コラム・7
  
鴨長明は方丈記に書いているように、暮らしていた?
代表的な古典の一つに方丈記ってのがありますね。ええ、鴨長明(かものちようめい、正しくは、ながあきら)の作。
書かれたのは1212年と云うことになっていますから、徒然草より100年前。
住んだ草庵(そうあん)は方丈(一丈四方)と云うんですから3・3メートル四方で、今の京都市伏見(ふしみ)区の日野薬師の境内にありました。この草庵は、掛け金をつけて組立式にした小屋で、荷車2台で運べるっていっています。まあ、キャンピングカー。
キャンピングカーに住んでいるんですから、ヒッピーですねぇ。
出だしの「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」は、高校古文に出てきましたね。
      
ところで、このヒッピーは、どんなにして暮らしを立てていたのでしょう。
鴨長明は方丈記では「野辺の茅花、峯の木の実、わづかに命をつなぐばかりなり」なんて言っているけど、雑草と木の実だけで生きていけるはずもなし、雑草と木の実でも煮炊きが必要ですが、荷車2台で運べた3・3メートル四方の草庵では炊事道具は、どうしたんでしょうねぇ。
日野薬師は、正確には日野法界(ほうかい)寺だそうですが、ここに住まいしたのは友人の藤原長親(ながちか)らの縁だそうでして、この間にも鎌倉へ旅行して源実朝(さねとも)と面談した記録が残っていますから、雑草と木の実で自炊していたのではなく、日常の食事とかは寺に寄り掛かっていたと思われますね。だから、3・3メートル四方のボール紙と同じような物の中に住んだルンペンでもなければ、ヒッピーでもなかったようですね。
        
日常生活とか生活費をどうしていたかは、方丈記の内容が人生訓ですから、気になりますよね?
実際は、法界(ほうかい)寺で食事もしていただけでなく、お風呂も、すべての生活をしていたらしいですよ。
今の庶民は、定年退職で心ならずも隠棲することになります。企業年金で暮らす人は、たいした余裕はないとしても、まあ、それなりに豊かだと思いますが、鴨長明の隠棲後の生活は、当時の庶民からすると豊かだったことは確か。
で、鴨長明の隠棲の理由ですが、彼の父親は下鴨神社のトップであり、早世ではありましたが長明の20歳前頃まで生きていました。
彼、長明は三十代には勅撰(ちょくせん)歌人にもなっておりましたが、後鳥羽院に目をかけられ父ゆかりの河合社の神官になれるだろうと思っていたのに、同族の鴨祐兼(すけかね)の反対によって実現しなくなって、この失意で出家したらしい。
しかし、名家出身の著名な歌人でもあり、「野辺の雑草、山の木の実で、わづかに命をつなぐばかりなり」なんて生活でなかったことは確かですね。
当時は「宋の誇張癖」の時代ですから、文章の修辞は事実とは遙かに隔たっていました。