ハチドリが飛ぶ家で

キャンプから帰った翌日私達はグランビル・アベニュウ2444番地に引っ越した。

ソテールの宿舎は夏休みの間だけの約束だったから、かねてから新聞の広告を頼りに部屋を探していたが、子供がいるので敬遠されてたり、また日本人と言うのも疎まれてなかなか良い所を見つける事が出来なかった。そんな時ボブ・スウィーニーが、「レイニー教授がサバティカルで一年間アイルランドに行って家を留守にするから借りたらどうか。」と言ってくれた。

立派な一軒家で表側にも裏側にも広い芝生が広がり、アプリコット、桃、ボトルブラッシュなどの木が植えられていた。

女の子二人と男の子一人の家族だったので我が家と同じ様な家族構成でちょうど良かった。バックヤードには卓球台とバスケットボールの練習場もあって、申し分ない家だった。家賃は一ヶ月210ドルぐらいだったと思うが定かではない。

ここはサンディエゴ・フリーウェイとサンタモニカ・フリーウェイの交差点近くなので細かな砂埃が多くて、騒音もかなり気になる所だったが、その為に窓はすべて二重になっていた。

引越し前に一度尋ねたとき、ブーツと言う黒猫は隣のカスター夫人に預けると言っていたが、子供達もいれば楽しいかと思って我が家で預かると申し入れていた。

それで早々に猫の世話が私に課せられた。ブーツは足先だけが白くて尻尾はまっすぐに伸びていて毛並みも上等の堂々たる猫だった。いつもはどうしていたか知らないが、夜、外に出しておくと、早朝バックドアーの網戸に飛びついて「んぎゃー、んぎゃー」と泣叫ぶので大変だった。ドアーを開けてやると尻尾をピンと立てて部屋のコーナーに行ってじぶんの縄張りを確認し、体液をビビット掛けて回るのである。そして缶詰のご馳走をぺろりと食べると、ベッドルームに行って寝るのだ。なんていやな奴と思ったが引き受けたからには仕方ない。

家の道路から向かって左隣には子供4人のマンゼーラ一家が住んでいた。上の男の子マイクとデオは淳と健の年頃と同じで、引っ越すとすぐ仲良くなって毎日のように遊ぶようになった。

スヌーピーというラッシーそっくりの大きな犬がいたが意外に小心で、マンゼーラ夫人に「スヌーピー!」と怒鳴られると尻尾を股の間に丸めて我が家との塀の隅に逃げ込むのだった。健の日記には「僕がなでてやったら抱きついてきました。可愛いい犬です。」と書いてあった。

右隣はカスター一家で中学生のマイクと高校生のお姉さんそしてお母さんの3人暮らしだった。お父さんは亡くなったらしい。皆二人のマイクをビッグ・マイクとリトゥル・マイクで区別していた。子供たちはビッグ・マイクからラグビーの遊び方を教えてもらい、近くの腕白どもも加わって薄暗くなるまで興じたものである。

新しい家に移って10日程経った頃、裏庭のボトルブラッシュの赤い花にハチドリが来て蜜を吸っているのを見つけた。ハチドリは花の前で静止しているように目にもとまらぬ速さで羽ばたき蜜を吸っては次に移動して又吸う行為を繰り返していた。ボトルブラッシュは3本あったので以来何度も目にするようになった。

この日、だいぶ伸びた芝を刈った。電動式でなく手押しの芝刈り機だったので主人はふうふう言いながら刈っていた。裏庭だけでなく前庭も広く芝に覆われていたから大変だ。

一軒おいて右隣にピーナッツと言う名前の子犬がいたが、家の前庭に来て糞をしていくので往生した。とにかく一軒を構えていくのは並大抵ではない。

ハリウッドまで出かけてピアノを借りる契約をしたのもこの頃だ。一ヶ月13ドルで帰国まで借りることにした。日本でレッスンを受けさせていたので忘れないようにと思ったのだ。「今日学校から帰ってみたらピアノが来ていたので久しぶりに弾きました。やっぱりちっと腕が落ちていました。淳も喜んで弾きました。加奈子の腕だけは同じでした。」

子供達の学校生活

夏休みも終わり近くなった頃、子供たちを学校に連れて行ってテストを受けさせ、どの学年に編入するか決めてもらった。結果、加奈子はウエプスター・ジュニアー・ハイスクールの一年生、淳と健はリッチランド・アベニュー・スクールの6年と4年に入ることになった。

 加奈子が祖父母に送った手紙によると、「私達の学校はとても広く、建物は30棟ぐらい、校庭も日本の3倍ほどあります。キャフテリア(食堂)には、ポプコーン・ハウスやキャンディー・ブーツもあります。学校へ行くと、先ず1時間目の授業、次にホーム・ルーム、その次にニュートゥリッションがあります。ニュートゥリッションは遠くから来る人が腹ごしらえをする時間ですが、私達もジュースを飲んだり、クッキーを食べたり出来ます。午前中の時間は、英語のセカンド・ランゲージに行って英語を勉強します。午後は料理と体育とタイプライターの練習です。料理が一番訳がわかりません。タイプライターは一番好きでこの時間が楽しみです。」

ロサンゼルスにはメキシコから移住してきたスペイン語系の子供やレバノン、エジプト、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、韓国、日本等色々な人種の子供達がいて、すべての英語以外を母国語とする子達を対象として先ず英語を学ばせるクラスを設けていた。ミセス・ニューカムというベテラン教師が教鞭をとってくれて、スペリングから文法まで事細かに教え込まれた。

これは加奈子にとって大変有意義な教育だったと思う。

淳と健はどうかというと淳は「この前学校が始まりました。僕は意味がさっぱり分らなくて座っているだけです。分るのは算数だけです。お昼ごはんは日本と違って弁当を持って行ってもいいし、お金で買ってもいいです。それに外で食べます。」わが家ではリンゴ一個とサンドイッチのランチバッグと飲みもの代を持たせた。淳はおやつとしてブラウニーを買うのが好きなようだった。

健は「今日学校に行きました。なんにもせずに座っていたので面白くなかったです。」次の日も「今日も昨日と同じで退屈でした。」と書いている。

この二人は、まったく分らない中に放り込まれたわけで、健の報告によれば、「訳がわからんけ、隣の子のまねをして書いておったらカピゲロていわれた。」というのだ。

学校で先ず覚えてきた言葉はスラグや罵倒に類するもの、例えば「ゲラウルオブヒアー(Get out of here.)」、「シャラップ(Shut up! )」、「ファックル(Fuck you!)」、とか「クエレ(Quit it.)」だった。

淳を受け持ってくれたのはミセス・マガダン、健はミセス・フランツェンだった。二人とも算数だけは問題なかったが、やはり英語力がないのですべてチンプンカンプンで困ったに違いない。そのうち淳にはボランティアの夫人がついてくれて、特別授業を受けられるようになった。健はそのままだったが年齢が低い事が幸いしてどんどんと授業についていけるようになった。ヒアリングしてスペルを書くスペリングに至っては現地の子より正確に書いてミセス・フランツェンが驚いていたほどだ。

しかし何故か叱られてヘッドダウンをさせられることも多かった。

ある時、学校から電話があり転んで頭を打ったから迎えに来るようにと言われた。困った私は隣のマンゼーラ夫人に助けて貰い健を家に連れ帰った。

 アメリカの学校ではホーム・ルームの時に先ず国歌が流れて、生徒達は立ったまま右手を胸に「I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one nation, under God, indivisible with liberty and justice for all.」と唱和するのが義務化されていた。

はじめ何を言っているのか分らなかったが、カプラン夫人に教えてもらったと加奈子は言っていた。独特の抑揚をつけて、flag でいったん切り、United States of Americaを強調する言い方が面白くて私も真似して唱えていた。

ディズニーランドへ行く

念願のディズニーランド、「地球上で一番幸せな場所」を訪れたのは10年振り二度目だったが、何度目でもここは楽しい。

鳥取の小さな町、三朝から突然やってきた子供達にはまさにおとぎの国に飛び降りたような気持ちだったに違いない。

「こんなに面白い所があるとは知らなかった。」と加奈子が言った。

UCLAで割引券をもらってサンタ・モニカ・フリーウェーとサンタ・アナ・フリーウェーを1時間ぐらい走るとこの夢のパークに到達する。15000台収容の大駐車場が先ず私達の肝をつぶした。ビッグ10のチケットを買って、メイン・ストリートに入るとそこは現実とはおよそ掛け離れたユートピアの入り口だ。

「一番初めに白雪姫のお話の中に入りました。魔法使いが毒のりんごを持って,『イッヒッヒッヒッ。』と笑っていたり、骸骨が出てきたりしました。

次はダンボに乗りました。ギヤーを上に上げるとダンボがあがって、下に下げるとダンボは下がりました。面白かった。次はロープウェーに乗りました。いろんなところがあるのが分りました。次は潜水艦に乗って模型の魚、人魚、宝物、船の残骸、竜など一杯見ました。次に昼ごはんを食べました。ハンバーガーとジュースでした。次にジェットコースターに乗りました。曲がりくねりながらすごいスピードで走ったので今にも飛び出しそうでした。最後に水の中に飛び込んで、出て終わりでした。

次は不思議の国のアリスのお話でした。面白かった。次はストーリーブック・ガーデンと言う所でした。小さな家がいっぱい並んでいました。

次は同じ歌を色々な国の言葉で歌うのでした。次はお化け屋敷でした。墓の後ろからお化けが『びよよん』と出てきたり透明人間が出てきたりしました。次はカリブ海の海賊というのでした。いろんな海賊がでてきました。メコン川のジャングルを通り抜ける船に乗りました。ぞうや、かばや、わにや、土人が出てきたりしました。次にチキルームに入りました。鳥と土人とトウテンポールと花の歌が聞けました。チキの次にご飯を食べました。

スパゲッティーとサラダでした。それから自動車に乗りました。次はロンドン塔のお化け屋敷でした。面白かったです。帰りがけにディズニーランドの地図を買いました。」

健の日記を見ると随分楽しんでいるようだが、サンタフェ・ディズニーランド鉄道にも、マーク・トウェイン号にも乗っていないことに気が付く。

1961年には無かったイッツ・ア・スモール・ワールドは1964年にニューヨーク世界博覧会のためにディズニー社が制作したもので、覚えやすいメロディーに各国の歌詞をつけて各国の象徴的な人形に歌わせているのだが、とても可愛いく出来ていて、観客は「世界で一番幸せな船旅」をしている様に思ってしまうのである。ちなみに日本語の歌詞は「世界中誰だって、微笑めば仲良しさ、皆輪になり手を繋ごう、小さな世界。世界中どこだって、笑いあり涙あり、みんなそれぞれ助け合う、小さな世界。世界は狭い、世界は同じ、世界は丸い、ただひとつ。」

というようなものだった。

カリブ海の海賊はやはり船に乗って移動するのだが、不気味な「Dead men tell no tales.」の言葉を聞きながら骸骨の下の入り口を奈落の底に落ちていくとあっという間に海賊の世界がそこに広がっている。

あとで知ったのだが、これらの海賊にはモデルがあって、一人はイギリスの悪名高い『黒ひげ』、もう一人はフランス人ラフィートで、今も彼らが隠した宝がメキシコ湾岸のどこかに埋もれていると信じられているというのだ。19世紀まで存在した海賊にまつわる恐怖とミステリアスな宝物への憧れをたった15分の船旅で見せてくれるのだからさすがはディズニーと感嘆せざるを得ない。

ホーンティド・マンションは小さな子供には暗くて薄気味悪く、怖い所に見えるらしく、孫たちを連れては入れないけれど、日本の幽霊に見られる怨念に満ちた表情は無いので、むしろ楽しく用意された『破滅への車(doom buggy)』に乗っていられる。途中からひそかに乗り込む幽霊(shade)は「この館に残りなよ。あと一人で1000人になるんだ。」と誘っている。

館をでるとそこには色々な墓石が無造作に置かれていて、一つ一つ面白い墓標がついている。例えば先の「黒ひげ」と14人の奥さんの墓とか、これに類したメッセージは公園内のあちこちにあって、気に掛けて読んでいくとディズニーの真髄がよく分ってきて面白い。

東京ディズニーランドの制作にかかわった能登路雅子氏の著書「ディズニーランドという聖地」にはこの種の逸話が色々出てくる。ジャングル・クルーズの船着場あたりに、ジュース・スタンドがあるが、店の看板に「Sunkist ,I presume ?」と書かれてあるそうだ。タンガニーカ湖畔でリビングストンの捜索に向かったスタンレーが彼を見つけた時に発した「Dr. Livingston ,I presume ?」をもじってあるらしいが、なんとも慇懃な英国気質を暗に表現していて面白い。 

また、メイン・ストリートUSAには郷愁を呼ぶ古き良き時代の建物が並んでいるけれど,これはディズニーが4歳の時移り住んだミズーリ州マーセリーンの町並みを再現してあるらしい。

この内の一つの窓にウォルト・ディズニーの父親イライアス・ディズニーの名前が金文字で書かれているというのも興味あることだ。

私達はこの中のカーネーションと言うアイスクリーム・パーラーとレストランの店で食事をした。

その後二回私達はアナハイムのディズニーランドを尋ねたが、三度目には「もう飽きた。」と子供達は言っていた。

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