場に行った。かなり遠かったので車に弱い加奈子には大変だったと思う。8月になるとクラゲが出るから泳ぐのは7月の暑い日にかぎられた。

大学病院と研究所の夏の慰労会で連れて来て貰ったのが始まりだった。その慰労会での事、加奈子は浮輪を抱えて波打ち際をぼちゃぼちゃしていたが淳はこわがって海に入ろうともしなかった。健は父親に助けられて海に飛び込んで遊んでいた。

“もうおしまいにしよう。”と言って主人が浜に上がりかけた時、健はまた一人で飛び込んでしまったのだ。沖に引く波がさーっと健を引きずり込みながら遠ざかるのが見えた。慌てて戻った主人の目にゆっくり静かに沈んでいく健の姿が見えたそうだ。

“あーっ”と叫ぶのと主人が健を取り上げたのは同時だったか?とにかく浜辺にもってきて海水をはかせ、ごほごほせき込みながら泣きじゃくる健の背中を叩いて一件落着となった。回りには医者も沢山いたので適切な指示が得られて良かった。

不思議なのはこの後湿疹がほとんど影を潜めてしまった事である。

色々なイベント、ハプニング

大学病院と研究所では季節毎に色々なイベントを企画して楽しんでいた。秋は運動会、冬は大山へ繰り出してスキーだ。

或とき杉山先生の提案で、麻田兄弟が中国大陸で覚えてきたギョーザを味わうパーティーが開かれた。所謂水ギョーザでとても美味しかった。けれど明りを狙って舞い込んだ虫も沢山いて妙に印象深く記憶に残った。

三朝初期の生活は来客も多くめまぐるしく過ぎて行った。主人はマクマスターで学んだ事を基本に設計をして、NECに頼んで質量分析計を作るのに成功した。この機械はまだ捨てられもせず残されているようだ。当時はこの連絡の為に出張も多くて大変だった。上井駅で財布をすられた時は汽車に乗ってから気が付いて、京都駅でいくらかのお金を借りて清水の実家まで行き、父親にお金を出してもらったと聞いている。父親は、

“おらー家にいてすりにあった。”と会う人毎に触れ込んでいたそうだ。

新しいテレビを買う

1964年は東京オリンピックが開催される年で、電気屋は一斉にテレビの売り込みに奔走した。

わが家もボーナスを当て込んで一台買ったのだが、山あいで電波が弱い上に、何かの電波障害があることに気付き調べてもらったら、隣の温泉病院から妨害電波が入っている事が分かった。所が、研究所側の住人にカラーテレビの売り込みをしていた人が、

“こんなに写りが悪い所では買ってもしかたない。”と言われて、調べたら今度は主人の使っていた機械が電波障害の張本人になっていると分かって謝りに行かせられたとか、とんだ薮蛇だった。

ケネディー大統領が狙撃されたニュースはこの新しいテレビを観始めて間もない頃のことだった。

私達がニューヘブンに滞在中ニクソンに勝って大騒ぎだったことを思うとあまりにもあっけなくショッキングな幕切れだった。

その後暫くの間写りの悪い画像で我慢させられたが、ほどなく共聴アンテナが取り付けられてこの山あいでもまともにテレビ鑑賞ができるようになった。

 

1964年淳も保育園に入れて貰った。北山真君と同学年で、当然同じさくら組に入れるものと思っていたのに、一年下のチューリップ組に入れられて淳は大泣きをした。早生まれだったので先生が間違えたのだ。勿論後でさくら組に戻されにこにこ顔になった。加奈子は始め行きたがらなくて困ったが、淳は大喜びで保育園に馴染んでいった。担当の先生は木谷先生でよく面倒をみてくれた。保育園にはお昼寝の時間があって、この間はみんな目をつむって寝なければならない。“淳君はしっかりと目を閉じて身動きもしないで終りまで寝たふりをしているんですよ。”と教えてくれた。今、その時の毛布カバーにしていた布が主人の枕カバーになって、当時を思い出すよすがとなっている。

この頃加奈子が麻疹にかかり熱を出して大騒ぎになった。淳、健に移されたらえらいことになるので医者に相談したら、ガンマーグロブリンを注射してくれて、移っても軽い症状ですむようにしてくれた。

思ったとおり二人とも発しんを生じたが熱も出ずごく軽く感染しただけですんだ。私自身麻疹の時は体がだるくてままならなかったのを思い出し、軽く済んで良かったと思った。

子供が保育園に通いだすと次々と病原菌を貰ってきて親は精神も体力も著しく消耗する。そんな時に、時間どおりに食事が出来ていないと主人はすごく腹をたてるし、タバコや酒の買い置きがないとまた腹をたてるので、私も一緒に腹立たしくなって、口をきかずに戸をピシャッと閉めたり、皿洗いを乱暴にしたりするのは頻繁だった。子供達の情操教育には著しく悪い影響を与えたに違いない。或朝、私は風邪気味で体がいうことを聞かなかったので起きられなかった。“おい、早く起きろ。煙草がないから買って来い。”と言う。私はそんなに使われてたまるかと思って動かなかった。そうしたらいきなり引きずり出してピシャッとひっぱたかれた。むかっとして思わず傍らにあった木の玩具を振りあげ、次の相手の出ようによって投げつけようと思っていた時、泣きながら私にしがみついたのは健だった。

“おい、お前ダディーとマメーが別れたらどっちに付いて行く?”と淳が加奈子に言っているのが聞こえた。(加奈子はマミー、淳はマメーと言っていた)

こんな最悪の状態の時に、日本育英会から奨学金の返還要求書が母の住所経由で送られて来た。当時は基礎教育に受け取った年数の二倍の年数携わっていれば返還せずに済んだので、私の場合二年間は勤めたので残り三年間分を返せば良かった。カナダへ行く前に連絡しておけばよかったのに、それを怠った為利息も含めて大変な額を請求された。弱り目にたたり目とはこんな事をいうのだろう。

“借金付きの女と結婚した覚えはない。”と主人は言うし、

“そんなお金は無いからそちらでなんとかしなさい。”と母に言われて私は進退極まった。子ずれで再就職はこんな田舎ではとても不可能だった。

そこで思いついたのが懸賞募集の文章を書くことだった。主婦の友社が題材は何でも良いと言うことで募集していたので、‘アメリカ大陸横断の記録’をまとめてだしたが、見事にボツになってがっくりした。夜中までかかって書いたのに情けないかぎりだった。私はどうしてこんなにお金で苦労しなければならないのかと思った。新聞の求人欄を見ても私に都合の良い職は見当たらなかった。松井夫人が“NHKがモニターを募集しているから応募してみたら?”と教えてくれたので早速問い合わせて応募してみた。たしか小論文を書いて送れば良かった。そしてこれは合格して、どのくらいの期間だったか忘れたが地方版のモニターをして若干のお金を得た。残り大部分は結局主人に出して貰うしかなかったが、女の立場の不合理さを実感した。私も少なくとも二年間は働いて給料を貰っていたのだし、身を粉にして家事や子育てをしてきたのだからと開き直り、合理化した。付け加えて書いておくが、私はカナダ以来ずっと主人の床屋をしている。金銭になおせば相当の額になるだろうと思う。

淳ちゃん行状記

この地区では田植えの前に皆で協力して水の通り道である側溝周辺の草刈りをする行事が義務付けられていた。‘そうごと’と言っていた。

山田の奥から三朝川に至る全ての住民が出て同時に協力しあう風景は見事なものだった。わが家の側溝に面する長さはとても長くて草刈りだけでも骨が折れたのに、溝さらいまでしていたら日が暮れそうだった。幸い事務の人達が助けてくれてよかったが。この行事は側溝が暗きょになって、傍らの道が舗装されるまで続いた。しかし草刈りは毎年延々と続いたし、それも刈ると一月もせずに新しい草に覆われるといった具合で夏の間中まるでいたちごっこをしている様だった。

もう一つの行事は子供会だが、みんなで温泉研究所内にあったプールの掃除をしたり、どこかに集まって遊んだり、“マッチ一本火事の元、火の用心。”チャキ、チャキと振れて回ったりしていた。

ある日、淳は一番後ろについて回っていたそうだが、病院前でバス道路を横断した時、危うく交通事故に遭いそうになった。

“遅れて道を走って渡ろうとして危なかったのよ。相手が急ブレーキをかけて止まってくれたからよかったのだけれど。”と北山夫人が教えてくれた。

多分この子供会で温泉会館の温水プールに行った時の事、淳は浮輪を忘れて帰った。丁度私の母が来ていたので付いて行って貰い、“帰りにはタクシーに乗って帰ってこい。”と主人に言われて出かけた。

バスは役場の前で止まり、その斜め前に日交タクシーの詰所があった。丁度バスが来たので乗ろうとすると、淳は

“ダディーはなあ、一度言い出したらきかないだぜ。

タクシーに乗って来いって言っただらー。”と言い張ったそうだ。そして大型でなければだめだと頑張った。そうこうしているうちにバスが三台も行ってしまったとか。母は笑い転げて何度もこの話しを語った。

倉吉へ子供3人連れて買い物に行った時のことだが、タイヨーと言うスーパーマーケットで買い物をすませて店の中を移道中、加奈子に

“淳の手を掴んでいてね。離しちゃあダメよ。”と言い聞かせ、私は健と加奈子の手を引いて歩いていた。ふと気が付くと淳の姿がなかった。辺りにもその気配さえなく、慌てて店員に事の次第を告げて迷子の放送をしてもらったが、しばらく何の音沙汰もなく不安はつのるばかりだった。

そこへ泣きわめく淳を見知らぬ人が連れてきてくれて、

“バス通りで泣いていて危ないけ、ように聞いてみたらここさいたっていうけな。ほんに合えてよかった。”というのだ。私に良く似た人についてバス通りまで行ってしまったようだ。

淳は空を飛ぶ物体に大変興味をもっていて、東京にいた半年ばかりの間、横田基地から飛んでくる

ヘリコプターを見つけると、“ヘリタプコ、ヘリタプコ。”と喜んだものだった。これを知った主人はポプラ社が発行した‘航空機’という写真図鑑を淳に買い与えた。その頃淳が描いたヘリコプターの絵が本の余白に残っている。3才の誕生日にはこの本を持ち歩く為の鞄を買った。そして5才の夏休みには羽田まで飛行機を見せに行ったのである。

淳の興味を更に深めたのは、手塚治虫の‘鉄腕アトム’の出現だった。

この当時大人も子供も日本中の人達全部にとって、10万馬力の鉄腕アトムはヒーローだったと思う。淳はアトムの絵を描くのが上手だった。

また、NHKの‘サンダーバード’というドラマも淳の興味を倍増しただろう。それはともかく、

“扇風機で遊んじゃ危ないでしょう。ダメ!”
と言って、二度止めたのに、私の目が届かない八帖間に持って行って、扇風機をプロペラにして椅子を並べて飛行機ごっこをしていて淳が遂に右手中指の先を飛ばしてしまった事件は何とも言えないいやな思いでとして記憶に残っている。

“あの時はおれがパイロットになる順番だったのに淳がおれを押し退けてあっという間に指を切ってしまったんだ。”とつい最近になって健が教えてくれた。

時はすでに一年生の夏休みになっていた。夏休みの絵日記は思うように書けず、水泳はできず、多いに反省させられる暑い夏だった。

入院の憂き目に遭う

1967年冬、思えば丁度厄年に当たる年だった。私は遂に風邪をこじらして急性腎炎に陥り、即日入院、絶対安静を宣言された。名古屋大学の中井さんが、化学同人へ主人の研究室を紹介する文章の収録に来ておられた最中の事で、私は心身共に疲労困ぱいした。

当座の家事を助けてくれたのは新婚ほやほやの本間夫人だった。

“おばちゃん、お手伝いさん?”と健が聞いたそうだ。

この時の事を思うと、本間夫人の方には足を向けて寝られない気持ちでいっぱいになる。

暫くして八重おばさんがお手伝いに来てくれた。当初一ヵ月位安静にして食事療法をすれば快方に向かうと思われていたのに一向に良くならないので再検査し直し、妊娠腎であることが判明した。堕胎手術を受け、夏まで入院を余儀なくさせられた。

見舞いに来てくれた松井さんに、

“腎臓は一度ダメージを受けるとその部分は直らないから大事にして更に悪くしないように気を付けた方がいいですよ。しかし、10年、20年という長い病気だからあまり焦らないで養生して下さい。”と言われたのは良く覚えている。上原の祖母が若い頃同じように腎炎を患い、血尿まで出したのに84才まで生きたのをふっと思い出して、私も頑張らなければと思った。

しかし、食事療法と同時にステロイドホルモンなど投与されていて、視神経に悪影響をもたらす心配があったので、早く家に帰りたいとも思っていた。

入院生活は本当に退屈なものである。主人は毎日ちょっとだけ顔をだして“どうだ?”と聞いてくれたが子供はあまり来なかった。窓から眺められる範囲に姿を見かけて安心したものだ。

何時の間にか4月になって、健は保育園に入り、淳は2年生になっていた。

健は3月生まれだったので一年保育で良いだろうということにしていたが、なかなか行きたがらず、毎朝主人が保育園まで連れて行ったそうだ。あるとき机から鋏を落としたと言って足のアキレスけんを切って帰ってきた。その時は私の所に来て見せたので早速“八重おばさんに外科へ連れて行ってもらいなさい”と言って帰した。次の出来事は淳の友達に突き飛ばされて耳をリヤカーの先端にぶっつけて切ってしまったことだった。当たり所が悪ければ危なかったのではなかったかと心配した。

ただ消毒してガーゼを当てただけだったので外科で縫って貰いなさいといって帰した。

八重おばさんは高血圧でこの頃腰痛をおこして大変になったので、母が手伝いにやって来た。私は自宅療養をすることに決めて、敢えて退院させてもらった。あまり家をあけておくのは良くないと思ったからだ。

自宅まで歩くのは久しぶりの事で、とても大変だった。長い間安静にしていた為、筋肉が萎えてすっかり痩せ細ってしまったからだ。

帰って直ぐにはとても働くには無理があった。それでもすこしづつ動く様にして、掃除機を座ったままかけたり、野菜の皮むきを手伝ったりした。体を動かすというのはたいしたもので一向に進展のなかった病気が少しずつ改善されてきた。夏の季節も幸いしたと思っている。もっとも完治したわけではなく、時々貧血で意識を失うこともあった。

母の言うことに従って、今まで拒否しつずけていた塩分や蛋白質を少しずつとる様にして何とかまともに働けるようになったのである。

退院に当たって森永先生は、“風邪を引かないように気を付けて下さい。風邪を引くと腎臓を悪くしますからね。”といわれた。

寒い秋が訪れた頃、今度は主人が気管支肺炎をおこして寝込んでしまった。ながい間の看病疲れが出たのだろうと思った。しかしたった一つ良かったのは、煙草が吸えなくなって、禁煙にこぎつけたことだ。

暫くは口が寂しいと言ってかんろ飴を絶やさなかったけれど、そのうち飴をガムにかえて完全に煙草を断ち切った。

最後に健が保育園で作ったのれんの写真を載せてこの章を終わりにしよう。恐らく健が描いた絵に先生が少し手を入れてのれんに仕立てたものだと思う。

 

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