イソップの宙返り・238
   
船乗りと息子
船乗りが息子に学問を身につけさせたいと思いました。そこで、学校に行かせ、息子は文法学を究めました。息子は、さらに修辞学を究め、修辞学者になりました。
ある時、親子三人がそろって食事をしている際に、父親が、
「文法というものはあらゆる学問の基礎で、これを正しく学んだ者は文章を間違えないと聞いている。せがれや、ひとつその学問の実例をみせてくれ」と言いました。
すると、息子は「お父さん、あなたには、この鶏の頭を差し上げます。あなたは家の頭ですから。お母さん、あなたの割り当ては、この足です。日がな一日家の中を走り回って用事を山ほど抱えていますから、足がなければそれもできません。さて、この羽をむしった裸の胴体は、ボクにこそふさわしい。豊かな教養を生かして、言葉で世渡りする人間ですからね」
頭に来た父親が鶏を取り上げると、息子に向かってこう言った。
「お前は文法学で3分割するが、わしは修辞学で2分割だ。その一つはわしが食べ、もう一つは母さんがたべる。お前は、お前の修辞学で作り出した部分を食べるがいい」
寓意・言葉を悪用し言葉の詐術で世の中を渡るやからは、このような目に遭うのだ。
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修辞学とか雄弁術というと、詭弁術と同じように思いますね。
でも、民主主義の基本は弁論ですから、自分の意見をひとに伝え、説得する修辞学や雄弁術は大事な技術ですよね?
ところが、民主主義思潮のなかで育ったボクは修辞学とか雄弁術を習ったことがありません。せいぜい大学で論理学を習っただけ。それも数理論理学なんて記号の暗号のようなものだけでした。
        
雄弁術というと早稲田大学の雄弁部が有名ですね。あそこからは政治家が輩出しています。もう一つの雄弁家は僧侶。雄弁術は僧侶の基本的学問ですからね。
とくにプロテスタントの牧師にとっては雄弁は必須の能力。
仏教の僧侶にとっても説話は必須の能力ですね。まあ、お経だけが能力の葬式坊主も多いですがね。
修辞学、雄弁術は文体論、意味論、それに音韻論にも及びますから、これは人に自分の思想を正確に伝える術としては精緻を究めた術ですね。
大学とかの先生はボクと同じような教育しか受けなかった人が多いらしくて、小声でブツブツ呟くばかりで、何を言っているのか、言いたいのかわからない人が多いですねぇ。
あれ、少しは人にわかるような雄弁術でも、習得してくれればいいのにね。学生にすれば、あのブツブツを聞いているよりバイトに行っているほうが、よっぽど意義もあり楽しいと思うなぁ。
       
雄弁といえばヒトラーを思い出します。ヒトラーの雄弁術はすごいものだったですよ。彼は「わが闘争(Mein Kampf)」の中で「大衆は小さなウソはわかるが、想像力を越える大きなウソは見破れない」という意味のことを言っていますが、「第三帝国」だなんて大衆の理解力を越えていたのでしょうね。
第二次世界大戦は、ヒトラーの狂気に引きずられて起こってしまいました。
そんな悪夢を逃れるために、戦後日本では雄弁術を詭弁だとして子供の教育から外してきました。しかし、民主主義社会では政治家のウソ、マスコミの煽動から国民は身を守らなければなりません。ウソを見破るためにも、修辞学、雄弁術は必要だと思いますがね。
人をダマすためでなく、ダマされない学問としての修辞学、雄弁術は必要だと思う。