ジャカランダの風に吹かれて

翌日は車の修理の為に遠出は出来ず子供は近所の子達とボール遊びなどして過ごした。アメリカの子達はとてもフレンドリーですぐに仲良くなった。

すぐ近くに大きな公園があって、皆で行ってみようということになった。道々目に付く花々は色鮮やかに多彩でまたたくましくやはりここは南国かと思うばかりだった。ストレチア、ブーゲンビリヤ、ハイビスカス、アガパンサス、アンスリウム、ツンベルギアそれにオレンジ色も鮮やかなノウゼンカズラ等が競い合うように咲いているのが見られた。

公園はとてつもなく広くプールもあった。ここで私達は始めてフリスビーと言う面白い円盤があるのを知った。子供達はこれを「皿投げ」といって、早速マーケットで手に入れて遊んだ。

ソテールとナショナル通りの角にマーケットが三つ並んでいて、食品を扱っていたヒューズ・マーケット、衣類一般のグランツ、その他の雑貨品を売っているスリフティーで、以後殆どここで買い物をすることになった。ナショナル通りから住宅街に入っていくと至る所に街路樹が植えられていて、中でも私が感激したのは栴檀によく似ている薄紫色の花ジャカランダだった。葉も花も風を呼んでゆるやかにそよぎ大木ながら十分に美しかった。

ブラジル原産だそうだがハワイに移民として渡った日本人はハワイ桜と言って、またブラジルに渡った日本人は桐もどきと呼んで日本を懐かしんだということである。(http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/Jacaranda.html)。

今ひとつ目立った並木はマグノリアだ。日本の泰山木だと思うが、大きな存在感のある白い花は立派と言うしかない。ついでにどこにあったか定かでないが、マッチ棒のような椰子の木の並木は印象的だった。

健のアメリカ日記によると、10日間程は殆ど家で勉強とテレビ、公園のプール、スーパーマーケットで買い物などして過ごしたとある。私はおそらく食事、洗濯、掃除などの合間に運転免許証をとる為の勉強をしていたと思う。カリフォルニアでは先ずペーパーテストを受けて、合格したら路上テストを受けることになっていた。10問の問いに3つずつの答えが書いてあり、正しい答えにOをつけるだけの簡単なテストだった。大学の人達が集めたテスト見本が数枚あって私の所に回ってきたので、全部暗記して見事満点でペーパーテストはパスした。夕方主人が帰って来ると人通りの少ない道を選んで運転の練習をした。

8月3日、「今日はお父さんの誕生日なのでロサンゼルスの動物園に行きました。

日本で一番大きな動物園より大きくてほんの一部分見ただけでしたが色々な動物が見れました。」

8月7日、「今日はマリーンランドに行きました。海岸のすぐ側で眺めの良い所でした。

イルカの芸もあったしシャチの芸もありました。イルカは火のついた輪を飛びくぐったり、餌をくれないと芸をしない所が面白かったです。シャチは背中に人を乗せて走ったのが面白かったです。」

8月8日、「今日はサンタモニカの海水浴場を見物してから飛行場の中の道を走って、プールに行って泳ぎました。」と健の日記は続いている。海岸まで行って泳がなかったのは、アラスカ海流が流れ込んで水がとても冷たいからだろうか、一人も泳いでいなかったからである。

8月12日、「今日夕方から山へ流れ星や木星など色々の星を見に行きました。ハイウェーをすごくたくさん通りました。」この日はしし座流星群が見えると共に火星も地球に大接近するということで研究室の人達は誘い合ってロサンゼルスの北東80数マイルにある標高約2800メートルのパイノ山山頂に押しかけた。加奈子の説明によれば「日本で見るよりずっとたくさんの星が見えました。そのたくさんの星の中を時々スィーとすごい速さで星が流れて、とてもきれいでした。それから、天体望遠鏡で木星と火星を見ました。火星の斜め左下に氷に覆われて白く光っているところがあるのがよく見えました。ほかの所は黄色でした。木星には細い縞があり、又木星のまわりに左に2つ、右に2つの衛星が見えました。」と書いている。淳は「しし座流星群を肉眼で見ました。なこは三回しか見ませんでしたが、僕はきょろきょろしていたので流れ星をたくさん見ました。」と記している。

数人の人が自慢の望遠鏡を持ち寄って色々説明つきで見せてくれたのはありがたかった。

8月15日、「今日は昼から大学の家族プールに行きました。」

このプールはUCLAのキャンパスにあるリクレーションセンターのプールをさしている。鬱蒼と茂る大きな羊歯(tree fern)の群生地を通って行ったのを記憶している。プールも色々あり子供用から50メートルの競技用まであり、かくプールには監視人がつめていた。スナックや飲み物を売っている所もあって、私達はよく遊びに行ったものである。飛び込み台もあり、山陰の岩場で飛び込みには慣れていた子供たちは先を争うように飛び込んでいた。このリクレーションセンターに入るには特別の許可証が必要で、主人は大学の事務から幾らかお金を払って出して貰ったそうだ。

8月21日、「今日はつりに行くので夜中の4時に起きました。5時にボブがペッパーと言う可愛いい犬を連れて迎えに来ました。ペッパーの右目は、半分が青くて半分が茶色です。ペッパーの親は片方が青くて片方が茶色だそうです。釣り場所はマリーンランドの側でした。」ボブ・スウィーニーは主人と同じ居室の大学院生で、ロサンゼルス在住中何かとお世話になった

この日は彼の家に近い釣り場に案内してくれたのである。レドンド・ビーチの海岸は急な崖の下に連なる岩場で、そこに下りる道はつづれ折の急な泥道だった。それぞれに足場の良い所を選んで、餌のチーズやグリンピースをつけて釣り始めた。

最初にボブ、ついで淳、次に主人、次が加奈子、そして又ボブ、淳、健はやっとその次に釣り上げた。最後に主人がまあ大きいのを釣ったが雑魚ばかりだったので皆放してやった。

そして一週間後、スリフティーでリールの着いた釣竿を3本買った。「とても嬉しかった」と健は書いている。海釣りをする前にライセンスを買う必要もあって、一寸遠いショッピングセンターに行った記憶ある。その翌日またペッパーと釣りに行った。子供達は新しい釣竿で嬉々として釣りを始めたが、あいにくとても波が高い日で錘と餌をとられてばかりでなかなか釣れなかった。せっかく遠くに糸を飛ばしても波が押し返して、錘諸共岩にひっかかってしまうのだ。「そういう時は無理に引き上げないでほっておくと魚が餌をくわえて沖に持っていってくれる。」とボブが教えてくれたそうだ。もうあきらめた頃やっと大きなセニョリータ(ベラのような魚)を二匹主人が釣った。健は大奮闘で上から下までずぶぬれでがんばったが釣れなかった。健の日記によると「最後にマリーンランドの塔に登りました。眺めがきれいだったです。」ということだ。

わたくしの喜びーヤング夫人

この釣り騒動に明け暮れていた頃に、いつも洗濯をしていたロンドリーで一枚のメッセージが貼り付けてあるのを見つけた。

それには『求む、日本語native speaker。週一回、1時間5$。電話されたし』とあり、電話番号が書いてあった。主人と相談してどんな事をするのか問い合わせて見たら(交渉は主人がした)、早速会いに来てくれて子供共々自宅に招待された。

この日の日記に健はこう書いている。「今日昼ごはんが終わってからヤングと言うお金持ちの家に行きました。そこにはプールがあったので泳がしてもらいました。」健はここでピアノも弾いて見せた。その後一年間ほど私はミセス・ヤングの日本語レッスンのお相手を引き受けることになった。彼女は小暮美千代と親交のある親日家で、日本語もよく話し、エール大学が出版している日本語教科書を持って来て、すらすらと読むのを私は聞いていておかしなアクセントとか妙な響きがあれば直してあげればよかった。彼女の口癖は「Its my pleasure.私の喜び」で、何かと言うとこの言葉が出てくるので子供たちはヤング夫人が来ると「わたくしの喜びが来たよ。」と言うのであった。

9月4日、「今日はキャンプ場に行きました。途中、サンタバーバラの海岸でお昼ご飯を食べました。キャンプ場ではペッパーが尻尾を振って待っていました。そこには丸い池があって、そこでチーズを餌にして釣りをしました。僕は一匹大きい虹鱒を釣りました。焼いて食べたら美味しかったです。」この日もボブの誘いにのってサンタバーバラまで遠征してきた。海岸の砂浜は広くて波打ち際には大型の海藻がたくさんうちあげられていた。この辺りに生息しているブラウン・ペリカンの死骸もあった。

健は「波に乗って泳いだ。」「海水は冷たかった。」と書いている。

キャンプの経験は皆無だった私達はテント、寝袋、ご馳走にいたるまでボブに頼ってしまい申し訳なかったが楽しい体験をさせてもらった。ボブはダルリーンと言うガールフレンドと一緒で彼女の二人娘も一緒だった。皆でわいわい言いながらバービキューに興じた。インスタント食品のメキシカン・ライスがエキゾチックな味で大変気に入った。

翌日、私達はサンタバーバラの見学に行った。サンタバーバラ自然博物館では昆虫のコレクションを展示していると言うので行ってみた。「その中で一番僕が見たかったヘラクレスかぶと虫が見られたので嬉しかったです。

二番目に見たかったハチドリがみられたのも嬉しかった。スカンクも見ました。それからミッションを見てまたキャンプ場にかえりました。」

途中サンタバーバラの街の中で横に大きく枝を広げてこんもりと立つ大木を見つけた。何の木か遠目には判断できなかったが、

この文章を書くに当たってかって訪れたサンタバーバラ自然博物館のHenry Chaneyさんにイーメイルで問い合わせた所、125年前の7月4日に植えられた3本のMoreton Bay Fig Tree(無花果の木)の中で一番大きな木である事がわかった。

ある少女がオーストラリアから来た若い船員さんに三本の苗木を貰い、1876年7月4日に植えたのが始まりで、翌年引っ越す際に友達にこの木を渡して、その友達が今の場所に植え替えたと言う歴史まで知られている。1876年はアメリカ独立から100年目であった。

9月6日、「キャンプから帰るとき、遠回りして山や湖の景色を見ながら帰りました。すごく長い時間でした。僕は寝たふりをしてだまそうとしていたら、本当にねむっちゃいました。それで家に着いて起こされました。」

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