コラム・41
      
古事記と、浮世絵のなかのハイテク製品
古事記と日本書紀のなかに出てくる日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東国を征服した際の受難物語のうちの一つに、相模国造(さがみのくにのみやつこ)にだまされて、野火(のび)の難にあったのがありますね。東征に出かける武尊(たけるのみこと)が伊勢神宮の斎宮であった叔母の倭比売(やまとひめ)を訪ね、剣と袋をもらって出発しました。
草原を通っていた時に枯れた草原の周りから火をつけられます。この野火攻めから逃れる方法として、倭比売から賜わった剣で草を薙(な)ぎ、袋の中の火打石(ひうちいし)で風下の枯れ草に火をつけ、逆火を放って逃れました。倭比売が贈った剣は、当時のハイテク製品の鉄の剣(つるぎ)だったと思われますが、目に立つのは火打石(ひうちいし)。
ボクらは何の気なしに見過ごしますが、火打石(ひうちいし)は、当時は珍しい輸入品だったようで、記紀の書かれた7世紀でも、舶来品だったと思われます。
古代では、庶民は火の木(桧)を錐にして擦る発火道具を使っていました。火打石(ひうちいし)は石英の一種の燧石(すいせき)と三日月型の鋼鉄の火打鉄(がね)を打ち合せて火花を得る発火道具です。まあ、当時とすれば輸入品のハイテク器具。
古事記、日本書紀は、日本武尊はハイテク製品で身を固めていたといっているんでしょうね。
       
もう一つ、目に立つのは菱川師宣の浮世絵「見返り美人」の着物のドレープ。あの線はシルクじゃあない。コットンの、それも、カナキン(金巾)だとボクは思う。
最初、日本に木綿が伝来したのは8世紀末らしいですが、室町時代になって朝鮮あたりから伝来したものが全国に広まり、これに刺激されて大量に国産もされました。それが、江戸初期には庶民にも行き渡っていたらしいですね。しかし、庶民の手にはいったのは、繊維の短いインド綿の系統だったようです。繊維の短いインド綿はそれなりに仕事着とかの実用にはいい織物でした。まず、藍紺に染まりやすかったんですね。美しい藍染めのコットンは今でも人気ありますもんね。
ところが、江戸中期には、繊維の長いシルクのような光沢としなやかさのある綿花が輸入されはじめました。舶来の、このコットンは高価で珍しいものだったらしく、庶民には憧れの的だったらしいですよ。
ところで、菱川師宣が「見返り美人」を世に出した17世紀末は、この舶来コットンへの憧れが最高潮になった時期でした。ええ、「見返り美人」に描かれた着物のドレープがね。
「見返り美人」は切手にもなりましたから、ご存じのだと思いますが、あれは美人を描いたというよりも、みんなの憧れた舶来コットン特有のドレープだったんですよ。今から思うと、「シルクと、どうちがうの?」と思うけど、憧れってそんなもの。
今でも、シーアイランド綿(海島綿)はシルクよりも高価ですが、愛好者はいるもんね。
だから、短繊維のコットンしか手に入らなかった女性達は「見返り美人」を見た途端に長い繊維の舶来物だとわかったはず。当時の言葉ではカナキン(金巾)。
女性の身体の線をあんな風に出すドレープはシルクにも、麻にもなかった新鮮なものとうつったのでしょうね。
シルクは、江戸末期から明治には養蚕がさかんになり人々の趣向がシルクに移ってしまって、カナキン(金巾)は風呂敷地としてしか生き残ってはいませんが、流行ってそんなものかもしれません。