イソップの宙返り・198
       
猟師と山ウズラ
猟師の家に、遅く来客があったが、何も出す物がなかったので、オトリ用に飼っていた山ウズラの処へ走って行き、これを料理用につぶそうとしました。
山ウズラは「オトリとなって、永らく仲間をおびき寄せてきたのに、その貢献を忘れて殺す気か」と言いました。
猟師は「それだから、ますます殺さねばならぬ。仲間さえ売るヤツだから」といいましたとサ。
寓意・殺す気になっているヤツは、何とでも言う。
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このハナシをそのまま教訓話にするのも芸がないので、ちょっと捻って、役に立たたなくなると「猟師は犬でも煮て食う」話。
1332年後醍醐天皇は元弘(げんこう)の変に敗れて、隠岐(おき)に流されることになりました。
護送される途中の院庄にまで追いついていった、忠臣児島高徳は秘かに桜の幹に歌を刻みました。
こんな歌、「天、勾践(こうせん)をむなしうするなかれ、ときに范蠡(はんれい)なきにしもあらず」。
     
この話は戦時中の修身の教科書にありました。でも、若い人は、ご存じないでしょうねぇ。
勾践(こうせん)、范蠡(はんれい)って、こんな人。
支那は、春秋時代末期・紀元前5世紀。越(えつ)って國があったそうです。范蠡(はんれい)は当時の越王・勾践(こうせん)に重用されました。
呉(ご)に敗れてのち、敗残の勾践(こうせん)を助けて呉を滅ぼして勾践は越(えつ)を復興しました。
    
戦勝の祝宴の歌声が聞こえる中を、功労者范蠡は、一族を集めて逃走します。
その時のセリフが「山に鳥がいなくなると、犬は猟師に煮て食われる」でした。
ええ、越(えつ)を復興してしまった後には忠臣・范蠡は無用の長物。「山に取る鳥がいなくなった猟犬」と同じ立場。
范蠡は、一族を集めて脱兎の如く隣国斉(せい)に逃走します。
国境の河を越えたときには、てっきり、背後に国王勾践(こうせん)の放った軍隊の馬蹄の音が迫っていました。謀反の罪で謀殺しようとしてね。
ええ、もちろんデッチアゲですよ。「無用になった猟犬は煮て食われる」諺どおりにね。
       
忠臣児島高徳が桜の幹に刻んだ「天、勾践(こうせん)をむなしうするなかれ・・・」、を後醍醐天皇が読んでいたとしたら、苦笑したでしょうねぇ。
後醍醐天皇は知識人でしたから、史記を読んでおり范蠡(はんれい)がどんな目に遭ったか知っていたでしょうからね。
てっきり後醍醐天皇は王勾践(こうせん)と同じようなことをしましたね。
後醍醐天皇は翌年、配流先隠岐(おき)から復帰して建てた建武(けんむ)政権では、妾とかには大きな報償を与えましたが、命をかけて尽くした児島高徳らに報じることはありませんでした。
        
児島高徳は史記をまともには読んでいなかったんでしょうねぇ。范蠡(はんれい)がどんな目に遭わされたかを知っていたら「天、勾践(こうせん)をむなしうするなかれ・・・」なんて書かなかったでしょうし、戦時中の教科書にも書かれることはなかったでしょしうねぇ。エヘッ、修身(しゅうしん)なんてこの程度のことでしたよ。
       
ところで、斉(せい)に逃げた范蠡(はんれい)のことですが、鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変え、産業に努め巨富を築きました。
これを見て、斉の人は范蠡(はんれい)を宰相に推しましたが、「久しく尊名を受くるは不祥なり」として資産を友人たちに分け与えて、斉(せい)を去り陶(とう)に移住。
そこでふたたび巨富を築き、陶朱公と称したそうです。
山ウズラは修身の教科書なみで、范蠡(はんれい)ほどは賢くなかったらしい。