旅のその後

2002/06/01:「還暦バックパッカー、ヨーロッパを行く」のあとで。
2001/02/27:私はバーリ(Bari)からターラント(Taranto)へ…世界の車窓から
2000/02/15:帰国後、丸3年
1999/08/31:帰国後、2年経ちました
1999/02/03:トールペイントの広報誌へ
1998/07/11:YH新聞
1998/06/06:1年たって
1998/04/19:グリム童話に思う
1998/04/14:エンヤ、キロロ、エルトン・ジョン
1998/04/08:旅行記の顛末と旅のおはなし会
1998/03/26:中世の「魔女狩り」に思う
1998/03/20:帰国報告会をしました
1998/03/08:日本の田舎へ行こう!
1998/02/13:講演の依頼、相次ぐ!
1998/01/17:旅のおはなし会を終えて
1998/01/16:旅のおはなし会〜帰国報告会をしました
1998/01/12:外国から届いたはがき
1997/12/24:外国から届いたクリスマスカード
1997/12/20:サンタクロースからの手紙
1997/12/15:東京に行って来ました
1997/12/01:ピーター・ブリューゲルとボッティチェリ
1997/11/23:「帰国報告会」をします
1997/11/14:「旅の記録」まとめは、はかどらず
1997/10/29:フランダースの犬とルーベンスの名画
1997/10/29:社会復帰も完了して
1997/10/28:ひとり旅を振り返って
1997/10/28:Eメールとホームページ
1997/10/14:6ヶ月ぶりのパソコン操作に四苦八苦

2002年06月01日(土)・・・「還暦バックパッカー、ヨーロッパを行く」のあとで。

 5月末、紀伊国屋書店で「ヨーロッパ浪漫紀行U」〜バロック美術〜北田和宏画文集・中国新聞社を見つけました。 題名に惹かれてパラパラ本をめくると、なんと’97年に訪れた場所ばかり、思わず買ってしまいました。

 アントワープ、アムステルダム、ユトレヒト、ザーンセ・スカンス、デン・ハーグ、デルフト、トレド、セビリア、コルドバ、 グラナダ、マドリッド、パリなどの風景が描かれていました。 そしてバロック時代に活躍した画家たちの絵とその背景が詳しく紹介されています。 何を隠そう、そのバロック絵画の騎手ルーベンスの描く「キリスト降架」をひとめ見ようと私はアントワープに行ったのですから、、、。

 この地で多くの素晴らしい絵に出会いましたが、 中でもフェルメールは美術館で初めて見て強烈な印象を受け、すっかりファンになってしまいました。

その国へ行ってから丁度5年たちました。 奇しくも2002年4月15日発行、私がこの旅に出たのが1997年4月16日。なにか因縁を感じます。


2001年 2月27日(火)・・・「私はバーリ(Bari)からターラント(Taranto)へ…世界の車窓から」
(“世界の車窓から”ではターラントからバーリへ)

 昨日(2月26日)“世界の車窓から”を久しぶりにみました。
ターラントの街と駅の紹介が始まりました。
それを見た私に丁度4年前、この地を旅したことが鮮明によみがえりました。

 ターラントはイタリア南部の長靴のかかと付け根のあたりにあります。
ここは紀元前7世紀のころギリシャのスパルタがはいって植民都市とした歴史的な港町で、海産物が豊富なところでもあります。

 「イタリアへ行ったらぜひ不思議な家並みのあるこの町を訪ねてみて」とアルベルレッロ(Alberobello)を旅の仲間に紹介されました。
そこは、バーリからターラントまでの途中にありました。でも、私にはとても悲しく辛い思い出が残っています。

 ターラント駅へ降り立ち、ホテルがある場所を聞くと旧市街を20分歩いて新市街地へ行かなければならないということでした。
バスに乗っていくことを勧められましたが、バーリでカードでのキャシングができなくて虎の子のように持っていた56,000リラは今夜の宿代にあてようと考えていたのです。

 夕暮れ時、とぼとぼと旧市街地を歩いていると怪しげな建物から犬が飛び出てきて私にほえかかり、執拗に追いかけてくるのです。
怖くなって急ぎ足で歩くと、また次ぎの街角で新たな犬がほえて私を威嚇しました。
泣く思いでやっと新市街地にたどり着いたときの安堵感はありませんでした。

   バーリ駅で出会った若い日本人女性と同じ宿に決めました。回り道をした私より彼女は先に着いていました。 
カード払いでもいいかと、オーナーにたずねると駄目だと言われ仕方なく50,000リラを支払う。
残りの6,000リラで売れ残った“冷めたピザ”を3,000リラ、いちご 2,000リラ、水 1,000リラで買いました。

 翌朝食べたのは“冷めたピザ”の半分と水だけでした。
そのおいしくなかったこと。それ以来イタリアで“ピザ”は一度も食べませんでした。

 帰り道は当然ひとりでバスにも乗らずに歩きました。昨日と同じように犬に追い立てられながら、、、。
若い日本人女性から「お金を貸しましょう」という申し出はありましたが断りました。
冷たいようですが、どんなに辛くて悲しいことに出逢ってもひとりで頑張るしかないのです。

 甘えていると、旅は続けられません。ほんと、旅は人を鍛えてくれ、強くなります。


2000年 2月15日(火)・・・帰国後、丸3年

 先日、ラジオから流れるモーツアルトのトルコ行進曲を聴きました。
ふと、3年前トルコの軍事博物館で聴いた、もうひとつの「トルコ行進曲」を想い出しました。
その行進曲は、「ジェッティン・デテ」といい、ずいぶん前にNHKドラマ「阿修羅のごとく」の主題歌でした。

 きらびやかな軍服に赤いコート、黄色、青、赤などの民族衣装に身を包み、
大きな軍刀を腰に下げ、金色に輝く指揮棒、白い旗を捧げつつ
大太鼓小太鼓を打ち鳴らしながら入場してきました。
体中に響き渡る大太鼓、小太鼓の音、ぐんぐん、、ぐんと押し寄せてくるような様を見ていると、
まるでこちらが攻め込まれたような錯覚に陥り、勇壮というより恐いような感じにさせられました。

 1階から2階部分まで吹き抜けとなった会場の上段の方で見ていた私の隣りの女性が、
「あの、大太鼓の男は私の兄さんなのよ」と、そっと教えてくれました。

 「格好いい」と、ほめてあげましたが、はて、何語でいったのでしょうか?。
忘れてしまいました。

1999年 8月31日(火)・・・帰国後2年立ちました

 スペイン・セビリアで世界選手権陸上大会が開催されました。
最終日の8月29日女子マラソンで銀に輝いた市橋有里(ゼッケン578)。
セビリアは私にとって初めて「ひったくりに出会う」という体験をした場所で
特に関心のある街でした。

 彼女たちの走る町並みに目をこらして眺めていましたが、
被害にあった場所らしいところをちょっとかいまみたような感じではっきりしませんでした。

 当時持参したガイドブックを開いてセビリアの地図をみたところ、
紹介されている場所に行っておきながら風景に記憶がなくなっていました。

 どうやら、異常な体験でセビリアの記憶が消されてしまったように思います。

1999年 2月 3日(水)・・・トールペイントの広報誌へ

 昨日ボタニカル教室Oさんから「トールペイントの広報誌」をインターネットに載せるあたり、
私の旅の記録「還暦バックパッカーヨーロッパを行く」を読み物として何回かに分けて掲載させて下さい。
との依頼がありました。
「喜んでらえるかどうか分かりませんけれどいいですよ」と返事をしておきました。

1998年 7月11日(土)・・・YH新聞

 今日YH新聞を受け取りました。
それによりますと「ヨーロッパに21世紀型新世代YHが続々誕生」と、
オランダ、ロンドン、旧東ドイツ、スイスなどの紹介がしてありました。

1998年 6月 6日(土)・・・1年たって

 先日梅雨入りして、例年のことを思い出しました。
なんだか、身体がけだるくて気持ちが沈むような感じです。
そんなに強い現れ方ではないのですが「なんとなくけだるい」。

 そう、思い出してみれば、昨年のこの頃はイタリアのコモ湖にいました。
スカーッと晴れたイタリアの国に身を置いて「暑い、暑い」と言っていましたっけ。
日中どんなに暑くても、夜になるとさわやかな風を受けて過ごしたのです。
1日の疲れも吹っ飛びます。
早々にベッドに身体を横たえていつのまにか眠りに入っていました。

 私は早寝早起きで、日中は精力的に歩き回りました。
昨年は、トルコで体調を崩した他は元気に活動したのです。

 考えてみますと、私が生を受けて60有余年、日本の梅雨から離れた体験はありませんでした。
本当に貴重な体験でした。
ヨーロッパのどこに行っても、雨は気にならないほどサラッとしていてジトジト感がないのです。
衣服にかかった雨は振るえばぱらぱらと落ちていきそうな感覚です。

 あれほど、望郷の念に駆られたのにふたたび「行ってみた〜い」と思うようになりました。
時々、ヨーロッパで知り合った人から電子メールやお手紙で旅の様子を知らせてくると、
気分ははやります。

1998年 4月19日(日)・・・グリム童話に思う

 「グリム童話−メルヘンの深層」鈴木晶 講談社現代新書
やはり、本屋さんをのぞくと「グリム」とか「中世の○○○」などに目がいきます。
先日この本を買って来ました。

【『グリム童話集』はドイツ語圏では聖書に次ぐベストセラーであり、
ドイツ語圏に限らず、童話集としては世界でいちばん親しまれているものである。
わが国でも、50年以上前から広く親しまれてきた。・・・中略。】

 筆者が語ってるように残酷な話もある。
しかし、最近日本で発行されている『グリム童話集』は残酷なところを
ハッピーエンドに書き替えていていることが多く、
それでは話の本質を失うのではないかと原作の通りに訳している『グリム童話集』もみかけます。

 私が知っている範囲では『グリム童話集』はドイツで昔から語り継がれた話を
グリム兄弟が採集し、編集、出版したものだということでした。
 読むうちにわかったことは、どうやらグリム兄弟が自ら採集したのではなく
身近な人たちに話を提供してもらって書き替えたものらしい。
さらに『グリム童話集』は、さまざまな研究対象となり、歴史資料として、
また神学者、宗教学者たち精神分析学者等によってもなされたようだ。
 なかでも面白かったのは、【メルヘンのかたち】のなかで
フィンランドの民俗学者アンティ・アールネ(1867〜1925)と
ロシアの民俗学者ヴラジーミル・プロップ(1895〜1970)らによる
昔話の構造についての考察です。私にとって大変難しい内容でしたけれど
こんな研究があったのかと言う存在を知っただけでも収穫であったと思います。
 
 筆者はさらに続けます。
【現代へのメッセージ
 私たちはふつう「メルヘン」なるものを、
人びとが長い時間をかけて練り上げ、世代から世代へと語り継いできたお話、と理解している。
そういうものだからこそ、現代においてもなお広く語られ、よ読まれているのだ、と思っている。
そして、グリム童話こそ、そうしたメルヘンの代表だと考えている。
 しかし、これまで見てきたように、グリム童話は、
古代から口伝てに継承されてきたメルヘンそのものではない。・・・中略。
グリム兄弟による童話集の編集=創作の意味がある。・・・中略。
グリム童話が今なお広く愛されているということは、グリム兄弟がメルヘンに盛り込んだ
メッセージが現代にあてはまるということである。

社会とメルヘン
  グリム兄弟はその童話集に彼らの価値観を盛り込んだ。
彼らの価値観とは、当時その地位を固めつつあったブルジョワ階級の社会観・道徳観である。
・・・中略。
 社会が変われば、人びとが好むメルヘンも変わり、グリム童話も読まれなくなるだろう、
と楽観していいのだろうか。
『グリム童話集』は、ブルジョワジーの階級の確立の結果であったと同時に、
ブルジョワジーの生活様式を確立するための推進役を果たし、
今日まで、その生活様式の再生産に奉仕してきたのである。・・・中略。
グリム童話を「古代から伝えられた民衆の智恵の結晶」としてだけ見ることをやめ、その中に、
資本主義社会とか近代市民社会といった名前で呼ばれる何物かの「陰謀」を読み取りつつ、
メルヘンを「楽しむ」ことくらいではなかろうか。】

【】内は「グリム童話−メルヘンの深層」鈴木晶 講談社現代新書より抜粋。
 私の発見、童話ひとつとってもこんなに深い考察がなされているのか、
とあらためて「世の中」に私の知らない世界がたくさんあることをあらためて知らされました。

1998年 4月14日(火)・・・エンヤ、キロロ、エルトン・ジョン

●エンヤ 
 たしか昨年暮れだったと思います。
5km離れた所に住んでいる娘から「お母ちゃん、エンヤって知っている?」
と聞かれたのですが知りませんでした。
 アイルランド出身の歌のグループだと教えてもらいました。
そして先月3月29日に彼らの歌を聞くことが出来ました。
なぜか初めて聞いた曲ではなさそうです。どこかで聞いた覚えがありました。
どこだろう?きっと、ヨーロッパを旅行中によく耳にしたのかもしれません。
 娘の説明によると、今は中学3年生になった孫TがCDを借りてきて
「お母さんテープに録音して」と頼んだそうです。
「聞いてみると心に沁みるような癒しの音楽だ、とても、いい曲よ」と、解説してくれました。
やはり、その通りでした。

●キロロ
 FMを聞いていると最近にない、じんわりと心に残る歌声が聞こえてきました。
「この曲だれが歌っているの?」と、次男に聞きました。そして、曲名も聞きました。
「キロロが歌い、「長い間」と言う曲よ。
たしか「キロロ」はアイヌ語だと思う。
北海道で聞いたことがあるから」と付け加えて教えてくれた。
 緩やかで、ゆったりと流れるメロディと味わいのある歌詞がなんとも言えない響き。
久しぶりにいい曲に出会えたように思いました。
早速FM局へリクエストのはがきを出しました。

●エルトン・ジョン
 4月11日に「キャンドル・イン・ザ・ウインド」のシングルCDを買ってきました。
今頃、なんでと言われそうですが。とにかく買いました。
前にもテーマ別に記述していますが、ダイアナ妃の葬儀を私は日本から遠く離れた、
しかも、イギリスのウエールズ地方はブリストルの友人の家で、テレビ中継されるのを一部始終みました。
 イギリス人も日本人同様「うわさ話」が好きのようです。
みんなテレビに釘付けのようでした。
イギリスに住んでいる、友人の敦子さんが言うのですから本当でしょう。
そんな中、ある歌手が歌を歌い始めました。私はその人がだれだか知りませんでした。
「いい歌ね、誰が歌っているの?」そばの敦子さんに聞くと「エルトン・ジョンよ」
彼の名前は以前からよく知っていたのに顔は知りませんでした。
 それから、イギリス中を旅する間いいえ、スペイン、ポルトガルまでも歌声があちこちに溢れていました。
さらに、ダイアナ妃に関する本も山積みされていました。
 へそ曲がりの私は、その時買う気が全くなかったのです。
「キロロの曲を聞きたいね」ということから
「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997を買っておいたら」と、息子が言うので、
その気になりました。 

1998年 4月 8日(水)・・・旅行記の顛末と旅のおはなし会

 昨日、前近所に住んでいたKさんがお昼ころ我が家をたずねてきました。
「長い間これをありがとうございました。みんなに読んでもらったので遅くなりご免なさい。」
と言って私の紀行文「還暦バック・パッカー、ヨーロッパをいく」を返して下さった。
 彼女は以前から私の近所にあるスポーツ用品の縫製工場で働いています。
大変いい方で、近所を離れても私たちとの関わりをずっと持ち続けています。
そんなことで私がヨーロッパに行って来たことを知り大変関心を持ったので紀行文を見せてあげました。
私の了解を得てですが、「皆さんに読んでもらったら大変反響がありました。
{戸野さんの行動が目に見えるようで楽しかった。}
とTさんが言っていましたよ」など喜んで頂いたようです。

 もうひとつ
 昨日、ボタニカル・アート教室のOさんが地元の婦人会で
「旅の話やパソコンを楽しむことなど話してもらえませんか」と打診されました。
内容は「どのようにして旅にでていくのか、旅の仕方とパソコンをどのように楽しんでいるか
など話してみてくれませんか。みんなを元気づけて下さい」と言うことでした。

 また人様のお役に立てるのならと思い、引き受けました。

1998年 3月26日(木)・・・中世の「魔女狩り」に思う

 「魔女狩り」森島恒夫著 岩波新書を読みました。
西洋の魔女のことは前から耳にしていました。
グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」「赤ずきんちゃん」にも登場します。
いずれも年取ったお婆さん。
【「年をくい、しわ枯れた老婆。あごは落ち、膝は曲がり、弓なりに杖にすがっては歩く。
 目はくぼみ、歯は抜けて、しわ深く、手足は中風でふるえ、なにかぶつぶつつぶやきながら通りを歩く。
 主の祈りは忘れても、悪態をつく意地悪な舌は、まだ失っていない。・・・」
(ハースネット『カトリック教の欺瞞』1603年】【】内は「魔女狩り」より抜粋。

 スペインを旅したとき友人の敦子さんが
「スペイン人の女性は笑わないし目鼻立ちが大きくて魔女みたい」と恐がっていましたが、
童話に登場する通りのイメージだと思いました。確かに物語の彼女らは悪事を働きました。

 しかし、私たちが抱いている「魔女」のイメージはこんなに「ワルサ」をする人ではないように思います。
ホーキにまたがって魔女達が集い、
人間界の人たちに魔術をかけて病気や苦しみを救ってくれる相談をやっている。
そんな風にユーモラスな存在として考えてきました。

 それが、ローマカトリック教会が行った異端運動から魔女狩りに移り
「神の名」に於いて残虐な殺戮を行ってきた歴史。その魔女たちは何をしたのでしょう?。
本当かしら?と思える行為を法皇、国王、貴族及び大学者、
文化人が煽り立てた恐ろしい光景を随所にみて人間が信じられなくなりました。

 民衆はこのような煽りに簡単にだまされそうです。
心して欺瞞を見抜かなくてはならないと思いました。
現に、身近にいくらでもこんな事柄は転がっています。
「テレビで言っていた」「みんなが言っていた」で判断しないこと、
「鵜呑みにせず、先ず疑ってみる」ことが必要でしょう。

 今回ヨーロッパをまわってきたのですが、この本を読んでいたら見方が違っていたかもしれません。
次は、このような中世の暗黒から人々はどのようにして目覚めていったのかが私の関心となりました。
いい本をみつけたいものです。 

1998年 3月20日(金)・・・帰国報告会をしました

 昨日、西広島市のK町に「私が旅からもらったもの」と言うテーマで帰国報告をしてきました。
会場はI整形外科医院です。毎月木曜日に患者さんや近所の人などを集めて講演活動をされているようです。
先月は患者さんが先生になって「きれ草履」つくりを計画されました。

 今回は「私が旅からもらったもの」と言うテーマでお話をしてきました。
集まった方々は60歳代から70歳代の男女30数名でした。男性はわずか数人でした。
私が話したいことは、「いつまでも好奇心を失わずチャレンジ精神を持ち続けることでした。」
中には居眠りを始める人もいて、私の話し方がまずいのではと反省もしました。
そんな中、話が終わってから数人の皆さんがわざわお礼のあいさつをされて帰られました。
 素人の私がどれほどの人に、心に響く話ができたかは疑問ですが、
とにかく1割の人でも共感してくれた人たちがいてくれたのがうれしく思いました。

1998年 3月 8日(日)・・・日本の田舎へ行こう!

 春たけなわと言っていいのでしょうか?
光はまぶしく反射して霞んだようなお天気です。
帰国後あれこれと忙しく過ごしてきましたけれど、
一応片づいてちょっと暇を持て余し気味みとなりました。
何をするでもなく、ぼうっとしています。目的がないので変な気持ちですね。

 じっとしていることが不得手な私がこの間から国内旅行を計画しています。
ヨーロッパを回り、日本の良さに気づいた私は、
今年は国内の田舎を訪ねてみたいと考えるようになりました。
テレビで日本各地ひなびた田舎や町を見ると行ってみたくなります。

 とりあえず、富山の五箇山、岐阜の郡上八幡、高山などです。
お金がかからないように高速バスで夜間を走り効率よく動きたいと思っています。
日本ではバス代など移動費や宿泊費がかさむのでよく考えて計画を練りたいものです。
五箇山への入り方がとても不便らしいのです。
今のところ、高速バスで名古屋へ行き早朝に到着するので、
そこからバスなり鉄道を利用して郡上八幡、五箇山へ、帰りに高山はどうかなと考えています。

 時期も夏になると五箇山YHが混むかも知れないし、
といって早く行くとバスの便がなかったりと情報がいまいち少ないので困っています。

1998年 2月13日(金)・・・講演の依頼、相次ぐ!

 今まさに、長野冬季オリンピックの真っ最中です。
昨年のこの頃、私は“6ヶ月ヨーロッパひとり旅”への具体的な準備に取りかかっていました。
 1月06日:ルート作成に取りかかる。
 1月15日:出発までの日程表作成、旅ノート作成に取りかかる。
 2月17日:HISへ航空便予約。
 2月24日:ビザ、パスポート写真撮影。
など、旅に持参したメモノートを開くとこう記されていました。
ちょっと懐かしく感じています。

 さて、現在はどうでしょう?
実は先月、広島市民登山講座の皆さんに“私の旅のおはなし”をしたところ意外と反響がありました。
私の話を聞いて下さった2人の方から「私の会の皆さんにも話してくれませんか?」と打診がありました。
ひとつは旅のプロの方々の懇親会の集まりK会、もうひとつはJくらぶです。
聞いて下さる皆さんの集まりの性格が違いますのでちょっと難しいなと思うのですが、
気張らずお話させて頂こうと考えています。
今日午後7時から、そのひとつである“旅のプロ”のK会でお話することになっています。

 帰国その後ですが、「還暦バック・パッカー、ヨーロッパを行く」の旅の記録を、
今年1月にやっとまとめることが出来ました。
たくさんの人たちに読んで頂こうと配布しましたが、
感想を寄せて下さった方が少なくちょっとがっかりしています。
あまり内容に興味がなかったのか、面白くなかったのか分かりません。
忌憚のない批評をして下さる方があればいいなあと思います。

 東京のH・Kさんと毎日のようにe−メール交換をしています。
身近に起きたこと感じたこと腹の立つことなどいわゆる「おしゃべり」です。
精神衛生上いいですよ。このことも思えば不思議です。
昨年6月スイスのホテルで同じテーブルで食事をしたことから交友が始まりました。
「今度週末にはどこそこへ行って来ます。」とか、
「昨日どこそこへ行って来ましたよ。」など。
今一番、彼女と私の日常を知っている間柄となりました。

 旅を終えて早や4ヶ月となりました。
あれほど望郷の念にかられた私ですが、また旅へのあこがれが頭をもたげてきました。
 もたげる=擡げるの意味は分かりますか?
広辞苑によれば、文語もた・ぐ(下二)(モテアグの約)持ち上げる。
最初この言葉が頭に浮かんだ時「え?、こんな言葉はあったっけ?」と不安になり辞書をひきました。
文語体が方言の中に残されることがあるそうです。方言でしょうか。

 昨日、長男とそんな話をしていたところ、
イギリス在住でスペインを一緒に旅した敦子さんのとのことが話題に上りました。
すると、電話のベルが鳴り、当の敦子さんから電話が入りました。
「寿美江さん元気?敦子です」
「敦子さん?え?どこ?元気?」と私はびっくり。
「今自宅に帰っているのビザを取るためにね」
お互いに懐かしいねと話が弾みました。
どうやら、昨年携わった仕事が終わり、3月に再度イギリスへ渡るのだそうです。
「日本にもう少しいるのでまた手紙出すね」と言って彼女は電話を切りました。

 どうやら敦子さんはそんな思いへの火付け役だったのでしょうか?
あまりのタイミング良さには驚きました。

1998年 1月17日(土)・・・旅のおはなし会を終えて

 もう、今にも雨が降り出しそうな暗さです。
昨日、お話会でたくさんの人とまた、たくさんの出会いがありました。
「この日が一生忘れられない日となるでしょう」と言って下さった方、
「戸野さんのお話を聞いて、
 なんとかひとり旅が出来そうになったのでその時は教えて下さい」と言って下さる方、
「よくまあ、ひとりでやりましたね、感心しましたよ」、
「元気が出ました」などなどの感想を述べて頂いて、
話を聞いてもらった者としては大変うれしかったです。
出来れば、「もっと多くの人に聞いてもらいたいなあ」と思います。

 ひとり旅も何回か回を重ねる内に、点と点を線で結ぶ旅でなく、
もう少し中身の濃い現地の人たちとふれあえる滞在型の旅がしてみたくなりました。
これは、以前にも希望していた何年か、少なくとも1年位、同じ場所に住んでみる。
または、その場所を基点に旅をしてみるとか考えるようになりました。

 それを言うと、トルコがいいと言ってくれる人もありました。
物価は安いし、人も優しい、しかもヨーロッパがすぐ目の前だと言うことでした。
でも、トルコはねえ。イスタンブールと言わず、
観光地の各所で「絨毯買って」と言われ続けて疲れました。
ずうと田舎ならいいとは聞いています。
 
 私もアジア人ですし、アジアに住んでいるわけですけれど、
まだネパールに一度だけ行っただけで他の所にはまだ行っていません。
今度行くなら、アジアでしょうか。旅で出会ったアジア人の優しさに魅力を感じます。
しかし、旅をしている人は恵まれた一部の人たちで生活が厳しいだけに
旅行者に対してどんな対応をしてくれるのかが不安です。
幸い、長男の友人にアジア専門の旅人がいるので、その人から情報を得てみましょう。

 テーマ別の記録を思いつくままに書いています。
テーマが浮かんだらすぐメモを取ります。
時には記録を取らないで「何だたかしら」と考えることもあります。
頭の隅っこ潜んでいる(大げさすか)記憶が日を追って出てくるのです。
と言えば聞こえがいいですけれど若くない頭なので
「一度に出てこなくなった」と言う方が妥当かも知れません。
追々書いていきますので「こうご期待」です。

1998年 1月16日(金)・・・旅のおはなし会〜帰国報告会をしました

 夕方6時から、広島市内の喫茶店「キララ」で私の“旅のおはなし”をして来ました。
考えていたほど十分に話せなかったと思います。やはり、緊張しました。
でも、たくさんの方が興味をもって聞いて下さったことに「幸せ」を感じました。
感謝でいっぱいです。みなさん、ありがとうございました。

 広島市民登山講座の吉村さんのご厚意で、このような会をもって下さったのですが、
今日もまた、たくさんの出会いがありました。
そして、以前出会った方々の温かい応援を受けて大変うれしく思いました。

1998年 1月12日(月)・・・外国から届いたはがき

 昨日、ドイツのHIS(エイチ・アイ・エス)フランクフルト支店から、はがきが届きました。
Mさんからで、支店長のKさんがフランスに転勤になったこと、
またいつでも訪ねて来て下さい。みんなで待っています。と結んでありました。
(帰国の航空便の変更でお世話になった)

 今日は、オランダのデン・ハーグで宿泊した宿からのものでした。
「また、お目にかかりたい」と書いてありました。
さっそく、返事を出すことにしました。
こんな風にしてお便りをもらうとうれしいです。
特に海外からでしたら、想い出を一緒に運んでくれるからです。
返事を出すことで、また新しく交流が始まるからです。

1997年12月24日(水)・・・外国から届いたクリスマスカード

 今年もクリスマスカードが5枚届きました。その内3枚が外国からです。
1枚はニュージランドでワーキング・ホリデー中の若者です。
もう1枚はニュージランド人から毎年頂いています。
’94年11月に、ニュージランドのミルフォード・トラックを一緒に歩いた人です。
あとの1枚は、今回ベルギーのブラッセルYHで知り合ったスペインの女子大生です。
彼女とは同室となり、彼女の方から声をかけてくれました。
私のあやしい英語でなんとか会話をして交流を深めました。

「どこから来ているの?」
「あなたは学生?」などと私は聞きました。
「スペインからよ、スペインの北の方なの、そこの大学に通っています。」
と彼女は英語で答えてくれました。
「そう、私は日本からヨーロッパを旅しているの、長期にね」
「すごいわね!かなりお金がかかるでしょう?」と彼女。
「まあね、あなたは日本に来ないの?」と私。
「日本は物価が高いし、行けないわ。ベルギーなら近いし旅行が出来ます。」
「そうよね、」とあらためて日本の物価高に思いを馳せました。
彼女との交流を今また思い出しながら、返事を書こうかなと思っています。

 彼女の文面は挨拶彼女の近況と私がその後も旅をしているかということが書いてありました。
忘れずにクリスマスカードをくれたことがとてもうれしかったです。

1997年12月20日(土)・・・サンタクロースからの手紙

 先日、北極圏に住むサンタ・クロースから4人の孫宛にクリスマスカードが届きました。
今年、フィンランドのロバニエミへ行って来ました。そこに、サンタ・クロースさんが住んでいるのです。
私は首都ヘルシンキから、はるばる北極圏へ夜行列車に乗って会いに行って来ましたが、
残念なことに会えませんでした。でも、孫たちへクリスマスカードを送って貰うよう頼んで来ました。
 
 文面は次の通りです。大変いい文章で感動しました。
子どもたちはともかく、その親たちは
「品物よりこんな心のこもったカードをもらうのもいいね」と喜んでいました。
どうやら孫たちも絵本を読んで貰うように「読んで」とせがむらしいです。


Syo, Yuki, Gen & Tomoaki Mitsuhiro       

北極圏より 1997年クリスマス
 クリスマスおめでとう。 元気にクリスマスをむかえているかな? わしは今、きみのいる国からは、とても遠い遠いフィンランドという北国の森の中の家で、 この手紙を書いているんじゃよ。  森は、すっぽりと雪につつまれていて、とても静かじゃ。 パチパチとだんろの火が燃えると、時おり木の枝から雪が落ちる音が聞こえるだけ。 空には、たくさんの星。・・・・そう、今は、夜なんじゃよ。  そしてね・・・・、今夜はきみへの特別な、すてきなプレゼントがあるんじゃ。 実は、たった今、わしは外に出て、オーロラを見てきたばかりなのじゃよ。 オーロラの輝く空の下で手紙を書くと、その手紙を受け取る人には、とてもうれしいことがあるのじゃ。 その人はとても幸福になれるのじゃ。まるでオーロラのやさしい光に見も守られているような。 だから、きみには、きっとうれしいことがあるよ。  ところで、今、わしは、オーロラのやさしい光に見守られいるようと書いてね。 それは、この北に住むわしだけがあげられる特別のプレゼントだけれど、 きみは、いつも、それと同じような、大きな愛とやさしさにつつまれているのをしっているかい? ・・・・そうじゃ、よくわかったね。 きみのまわりの人たちの心、じゃよ。家の人たち、友だち。 みんな、きみを大好きで、きみの幸福を願っていてくれる。うれしいね。 そしてね、わしがもっとうれしいのは、きみもまた、同じやさしい心を持っている、ということじゃよ。  さあ、もういちど、外へ出て、オーロラを見上げてくるとしょう。 きみと、きみのまわりの人たちが、これからの一年間、いつも元気で幸福でいるように、と願いながら。  愛をこめたメッセージを送るよ。  
サンタ・クロス

1997年12月15日(月)・・・東京に行って来ました

 12月8日から14日まで東京に行って来ました。
今回のヨーロッパ旅行で知り合いになったH・Kさん宅を訪ねました。
何年来の友人のように親しく接して頂き、大変お世話になりました。
「半年前は全く知らない人だったのに、こうして自宅までお邪魔するなんて不思議よね」と
しみじみ出会いの不思議さをかみしめながら都内を案内して頂いたり、
おしゃべりに花を咲かせながら楽しく過ごしました。

 そして、元職場の同僚が上京して11年、N・Yさん、スペインで出会ったY・Sちゃん、
3年前に、ニュージランドのミルフォード・トラックで出会ったM・W、
S・Wご夫妻と再会を果たし、相変わらずの友好を感じながら幸せでした。
みんなと懐かしい想い出を語り合いました。
旅っていいですね、何年立ってもいろんな人に出会えて体験を共有出来るのですから。
そして、年齢を越えて付き合えることは素晴らしいことだと思います。

 今(午後10時20分)”ゆっきい”ことH・Yちゃんから電話が入りました。
彼女とは、昨年の北海道礼文島での出会いで、その後、小清水駅で再会。
その時、彼女は丁度18歳の誕生日を6月30日に迎えたのでした。
私の一番若い友人です。
4月から何回も私の家へ連絡を入れてくれていたのに、行き違いになっていました。
あさって、彼女が家に訪ねて来てくれることになりました。
今から楽しみです。

1997年12月 1日(月)・・・ピーター・ブリューゲルとボッティチェリ

 懸案の帰国後日記1,2が出来上がりました。
次は3です、思いつくままに記録しています。
できれば、1月の「帰国報告会」の原稿にしようと思うのですが、
皆さんがどんなところに関心があるのか見当がつきません。
私にとって、面白かったことでも、周りの人には興味がないかも知れませんし、
「どこをどのように話そうか」とちょっと考えています。

 今、私は絵画に興味をそそられています。
ピーター・ブリューゲルを通して、いろいろなことを学んでいます。大げさでしょうか?
ヨーロッパの絵画、音楽、生活全般について、キリスト教と深い関係があることを
改めて知ることになりました。
ブリューゲルの描いた絵も聖書のことを知らないと、ずいぶん理解が異なるようです。
ひとつのことを知るためには、かなりの勉強が必要だと思いました。

 それは、さておき「世界 名画の旅」朝日新聞社を読んでいるうちに、新たな発見をしました。
イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館でボッティチェリの「春」を見ました。
この絵は確か、「修復作業の後、人物の足元の花々がきれいにあらわれた」と、
私は、どこかで聞いたのを思いだして、入念に描かれた花々を眺めました。
ところが、その記憶が朝日新聞の「世界 名画の旅」日曜版の記事からだということが分かったのです。
11年前の記憶です。ちょっと、感動しました。

【ボッティチェリ 春 修復で生き返った花・・・中略『春』が描かれて、500年たつ。
 最近、絵に大きな変化があった。修復して明るく生まれ変わったのだ。・・・中略・・・
 だが、何よりも春の色を取り戻したのは、人物の足元に咲く花々だった。・・・中略・・・
 自然の野原 植物の数は約500】【】「世界 名画の旅」より。

1997年11月23日(日)・・・「帰国報告会」をします

 今日、市立図書館に行って来ました。
先日借りた「世界 名画の旅」4と「ブリューゲル・さかさまの世界」を返却して、
再び「世界 名画の旅」1、2を借りました。
今回の旅でたくさんの美術館巡りをしましたが、全部記憶には残っていませんし、
どこの美術館で見たのかもおぼろになっていましたので確認することも大事かと思いました。
図書館には、ルーブル美術館、オルセー美術館などの本がありました。
ぱらぱらとめくってみましたところ、世界に知られた彫刻もあったのですが、
あまり記憶に留めていませんでした。
その時は、それなりに感心して見ていたのでしょうけれど。
絵画の方が親しみやすくて、分かりやすいのでしょうか。
美術館別の本も、少しずつ見ていきたいなあと思っています。

 この間、ピーター・ブリューゲルの画集を買いました。
この画家の絵は、鑑賞する前に知識があった方がよく分かると思います。
残念ですけれど、後の祭りですね。
 
 「帰国後日記」の題名をあれこれ考えましたが、
「還暦バックパッカー・ヨーロッパをいく」に決めました。
私は、日々パソコンに向かって記憶をくりながら旅の記録を書いています。
なかなか、まとまりませんが、作家ではないのですから気楽に書こうと思っています。
 来年早々、H登山講座のYさんが「帰国報告会」を持ちましょうと言って下さったので、
話すことで、皆さんのお役に立てばと考えてお受けしました。
どこにでもいる主婦が6ヶ月間、ひとり旅をしたと言うので興味があるそうなのです。
おしゃべりなら何時間でも出来ますが、皆さんに興味を持って聞いて頂けるかしらと、ちょっと不安です。
「思ったこと、感じたこと、失敗したことなどを話せばいいんです。」と、
アドバイスをして頂きましたので少しは気が楽になりました。

1997年11月14日(金)・・・「旅の記録」まとめは、はかどらず

 現在、私の知り合いから「旅の記録を見せて」という依頼が、かなりあります。
旅先から我が家に送ったメールはパソコンをやってる人にしか見てもらえないので、
その記録を基にしながら帰国後の感想も加えて旅の記録をまとめています。

 その題名を考えてみました。
「64歳のおばちゃんバックパッカー、ヨーロッパを行く」
どこかで聞いた?ような気がしますが・・・。
ところで、その記録がまとまりません。
気が多いのでしょうか。

1997年10月29日(水)・・・フランダースの犬とルーベンスの名画

 ヨーロッパひとり旅の一番大きな動機は、小学生の頃読んだ「フランダースの犬」にあります。
主人公のネロ少年が見たかった、アントワープの大聖堂の絵を見たかったことです。
これは、私が初めて読んでから半世紀過ぎてもなお心に残る物語です。
ネロが教会の冷たい石畳の上で最期を迎えるまでその絵を見ることが叶えられなかったことへの同情でしょうか、
彼が見たいと切望していた絵はどんな絵なのであろうかとずっと私の心の片隅に残っていました。
ところが、私が52歳の時、朝日新聞の日曜版「世界 名画の旅」で
その絵がルーベンスの「キリスト降架」であることを知りました。

 それからは「私も一度見てみたい」との思いが募り、今回実現させたのです。
ネロとパトラッシュが住んでいたとされるホーボーケンにも行って来ました。
そして、仲良しだった少女が住んでいた風車小屋(風車小学校)にも足を運んでみました。
街は非常に静かで“キョロキョロ”と何かを探している私を見て、
子ども連れの男性が「パトラッシュですか?」
「はい」と答えると、親切にネロとパトラッシュの銅像のある所を教えてくれました。
これは「きっとたくさんの日本人が訪れるのだな」と思いました。
ホーボーケンを訪ねてみて「これは失敗したな」と思いました。
子どもの頃に読んだ物語の場面と余りにも違いすぎることです。
私のイメージはすっかり壊されてしまい、がっかりしました。
大聖堂のみにとどめておけば良かったと後悔しました。

 話は前に戻りますが、その日は雨でした。
大聖堂に入ると中はちょっと薄暗く、正面に3枚扉のようにルーベンスの「キリスト昇架」「キリスト降架」
やや後方に「マリヤ昇天」の絵が、その場を圧するように掲げられていました。
「キリスト降架」はキリストの青白い体が生々しいほどに臨場感があふれていて、
目を背きたくなるくらいでした。
躍動感あふれる「キリスト昇架」と、しばらく無言でじっと見つめていました。
長い間見たかった絵です。直ぐ立ち去るには惜しい気持ちでした。
そこには日本人の若者も4〜5人うっとりとその絵を眺めていました。
彼らも同じように「フランダースの犬」の愛読者だったのしょうか?

1997年10月29日(水)・・・社会復帰も完了して

 帰国してもう20日あまりたちました。
あれほどまでに帰国を待ち侘びていた私が嘘のように、今では懐かしい数々の場面が思い出されます。
毎日のように家族にその“ひとこま”“ひとこま”を語って聞かせています。
長い6ヶ月間のことですから次々と話は尽きないものの、
同じことを繰り返しては時々「聞いたよ」と言われてしまいします。
気をつけている積もりですが 「年だから」と言い訳をしようものなら、厳しい批判が返ってきます。
そうならない為にも旅を記録して皆さんに見て頂こうかなと考えています。

 現在、私は帰国の疲れもとれて元気に日常生活を送っています。
最近はお世話になった人たちや、いろいろご心配頂いた人たちへ帰国の挨拶状を出した返事が
毎日のように返ってきていますので、それを読むのが楽しみのひとつです。
それと、もうひとつの楽しみは今回の旅で新しく友人となった人から
「東京に来て下さい」というお誘いを受けて、近々上京をしようかと考えていることです。
前々から関東地区にお誘いがあったのですが、これまでチャンスがなくて実現出来なかったので、
今回そんな人たちへも連絡を取って会いたいなと思っています。
 
 旅のことをまとめる柱として次の3つあたりを考えています。
 1:童話、メルヘンの故郷を訪ねて。
 2:ヨーロッパの博物館と美術館を見て来ました。
 3:旅でみつけたもの。
なかなかうまくはいきませんがご期待下さい。

1997年10月28日(火)・・・ひとり旅を振り返って

 海外ひとり旅は今回で3度目です。
ちなみに’93年が初めての海外旅行です。
この時はスイスで1ヶ月間トレッキングをしました。
見るもの、聞くもの全てが初めての体験で心に残る楽しい旅となりました。
今回は、ヨーロッパをゆっくりひと回りしようと8ヶ月間設定しましたが、
8ヶ月という長期間の旅は疲れてしまい、2ヶ月早めて帰国する羽目になりました。
旅の主な目的は、子どもの頃に読んだメルヘンの世界、ドイツとベルギーを訪ねることでした。
ドイツではグリム兄弟の「メルヘン街道」を歩きました。
そこでは中世の木骨組の様々な建物をたどり、
ベルギーでは「フランダースの犬」のアントワープをネロとパトラッシュの足跡をたどってみました。

 訪ねた国は全部で21ヶ国(トルコとシンガポール含む)です。
トルコではモスク、ヨーロッパでは多くの教会と城、美術館、博物館、街並みを見て来ました。
歴史の知識に弱い私の目には、どこの国の教会も城も街並みも石の固まりにしか見えなくなり、
同じような風景にしか写りませんでした。
新鮮な感動を覚えなくなった私ですが、旅で出会った若者も
「石ばかりの建築物には飽き飽きしたわ、日本に帰ったら木造の寺院を見て歩きたいね」と言っていました。
また、イギリスを旅していた時です。
見渡す限り緑の芝生に覆われた丘陵を列車の窓から見ました。
山は低く、日陰になると途端に寂しい風景となる田舎、光線が日本とだいぶ違っているように思いました。
そして、食べ物が脂っこい物ばかりです。
2ヶ月を過ぎた頃から胃にもたれるようになりました。
中華料理店を探して切り抜けました。

 思えば、我が故郷の山々は緑深く、美しい渓流あり、そして明るい陽射しと
日々移動しなくても済む家(自宅)があります。
家族が、なつかしい人々の顔があります。
こんな事で望郷の念が募り、早く日本に帰りたいと思うようになりました。

 帰国して旅で学んだ事を整理してみました。
 1:生まれて育った国が一番いい国であること。
 2:多くの外国の人たちの親切に出会い人間の優しさと素晴らしさに触れたこと事。
 3:日本人の若者の親切に接し「今時の若いもんは!」の非難を撤回したいと思ったこと。
 4:もう一度歴史を学びたい、せめて今回の旅で歩いた街から始めたいです。
   手始めに「ヨーロッパの歴史」フレデリック・ドルーシュ総合編集;東京書籍と
   「イスラームとは何か」小杉 泰講談社現代親書を読み始めました。
 5:ヨーロッパでは古いものを大切に使う良さも見つけました。

1997年10月28日(火)・・・Eメールとホームページ

 6月にスイスのグリンデルワルドで親しくしていただいたKさんから、
東京の「自宅へ遊びに来てね」との誘いがあったので、
急に関東地区の皆さんに会いたくて気持ちが動いた。
早速、行く日を決めたいと香取さんにEメールを発信した。

 昨日、朝日新聞の声欄に岡山の主婦Yさんのホームページ開局の記事が載っていた。
私もあやかりたくて記事を書こうかなと思う。
しかし、載せてもらおうと考えると素直に文章が書けない。
「駄目もと」で書いてみようか。
何を書こうか「ヨーロッパ6ヶ月の旅」「ヨーロッパ6ヶ月の旅で見えてきたもの(感じた事)」
「安い果物を食べたい」「私もインターネットしています」「旅から学んだもの(事)」
はてさてどうしようか。
題は「ヨーロッパ6ヶ月ひとり旅で見えて来たもの」としょう。
正確には5ヶ月と20日そしてトルコを含めての6ヶ月です。

1997年10月14日(火)・・・6ヶ月ぶりのパソコン操作に四苦八苦

 6ヶ月ぶりにパソコンに向かいました。
帰国後、長旅の疲れから不規則になってしまった日常生活を元に戻すため、
手始めとして日記をつけようと思い立ちました。
ところが6ヶ月もご無沙汰した家事でさえおぼつかない私です。
パソコンはなおさらのこと、すっかり操作を忘れてしまっていました。
そこで我が家のパソコンの先生(長男)に指導を受けて再出発しました。

 10/09:帰国報告と挨拶のはがき印刷を発注。
 10/12:旅行に使ったカードの領収書の整理と業者からの請求書の照合、旅行費用の概算を出す。
 10/14:「ヨーロッパの歴史」フレデリック・ドルーシュ総合編集;東京書籍、を読み始める。

次回は旅の実績・行程表を印刷するつもりです。

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