「ツアーの皆様、初めまして・イン・バンコク」 |
私が、今回参加したツアーのメンバーは、遠くは北海道から九州までの人達が集まりました。
しかも、夫婦組が4組もあり、総勢17名でした。
成田空港、関西空港、福岡空港から、それぞれ搭乗して一路バンコクへ。
バンコクの空港内待合室に、別便で到着した人達が待ちかまえていました。
「こんにちは。」「こんにちは。」と、みんなと挨拶を交わして初めて、全員が揃いました。
その夜は、トランジットでバンコクのホテルに泊まりました。
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「興味津々、トリブヴァン国際空港で真理ちゃんと出会う」 |
ツアー会社の案内にツアーリーダーは、ネパール現地にて参加。と、ありました。
1泊して、親しくなったメンバーたちは、「ツアー・リーダーの真理さんは、どんな人かな」が、関心の的となりました。
空港を出ると、真っ黒に日焼けした小柄な女性が待ちかまえて、早速私たちの名前を確認したり、
てきぱきと行動する姿に、これからのトレッキングを任せ、頼りにできそうなので、みんなは安心したようでした。
トレッキングが始まってからも、力強いリーダー振りを発揮したのは勿論です。
彼女は田部井淳子さんと、ネパールのチョー・オユー(8201m)にも登ったこともあり、
ヨーロッパ・アルプスの山を50座も踏破したとか、なかなかの強者なのです。
厳しいことも何度か言われたり、女性ならではの、きめ細かな諸注意などがあり全員無事に目的地に到着できました。
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「カトマンズからルクラへ飛んで」 |
私たちは、トレッキングが始まる前日中に荷物整理をして置きます。
ひとつは自分が持って運ぶ物(防寒着、ハンカチ、ちり紙、飴などのお菓子)をディバックに詰める。
ふたつめは、トレッキングに不必要な物をホテルに残しておく、例えば大きな荷物ケース。
そして、みっつめは、トレッキングに必要だがポーターに運んでもらう物を区分して置かなければなりません。
11月6日午前5時半にモーニング・コールで起床。(勿論早めに起きて準備)
5時45分に各自、廊下へふたつの荷物を出して置き5時55分にホテルのロビーへ全員集合しました。
空港へは7時前に着いて朝食はお弁当。
なんと飛行機が飛んだのは10時55分でした。
それでも、飛べば儲け物。気象条件や諸々の条件が整わないと飛ばないのです。
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「いよいよ、トレッキング開始・ルクラから」 |
ルクラからシェルパ、コック、ポーターたちが加わります。
リーダーを紹介されました。そのリーダーをサーダーと呼びます。
今回は、サーダーがふたりいました。トレッキングの間は、彼らの指示に従います。
順次、シェルパ数名、コック長が2名キッチンボーイ、ポーターなど、人数は確かではないけれど15〜20名と、大名行列かと思われるほどの大人数となりました。
先頭は、若いサーダー。彼のリードに従って、私たちは、一路エベレストを目指して歩き始めます。
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「ディ・バックの中身」 |
カトマンズで区分した荷物のひとつ、ディ・バックは、20リットルから30リットルのものです。
私の場合、着用したダウン・ジャケット(脱いでザックにいれる)、手袋、帽子、中には、雨具、
スパッツ、水筒、ウエットティッシュ、トイレットペーパー、ナプキン、マスク、ハンカチ、サングラス、
常備薬サニーナ、のど飴、筆記用具、トレッキング心得、地図などです。
長時間、背負って歩いていると結構重くなります。
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「ポーター(ヤク&ゾッキョ)が運ぶダッフルバック」 |
トレッキング中は必要でないもの、着替(肌着、Tシャツ、オーバーパンツ)、シュラフ、
懐中電燈、常備薬、洗面用具セット、スニーカー、傘、湯たんぽ用アルミ製水筒など。
かなりの大きさで、重く12キロはあると思います。
これをポーターやゾッキョあるいはヤクに運んでもらう。お陰で私たちは、楽に歩けるのです。
ロッジに着くと先ずは、中から取りだして使いやすいようにセッティングしておきます。
電気がつかないことが多いロッジですから、暗くならない内がベスト。
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「ロッジ or テント」 |
今回のエベレスト街道に関しては、ロッジが軒並みにあってびっくり。
前回のアンナプルナ方面では考えられないほどです。
「宿泊は、ロッジかテントです。」と書かれていたので拍子抜けしました。
しかし、ロッジが快適なのは言うまでもありません。
17名の大所帯で、部屋を確保するのも大変だったと思います。
真理ちゃんの努力で私たちは、快適なトレッキングを続けることができました。
もうひとつ加えるならば、部屋割りも彼女の仕事でした。
ロッジには、いろんな場所があり、例えば、日当たりがよいところ、ロケーションのよいところ、
トイレに近いところ(足音が気になる場所)、離れすぎたところ、北側で寒いところ、
1階、2階、数え切れないほどの様々な条件がありました。
これらを、公平にするには、一苦労もふた苦労もあったことでしょう。
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「ああいえば、こういう」 |
私たち参加者の殆どが中高年と呼ばれる世代でした。
夫婦組4組とその他9名で、女性が私を含めて6名。
当然、単身で参加した、もうひとりの女性と相部屋になりました。
年齢層は50歳から75歳までの幅がありました。いろいろありました。
長い人生を、がむしゃらに生き抜いてきた人たちですから。
更に、歳を重ねる毎に意固地になる、自己主張も強くなる、まるで、社会の縮図を見ているようでした。
まあ、兎に角、そういう人たちの集団を束ねるのは大変なことでしょう。
しかし、参加者全員が彼女に敵わないことがあります。
それは、登山家としてはプロですから、みんな一目おいていました。
たとえ、みんなが行けるところだからとい言っても、やはり高山ですから。
命に関わる危険も皆無ではありません。
事実、タンボチェについてから、何度か山岳救助隊の飛行機が飛んでいるのを目撃しました。
こんな状況の中、やはり、安全が第一。
彼女が強いリーダーシップを発揮したのはいうまでもありません。
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「会長、社長、課長、先生、田部井さん、メンバーはこう呼んで」 |
「Nさん、うちの社長にそっくりなので驚きましたよ。」と、真理ちゃん。
その日の内に、ハンサムで若々しいNさんは、「社長」と呼ばれるようになりました。
それは、初めての宿泊地パクディンのロッジでのことでした。
ちなみに、ロッジの名前は「KALAPATAR」でした。
その後から、一番の年長者を「会長」、いつも楽しく会話を弾ませてくれるTさんを「課長」、
田部井さんによく似たOさんを「田部井さん」、元先生を「先生」と、
事あるごとに、みんなはこう呼んで楽しんでいました。
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「一日は、こうして始まる」 |
トレッキングが始まり、最初の宿泊地に午後2時頃到着しました。
到着と同時に、ツアーリーダーの真理ちゃんから日程について報告があり、
その日は、部屋割りと午後のおやつの時間が午後4時半と告げられました。
ゾッキョに運んでもらった荷物が、各部屋に配られていたので、おやつの時間までに、その荷物をほどき、洗面用具、懐中電灯、衣服を夜モード(防寒)に着替えました。
最も大切なのは、ベッド・メーキングです。
シュラフ(ダウンと薄いフリース)を袋からひき出してベッドにセッティングしておきます。
勿論、懐中電灯は必須のものです。
午後4時半に集合すると、キッチンボーイが好み聞いてお茶を運んでくれたので、
飲みながら、一日の出来事など、雑談を交わしてくつろぎました。
次ぎに、翌朝から始まるお知らせと諸々の注意がありました。
*高所になるので新陳代謝をよくする離尿剤を飲むことを勧める。
*トレッキング中はあまり、おしゃべりをしないこと。
*うがいをすること。
*写真をとることもできるだけ避けること。(写すとき息を止めるのでよくない)
*高山病の症状がでたら、早めにリーダーへ知らせること。
翌朝から始められる事柄についての説明。
*モーニング・コールの時お茶とビスケットが配られる。
*洗面器にいっぱいのお湯が配られる。(洗面用)
*健康調査表を配るので記入すること。
それから、夕食の時間が確か6時半と告げられて解散。
夕食の記録がないので書けないけれど、リーダーの真理ちゃんが気を遣って日本茶、ふりかけ、海苔、みそ汁、醤油などが、食卓に用意されていました。
コック長が日本食をよく研究しているので、私たちの口に合うように調理されていたと思います。
トレッキング2日目の11月7日は次のような日程でした。
午前7時起床。8時朝食。9時出発。
当日、歩く距離や高度差によって出発の時間が決められていきました。
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「気分晴れ晴れ、ピクニック」 |
トレッキング中のお昼は、殆どがロッジのテーブルで食べました。
一回だけ、タンボチェからクムジュンへの下りで、ロッジの隣の広場で昼食をとることになりました。
工事現場でよく見かける、青いビニール・シートを広げてみんなが靴を脱いで座ります。
目の前は、雪を抱いた美しい山塊、ひんやりとした空気、空はこれ以上の青は、ないというほどの群青色。
それは、贅沢なほど素晴らしい自然の風景でした。
あの時は、最初にラーメンがでましたね。我が家では、殆どラーメンは食べません。
なのに、ここで食べたラーメンの味は、これほどの、おいしいものはないのでは。と、思えるほどです。
なぜなのでしょう?。私だけではありません、全員が喜々として食べていましたから。
多分、かって、日本人が即席ラーメンを競って食べていた頃の名残ではないかと考えられます。
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「ふたりコック長とキッチン・ボーイ」 |
朝昼晩と食事は、ふたりのコック長とキッチン・ボーイたちで作ってくれました。
私たちが、その場所に到着するまでに準備万端整えて間に合わせてくれます。
ネパールの郷土料理もありました。
「チャパティ」は、フスマ入りの小麦粉で焼いたもの、それからモモ(ギョウザ)、
ジャガイモを揚げたフライド・ポテト、ジャガイモは調理法を替えてテーブルによく並びました。
トゥクパ(汁ソバ)、チョウメン(ヤキソバ)、辛い煎餅など、油を使った料理が多かったです。
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「フル・コース」 |
食事をするときのテーブルは次のように整えられています。
テーブルには、可愛い柄のテーブル・クロスが掛けられ、薄いステンレス製ミート皿、小丼、マグカップ、フォーク、ナイフがセッティングされ、
それから紅茶、ジャム、バター、蜂蜜、ネパールの薬味、日本製の醤油、お茶、みそ汁、ふりかけ、佃煮昆布などがところ狭しと並べられています。
私たちトレッカーは、一人前に食器がセットしてあるところへ座っていきます。
ほどなく、キッチンボーイたちは、大きな竹製のざるに、可愛い柄の布を張って作ったお盆に、料理を載せて一品ずつ配ってくれるのです。
頃合いをみて、「オカワリハ?」と、ひとり、ひとりに声を掛けながら彼らは配ってくれます。
「もっと、ちょうだい」、「ノー・サンキュウ」「ありがとう」など、自分の腹具合と相談しながら、各々の皿に次々盛られていく料理を食べました。
おいしくて、みんな満足していました。
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「腹六部目」 |
ツアー・リーダーのG・真理ちゃんから「腹いっぱい食べないで下さい。
腹六分目ですよ」と、何度も念を押されました。彼女がいうには訳がありました。
「高山に行くほどに人は、平地では考えられない行動をとるのです。
とめても、とめても大食いをして体調を崩たり、怒りっぽくなったりするんですよ。」など。
平常心をなくするものだと力説。
みんなは、「そんなの信じられない」と、いう風情で聞いていました。
真理ちゃんの心配が効を奏して、元気で最終目的地へ全員が到達することができました。
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「洗濯ばさみに人差し指」 |
朝食が始まる前に、「人差し指を出して下さい」と、真理ちゃんに促されて洗濯ばさみのような小さな計量器に指を挟んでもらいます。
これは、血中酸素量数値検査器というもので、高度での行動が可能かどうかの判断の材料となるなのだそうです。
数値が高いほどよいのです。これは、タンボチェに登るまで続けられました。
私は、途中から数値が低くなり、真理ちゃんは首をかしげていました。
「しっかり、大きく息をして〜ぇ。はい、そうです。口を横開きに開いて、はっ!。」
と、指導を受けながら深呼吸をすると数値が上がってくるのでそれが記入されます。
そんな日もありました。
その動作をしても上がらなくなってしまったのは、タンボチェでのことでした。
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「毎朝、健康調査表を出しましょう」 |
指洗濯ばさみのあと、前日の健康の記録を調査表の項目に沿って、3段階評価を自分で書き込み、更に気になること、飲んだ薬も記入しておきます。
ツアーリーダーは、それらを回収して血中酸素量数値や本人の顔色、動作なども考慮に入れて判断材料にするらしいです。
できるだけ、本人の希望を入れてトレッキングの行動を認めていくわけですが、「危険な場合には、こちらで行動をセーブします。」と、彼女に言い渡されました。
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「トイレ・アラカルト・イン・ネパール」 |
まず、帰国して尋ねられるのは、「トイレはどうしたの?」でした。
*「トレッキング中では」
女性は山に入ると、第一にトイレの問題が気がかりです。これは、国内も同様ですが。
そこで、今回、エベレスト・街道トレッキング中のトイレ事情について報告します。
一日に5〜6時間も歩くのですから、当然トイレに行きたくなります。
エベレスト街道は、街道筋に沢山のロッジが目白押しなので、休憩はロッジでします。
その際、女性は「トイレ」、「トイレ」と、トイレのありかを尋ねるのです。
そう、休憩の度に。大体、それで間に合っていたように思います。
そのトイレが様々でした。
昔ながらの板囲いであったり、むしろで囲ってあったりと、殆どが生活するところから離れたところにあるのが普通でした。
中が広いところ、狭いところなど。
足場は、板を2枚ほど渡してある簡単なものから頑丈に打ち付けてあるもの。
鍵もまたいろいろで、小さな木片に釘を打ち込んで回転させるも、片方の金具に差し込むもの果ては、大きなタルキを細工して両側の受けに上側から差し込むものなどなどです。
また、用を済ませた後トイレの中に積んである枯れ葉をかぶせておくところもありました。
その中で傑作だったのは、トイレの壁に額縁ほどの大きさに切り取った空間がありました。
そこから、外をのぞくと美しい風景が眺められるという算段なのです。
とても、粋な計らいではありませんか。
もうひとつは、滔々と流れている渓流に架かった釣り橋を渡って直ぐのロッジで、休憩したときでした。
ロッジの中を通り抜け、少し離れた場所に小さな板囲いのトイレがありました。
先にすませたツアー仲間が、「とても清潔な水洗トイレよ」と、教えてくれました。
「はて、なんで?」と、思ったのですが直ぐに謎が解けました。
その、谷をあふれるように流れている水を引き込み、トイレに流していたのです。
世界、広といえども水洗トイレでこれほど清潔で贅沢なところはないでしょう。
*「ロッジでは」
2泊目のモンジュでのロッジでは、街道に面しているところが1階部分になります。
そこには、食堂とか売店そしてキッチンがあります。
階段を下りると物置のような場所があって、その一角にトイレがありました。
水洗でしたけれど便座が汚れ、とても座れないほどでした。
ウエット・ティッシュで拭いて腰を下ろすことにしました。
内側からの鍵も頑丈な作りで、その開け閉めにも一苦労でした。
ところが、困ったことに宿泊する場所が分散していたのです。
夜中トイレに起きましたがその建物は完全に戸締まりがしてあり、入ることができませんでした。
仕方なく別棟の建物の裏側に回り畑の中ですませました。
寒いくて、ひっそりと静まり返った場所にひとりいるのは、ちょっと心細い気もしましたが、辺りを見渡すとその静寂さがなかなかいいものでした。
帰り道では、再び同じロッジに泊まりましたので、ツアー・リーダーとサーダーに確認しておいたのですが再び追い出しを食いました。
「開けておいたのに、誰かが戸を閉めてしまったんだ」と、サーダーの弁。
トイレは寝泊まりする同じ棟内にあるもの、屋外にあるもの、手洗いがあるところないところ、電気が点いているところ、点いていないところとありました。
タンボチェでは共同トイレは、寝泊まりするところからかなり離れた場所にありました。
初日には、トイレット・テントが遠くて行かれないので少し近い共同トイレに行きました。
真っ暗の中、小さな懐中電灯一つを頼りに、木の根っこや段差があったりでこわごわ歩きました。
トイレたるや、三箇所とも二枚の板が渡されているだけ、しかも私たちの歩幅に合わないので一番端っこを使いました。
寒くて、すっかり冷え込んでしまった体、その上なんだか心細くもあったのですが、その贈り物として、素晴らしい夜空を彩る星屑の中に私を誘ってくれました。
後にも先にも、あんな綺麗な星空を見たことがありません。
ほんとうに感動しました。
*「水洗トイレ」
水洗トイレも操作がいろいろでした。
上から下がっているヒモを引っ張るもの、便器の後側の貯水槽の上側のヒモ、または、つまみを引き上げるもの、
トイレの中に引き込んだ水道の蛇口で貯めてあるバケツの水を杓で汲んで流すもの、
トイレット・ペーパーも便器に流すもの側のカゴに入れておくものなど様々でした。
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「ゾッキョが、来たよ〜ぉ」 |
ここで、ゾッキョとヤクの説明をしましょう。
ゾッキョは牛とヤクをかけ合わせた種です。牛より小型で山岳での荷物運びに活躍します。
彼らは、低地に適した構造をしているようです。一方、ヤクは3000m以上の高地で働き、毛もふさふさして寒さに強く、
しかも、高地を登ったり下ったりするのに適した足を持っているのだそうです。
そんな、ヤクやゾッキョですが、形は可愛く大きな角はあるものの、ある事件が起こるまではみんな平気でした。
ところが、広いとはいえ、往路と復路とで彼らがかち合い、その上私たちトレッカーもすれ違う羽目になったのです。
すれ違いざまに彼らは道を見失い、いきりたちました。そこで、暴走し始めたのです。
私たちは、彼らを避けて山側や谷側に身を寄せていたのですが、そこへ彼らが駆け上がってきました。
私たちの仲間の女性がはじき飛ばされ、高みから落ちてきてヤクの下敷きになったのです。
もう、みんな生きた気がしませんでした。
とっさのことで、ただ茫然と見ているものが多かったのですが、果敢にも助けにいった男性がありました。
ようやく、騒ぎが収まり難を逃れた彼女が無事だったので、みんなは安堵したのでした。
その騒動を起こしたのはヤクでした。
「やくざな、ヤク」だと。言っていましたがその内「ゾッキョが来たよ〜ぉ」と、遠くに見え始めるとみんな、先を競って安全な場所に避難するようになりました。
そう言えば、出発前、我が家の息子たちが忠告してくれていたのを思い出しました。
「奴らは結構、意地が悪いけん谷側に避難しとったら落とされるよ、山側へよけるようにしんさい」と。
私も、それから山側へ避難するようになりました。
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「ヤクの糞煎餅」 |
ナムチェでもありました。
タンボチェからクムジュンへ向かう街道筋のロッジにもありました。
ヤクの糞を拾ってワラと混ぜて平らにし、直径30pくらいの円形にして民家の近くの石垣にぺたっとくっつけたり、原っぱに広げて干し燃料にするのだそうです。
生活の知恵でしょうか。厳しい自然の中で生活して行くことは辛いことが多いでしょう。
森の樹を取り尽くしてしまい、山は裸になってしまったようです。
ネパールの山のあちこちで海外の国から援助を受けて植林をしていました。
それらは、かなり成長していましたが、まだまだだそうです。
貧しいが故に仕方がないこととは言え難しい問題です。
水も遠く離れた場所から汲んできては、家の瓶に貯めて使うところが殆どのようでした。
これは、私たちが50年前まで経験したことです。
安易に援助してもいいのか、どんな援助の仕方があるのかなど方法もいろいろあるでしょう。
今の、日本が物質的に豊かになって、果たして幸せだろうか?。
幸せとはなんだろうかを考えさせられる問題です。
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「西部劇、ならず者スタイル?・砂埃が舞うエベレスト街道」 |
エベレスト街道は、乾期に入って赤土の道は砂埃が舞い上がっていました。
人が歩く、ゾッキョが通る、その度に砂煙が立って辺り一面は、砂塵の中。
「マスクは必需品よ、絶対持っていきんさいね」と言われて、マスクを4つ持参しました。
一日当てると、真っ黄色になってしまうマスク。一日に1つは必要でした。
仕方がないのでハンカチやバンダナを三角に折り底辺の部分を鼻に当て頭の後で結ぶスタイル。
口を覆い、目だけ出しているスタイルは、西部劇のならず者にそっくりなので、みんなは人を脅す真似をしたりしてふざけあっていました。
この格好が結構快適なのです。
少々邪魔なのですが、自分の口から吐く息でマスクの中が、しっとりとしてくるのです。
喉が適当にうるおって厳しい山登りには楽でした。
私たちの仲間の何人かがこのスタイルをやっていました。
勿論、シェルパやポーターたちもです。
トレッキングが終わる頃には、ほとんどの人が喉を痛めていました。
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「私のネパール、トレッキング体験記」 |
「トレッキングさん」と、高校時代の友人は私をこう呼んでいます。
ところで、「トレッキングの意味を正しく説明しなさい」と、言われても私はあいまいな返事しかできないので調べてみました。
『トレッキングとは、もともとオランダ語であったTrek(旅をする)が、英語に取り入れられたのは19世紀の中頃。
冒険Adventureに近いのだがそれほどでもない、というような旅行に使われる、中略。
開国して間もないネパール政府が、外貨不足を解消するための観光客誘致策として、ヒマラヤの山歩きをトレッキングとして宣伝しはじめてからだ。中略。
ネパール政府は、登山とトレッキングとを厳密に区別した。
雪線を超える6000m以上のピークを征服することを登山、それ以下の山々を歩くことはトレッキング。中略。
トレッキングはいってみれば長期間にわたるハイキング。
山の人たちの生活道を歩くのだから、特殊な装備を必要とせず誰でもできるのだ。中略。』
『』は、「地球の歩き方」ネパール編より抜粋。
*「生活道」
なるほど、そう言えば、日本の山を登るのとは違うと言う感触です。
村の出入り口には、いろんな魔よけが道の両端から架かっています。
よく見かけるのは、マリーゴールドなどの植物をひもにくっつけたもの、五彩祈祷旗(タルチョ)などで飾ってあります。
生活の匂いのする村、耕された畑、作物、家族総出で取り入れに励んでいる人たちを見かけることもあります。
畑には牛の糞も小高く積んであったり、大根が屋根の上に広げて干してあったりと。
ネパーリーたちの生活道なので、石畳や石の階段も沢山あり、その道を日常生活に欠かせない物資や建築資材を運ぶ彼らとすれ違ったりしました。
彼らの背負っている荷物の大きさや重量をみて、私たちは、思わず「すごいね」と尊敬の念を抱きます。
時には、学校帰りの子どもたちにも出会えます。
そんな時「こんにちは」と、思わず声をかけると子どもたちは、可愛い笑顔で挨拶を返して通ります。
軒を連ねた家の前を通るときも独特の匂いを嗅ぐこともあります。
そんな、山あいにある村は、直ぐ通り過ぎてしまうほどの小さな集落が殆どです。
通る人に関心を寄せる人、全く興味を持たない人など。
そんな光景をこちらも観察しながら歩かせてもらいました。
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「山あり谷あり。つり橋はこわい」 |
トレッキングする道は、平坦なところばかりではありません。
それどころか、天まで届きそうなまでに耕された畑を眺めると、ネパールの先祖の人たちが汗水たらして開墾した様子がみて取れます。
当然、山や谷のひだに沿って登ったり下ったり、川も渡る。
流れに石がごろごろと置いてあるところ、がっしりした石造りの橋、ところどころ壊れて穴があいているつり橋もあります。
私は、つり橋が大の苦手です。あの、揺れに体が巧く乗らないのです。
ひとりで渡りたいところですが、長いつり橋を独占することもかなわず、それは、ぶざまな格好で渡りました。
ツアーリーダーの真理ちゃんに「そんなに橋の両端を持たずに歩きなさいよ」と、言われてしまいました。
結構、急登もありました。広い川原も歩きました。
一日5〜6時間という長丁場を何日も歩き通しました。
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「タンボチェでお留守番」 |
タンボチェに1泊した翌日、パンボチェ(3980m)までのトレッキングありました。
私は、出発前の鍛錬を怠けたことと、ルームメイトのひとことで、やや、不眠状態が続き、
目的地のタンボチェ(3870m)に到着してから体調が思わしくないので大事をとってお留守番をしました。
若いサーダーが残り、私と一緒に近場を散策してくれました。
なんと言っても3870mの高山です。
急いでは歩けません、ゆっくり、ゆっくり足を運びながら歩かないと息が苦しくなるのです。
パンボチェから帰ってきた仲間たちが「あそこまで行ってもエベレストは、だんだん見えなくなったよ、留守番が正解だった。」と口々に慰めてくれました。
高度障害も出たのでしょう。下痢したり、吐き気がして食事も2回抜きました。
真理ちゃんのアドバイスで、しっかり、水分を補給しながら乗り切り、割合に早く快復しました。
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「怪しき音は・ヤクのお散歩」 |
タンボチェのロッジに泊まったときです。
真夜中、私たちの寝ている部屋の外を「ドタドタ、ドタ、ドッ・ドッ・ドッ」と、足音が聞こえました。
なにやら、怪しい物音に耳をすませましたが、その正体は分かりませんでした。
朝起きて、「あの夜中に足音がしたでしょう。あれは、ヤクが通ったんだって」と、ルームメイトのIさんが教えてくれました。
彼らは、夜中にお散歩するのが好きのようです。
私たちの泊まったところは、部屋とは名のみで、屋根の勾配を利用してビニールトタンで囲っただけ隙間だらけで、ねずみくらいなら、上下どこからでも出入り自由。
しかも、囲ってある部屋の外側は、やっと人ひとり通れるくらいの狭さで建物の反対側は絶壁のような谷底になっていました。
夜中、トイレにたびたび起きて、その道をやっと通ったのですが、よくもまあ、ヤクに出会わなかったと胸をなで下ろしました。
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「レッサン、フィリリとチューリップの花」 |
私たちツアーの仲間たちは、毎日、山や谷に沿って何時間もトレッキングを続けました。
いつとはなく、トレッカーたちの間から「レッサン、フィリリとチューリップの花」の歌声が聞こえてきました。
おばちゃんたちは、ネパール語の歌詞を若いシェルパに繰り返し教えてもらいながら歌っていました。
悲しいかな、みんな中高年。
さっき教えてもらったのに、直ぐ忘れて、また教えてもらう。
こんなことを、何回も何回も。
おばちゃんたちは、シェルパに「チューリップの花」の歌を教えました。
ところが、あっという間に、メロディーも歌詞も覚えて歌えるようになりました。
「まあ、覚えが悪いおばちゃんたちだなあ。と、彼らは言っているよ。」と、ツアー仲間。
ツアー・リーダーの真理ちゃんから、トレッキング中は、「おしゃべりをしないこと」「写真は、あまり撮らないこと」など、いろいろと禁止事項を言われていたのですが、
苦しい道のりも歌を歌っていると気分が楽になるのです。
気が紛れるからなのでしょうか?。
ずっと昔から、日本にも諸外国にも労働歌が伝えられてきていますが、こんな背景があったのだなと思いました。
「レッサン、フィリリ」の繰り返しがあるメロディに、なぜか心休まる響きを感じたのは、私ひとりでなかったようです。
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「ビスターレとチト、チト」 |
「ビスターレ、ビスターレ」が、私たちを山に導いてくれるシェルパたちの合い言葉です。
前回、アンナプルナ内院に行ったときも同様、「ビスターレ、ビスターレ、ゆっくりね!、ゆっくりね!」と言って、焦る私を何度も励ましてくれた言葉です。
「ゆっくり」をネパール語で「ビスターレ」と言います。
非常に気に入った言葉です。
今の日本では、忘れ去られた言葉ではないでしょうか。
今回、どんな場面だったか忘れたのですが「チト、チト」と言う言葉を聞きました。
「急いで、急いで」の意味のようです。
「効率がよいこと」がよし、とされる今の日本にぴったりする言葉のような気まします。
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「ポカラで出会った若い日本人」 |
その日、私はポカラを歩いたり、バスに乗ったりしてぶらついていました。
「ダムサイドでおろしてね」と、バスの車掌に頼んでおきました。
「ここだよ」と、言われて急いで下りたところ方角がさっぱり分からず、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしながら、
私の泊まっているホテルを探したのですが見つかりません。
困り果て、辺りをみていると日本人の若者が通りかかりました。
「あのう、ここはダムサイドですよね?」。
「そうですよ」と、若者。
「私の泊まっているホテルが見つからないの」
「なんという名前のホテルですか」と、優しく聞いてくれました。
「ホテル・モナリザというんです」
「一緒に探しましょう、きっと分かりますよ!」と、若者は励ましとも聞こえるような言葉をかけて探してくれました。
「あっ、ここだ!」と、若者。
「まあ、ほんの目と鼻の先だった」と、私は驚くやら、うれしいやら、若者にお礼の言葉を言ってホテルに帰りました。
ほどなくして、近くのジャーマン・ベーカリーへおやつのパンを買いに行きました。
そこで、さきほどの若者と友人らしき男性と女性とが雑談していました。
「ここに、座ってもいいですか?」と尋ねると、
「どうぞ」と、私が座る分ほど席をあけてくれました。
「どうして、ここへ?」と若者たちの質問に、
「なにかをすると言うんじゃなくて、ゆっくりしようかなと思ってここへ来たのよ」と、
「いいですね〜ぇ、いいですね〜ぇ」と共感してくれました。
なるほど、小さな三つ編みでびっしりと覆われた頭髪(流行しています)。
ペイントされた入れ墨、ぼろぼろのTしゃつ、パンツ。
日本社会では、いわゆるドロップアウトしたような若者です。でも、優しいんです。
私のような中高年を仲間に入れてくれ違和感なく、おしゃべりをする。
日本では、考えられない光景です。
彼らの優しさは、どこからくるのでしょうか?。
暮らしは決して豊かではないけれど、自分の気持ちに沿って生きている。
そんな時間や空間の中で癒されているのだろうか?。
ふと、そんな風に思ってみました。
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「ナムチェバザールで、お婆さんの手にひかれ」 |
私が気がついたときには、ツアーの仲間は、さっさとバザール見物に出かけたあとでした。
私は急いであとを追いました。
実は、タンボチェからの帰途、毎週土曜日に開かれている、その地方では有名な「ナムチェ・バザールを見よう」と、予定を変更して2時間ほどそこを訪れたのでした。
なんといっても、見渡せば見通せるところにあるのですが、入り組んだ道なのです。
ちょうど、その時、手提げ袋を持ったお婆さんが通りかかりました。
「ネムチェ・バサールは?」と、尋ねると、「おいで、一緒に行こうや」と言うような身振りをして私の手を引っ張りました。
そこは、3440m高地。おまけに石段が敷かれた下り坂。
ちょっと歩くだけでも息苦しい場所なのです。
お婆さんは、私の手を引いてさっさと歩き出しました。
バザールにつくと、お婆さんは、そこにいる誰彼なく「この人を連れてきたのよ」とでも言うように話しかけていました。
すると、周りの人がみんな微笑んで私を迎えてくれたのです。
おまけに、ミカンまで買って私に持たせてくれました。
貧しい形をした彼女に買ってもらったミカン。
申し訳なくて、どんなにお礼を言っていいのか分からないほど感謝の気持ちでいっぱいになりました。
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「結婚35周年をケーキで祝う」 |
タンボチェから90m下ったシェルパ族の村クムジュン。
いつものように、ロッジの食堂で夕食が始まりました。
あいにく、電気が停電でカーバイトを焚いた明かりの中でパーティが始まりました。
メンバーの中に結婚35周年のご夫妻がいました。
暗がりの中、ローソクに灯がともされご本人たちのケーキカット。
参加者全員で「結婚35周年おめでとう」と、言って祝ってあげました。
コックさんたちが、鍋を使って作ったケーキです。
私たちは、その器用さに驚き感心しました。
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「ナマステ・タトパニ・ダンニャバード」 |
私たちが覚えたネパールの言葉は、
「ナマステ=挨拶」「タトパニ=湯」「ダンニャバード=ありがとう」でした。
特に、トレッキング中は湧かした湯が必需品。
キッチンボーイにどれだけ、みんなが使ったことでしょうか?。
すっかり、覚えてしまいました。
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「懐中電灯とローソク」 |
ロッジには、電気の設備のあるところと、ないところ。
あっても停電であったり、つけなかったりと様々でした。
それで、ローソクが点されているところもありました。
ゆらゆらと揺れる炎、暗がりに温かい光、ほっとくつろぎを感じました。
高地では、直ぐに乾電池が切れて慌てました。
光がない、生活の大変さを身にしみて感じたものでした。
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「踊らにゃ損損。お別れの宴会」 |
辛いトレッキングの日もありました。楽しい日もありました。
大自然の中、私たちはその美しさに圧倒され、その喜びを共感しあいました。
そして、人が住む村では、私たちが通り過ぎた過去の思いを重ね、懐かしい昔に引き戻されました。
そして、それが終わる日がやってきました。
トレッキング最終日ルクラでの宿で、同行のスタッフと私たちトレッカーとでお別れ会をしました。
薄暗い明かりの中で、シェルパ、ポーター、コック、キッチンボーイのみなさんが彼らの民族楽器である鼓のような太鼓を抱きかかえ、
リズムを刻みハーモニカでメロディを演奏しだしました。
暗がりから、ひとり、またふたりと私たちが囲んだ輪の中に入って踊りはじめました。
足を巧みに動かし床を蹴り、手や腰の動きはなまめかしいほどの表現力。
シェルパ族に伝わる音楽、そして超ヒットした「レッサン、フィリリ」が渾然一体となってみんなの心に響いてきました。
いつしか、日本人の男女(中高年)も誘われるように中に加わり踊っていました。
勿論私もです。中でも、謹厳そうなOさんまで踊り出しました。
しかも、何回も何回も繰り返し繰り返し、輪の中に入っては踊りに踊っていました。
それを見ていた奥さんは、「結婚して35年、こんな主人を見たことがない」と、涙を流しながら転げ回って笑っていました。
こんなに、みんながこの国の人々と歌い、踊り、笑い、喜ぶ姿は、なんと表現したらいいのか分からない。
この、ひとときの幸せを共に分かち合っているようにも感じられました。
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「ネパール料理アンド美女の踊りは1000ルピー」 |
私たちトレッカーは、ネパールの首都カトマンズに戻ってきました。
トレッキングの緊張や疲れから解放された後は、この地にすっかり馴染んでいる真理ちゃんにお願いして、私たち全員でネパール料理を食べに行くことになりました。
1000ルピーは、日本円で2000円、はっきり言って高額な値段。
それでも、みんな開放感からか全員喜んで参加しました。
食事が終わり、ローソクの明かりと暗い反射照明の中、民族衣装を着た美しいネパールの女性がなまめかしく踊り出しました。
男性は、ただただ、うれしそうに反応。
女性たちも「きれいね」と、その姿や衣装に感嘆の声をあげました。
とにかく、民族の踊りも素晴らしいものでした。
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「チップはどれくらい?」 |
海外に出ると、いつもチップのことが気になります。
「素直にその場の状況に応じて出せばいいのではない?」と言われそうですが、私はその手の対応が苦手なのです。
「これくらいがいいかな?」
「やっぱり、これくらいにしておこうかな」と、考えている内に面倒になってやめてしまうことの方が多くありました。
ヨーロッパを旅したとき、ギリシャで出会った旅の達人にそのことを聞いてみました。
「これは、あくまでも気持ちの問題ですから」と、あっさり。
そこで、私は、チップをしない方針を取りました。
ところが、ネパールの宿を紹介してくれたHさんが、「宿のフロントがとても気を使ってくれるので、僕はいつも品物も含めてしていますよ」と。
そこで、今回もあれこれ考えましたが、やっぱり面倒になってやめてしまいました。
さて、再びネパールを訪れ、同じ宿に泊まるのですが「どうしよう?」と、今から、あれこれ考えています。
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「トレッキングを終えて。負け惜しみ」 |
今回、参加したトレッカーの面々は、日常、かなり鍛練している人が多かったように思いました。
「本当は、カラパタ−ル(5545m)まで行くつもりだったんだが、練習のため、ビスターレでタンボチェにしましたよ」と、参加者の内の何人かが豪語していました。
そんなわけで、登る途中、下ってくる日本人を捕まえては、
「どこまで行ってきたんですか?」
「カラパタールです。」と答えられ、
「いいですね、うらやましい。」
「よし、今度は行くぞ」
と、タンボチェに着くまでは、強がりを言っていました。
ところがです。タンボチェに着いた途端。
「これで充分、満足した」と、口々に言葉を交わしていました。
おまけに、下りで出会った人に、
「どこまで?」と質問したのに「カラパタールへ」と、答えた人たちに対して
「あの年で無理だよな、あの格好じゃあ(太って息切れしそうな人)行かれんだろう」とか、悪口を吐いているものもいました。
表面では弱音を吐きませんし見せませんが、真理ちゃんに言わせると、
「みんな疲れたのよ」と。
そうだったのですか!。
私ひとりが大変だったのかと思っていましてけれど、、、。
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「エベレストよ、さようなら!」 |
とうとう、ルクラ飛行場から飛び立つ日がやってきました。
朝、サーダーのペンバさんがひとりひとりに祈祷用の白いスカーフを首に掛けてくれました。
これは、「カタ」というもので、人を迎えるとき、送るときに無病息災を祈って掛けられるものだろうと思います。
そう言えば、トレッキングの始まるときにももらいました。
ちょっと、感傷的になった私です。
いつも、別れは淋しいものですね。
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「スリ未遂事件に遭遇」 |
カトマンズに滞在しているときです。
前回、パタンを見逃したので行ってみることにしました。
行きは、タクシーにしました。
タメル地区のタクシー基地で
「タクシー?」「タクシー?」と、呼び込みの声につられて
「パタンまでいくら?」と聞いたところ、
「200ルピー」「200ルピー」。
「オーケー」というと、ガタピシャの車のドアーを開けられたので乗り込みました。
パタンにつくと、
「私、学生、日本語勉強しています」と、私をめざとく見つけてやってくるガイド志望の若者たち。
「英語、分かりますか?」
「少しね」と、私。
そんなやり取りをしながらパタンの通りを歩きました。
兎に角、へばりつくように彼らは私から離れない。
「ノー、サンキュウ」と、きつく言い返したら、やっと離れてくれました。
それから、ひとりでのんびりと観光ができました。
そして、帰り道。バスで帰ろうと思いつき、カトマンズ行きのバスを探して込み合うバスに後から乗り込みました。
お客を呼び込むもの、バス賃を集めるもの、車を運転するものと、なにやら騒々しい喧噪の中でバスの車体をパタパタ叩いて車は発車しました。
まもなく、私に奥へ入れと車掌らしき若者が手招きします。
「込み合うバスの中へどうして私だけに、変だなあ」と、思いつつ前方へ入っていくと、ぴったり私にくっついてくる男性がいました。
「これは、スリだな」と、直感しました。
右腕に上着を掛けて、手の動きを怪しまれないようにして私の動向を伺っていました。
再び、バスの前方から先ほどの若者が私に「前へ、前へ」と、合図を送るではありませんか。
私が、ちょっと気をそらしたときです。
いつの間にか私のウエスト・ポーチに手が伸びて、まさに、ファスナーが開けられるところでした。
思わず、ぱちんと犯人の手を叩きました。
そして、あたりの人に知らせました。若い3人娘がかばってくれました。
ネパール語でなにやら、犯人を罵倒しているようでした。
犯人は2〜3停留所をやり過ごしてやっと下車して行きました。
私も、やれやれと、ほっとしました。
3人の若い女性が先にバスを下りていきましたが下り際に「ダンニャバード」と、心からお礼をいいました。
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「見るだけ、タダね」 |
今回ほど買い物を楽しんだことは、近頃ありません。
カトマンズの町中をぶらぶら歩いていると、
「コンニチワ〜ァ」と言って、あちらから、こちらから手招きされます。
「ミルダケ、タダネ」と彼ら。
「見るだけ、タダよね」と、誘われるようにして店の中へ入っていきます。
初めは買うつもりのないことも多いのですが、いつの間にか彼らの戦略にかかっている私を発見するのでした。
商品に値段が付いていないのですから、直ぐに値段交渉が始まります。
「あんたぁ、これなんぼう?」
「トモダチ、ネダンネ」とかなんとか、
「ウ〜ン、000ルピーネ」と彼らは答えます。
「ほいじゃ〜ぁ、アメリカンドルじゃったら、なんぼにするん?」。
「00ドル?、わあ〜っ、たか〜ぃ」(円よりドルの方が値引率が大きい)
「ノー、タカイネ、ヤスイ、ヤスイネ」
「ジャ、コレナラ、ド〜ォ?」と、決まったように彼らは手に持った計算機に数字を打って私に指し示す。
「たかいよ〜っ」と、ひるまない私。
「ソレナラ、アナタノネダンハ、イクラ?」と、私に数字を打つように計算機を渡します。
「まあ、これくらいじゃったらどうかね」と返します。
「・・・・」。
「たかいけん、ええよ、かわん」と言いながらそこから出ていくと、彼らはあわてて追いかけてきます。
「オーケーネ、イクラ?イクラ?」と、再び私を交渉の場に立たせようと努力するのです。
と、こんな風にして「ひやかしたり」、「ひやかされたり」しながら大いに買い物を楽しみました。
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「中華料理」 |
海外に出ると、やはりお腹の調子を崩します。
そこで、前回のヨーロッパ旅行で学習をしたのが「中華料理を食べること」でした。
今回も、ちょっとだけ具合が悪かったので中華料理を食べることにしました。
かなり立派な中華料理店でしたが、豪華でおいしく比較的安くすませることが出来ました。
ちなみに、実だくさんのスープとナッツ入りの野菜炒め(食べきれないほどの分量)にライスがついて180ルピ−(360円)でした。
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「終わりにひとこと」 |
2000年2月13日(日)
広島ホームテレビで「吉行あぐり・和子母娘感動!!ネパール大冒険、92歳冬のヒマラヤ4000メートルに挑戦!密林探検と美味珍味!?」
を視聴しました。
ネパールのチトワン国立公園で象の背中に乗った吉行親子、私も今度体験しようと思っているので興味を持ってみました。
「92歳の高齢で、どうやって、あの街道を登たんかね〜ぇ?」
「いや、無理じゃろう、飛行機で飛んだんじゃあないん?」と、テレビ視聴前、家族で話が持ち上がりました。
「まあ兎に角、あれだけの高齢で『あそこへ、行ってみたい』と言う好奇心だけでも、立派よね」と。
空気が地上より60パーセントも薄い場所にたどり着いた吉行あぐりさんに乾杯!!。
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