イソップの宙返り・181
    
薪の束
男には息子が大勢いましたが、兄弟喧嘩が絶えず、いつもいがみ合ってばかりいて、父親が止めても、喧嘩をやめませんでした。
父親は内輪もめが愚かなことであることを諭しました。
男は息子たちに薪の束を持ってくるように言いいました。
息子たちが薪の束を持って来ると、男は、その束を折るように言いました。
それぞれの息子たちは、懸命に力を振り絞ってみましたが、薪の束は折れませんでした。そこで、男は束をほどいて、一本一本、バラバラにして、息子たちに手渡しました。
すると息子たちは、たやすく薪を折りました。
そこで、男は息子たちに、こんなことを語って聞かせました。 
「息子たちよ。お前たちが心一つに団結して、互いに助け合うならば、この薪の束のように、どんな敵にもびくともしない。しかし、互いがバラバラだったら、この一本の薪のように簡単にへし折られてしまうのだ」と。
☆     ☆
この寓話からは「毛利元就(もとなり)の三本の矢」の話を思い出しますね。
戦前には修身って言う、道徳教育、愛国教育の時間がありまして、この修身の本に載っていた有名な話なんです。
毛利元就が三人の息子達に三本の矢をしめして、
「束ねられた三本の矢は折れないが、一本ずつにすると容易に折れる。兄弟は仲良くして力を合わせるように」って遺訓したと書いてありました。
兄弟仲良くとの遺訓がなかったというわけではないのでしょうが、三本の矢を持ち出しての遺訓の話は、真っ赤な嘘らしい。
元就の三人の息子達は、毛利本家、吉川、小早川。
関ヶ原の戦いでは、危険分散のために三家は東軍西軍に別れてつきました。
毛利本家は敗れた西軍でしたが、小早川が東軍についたがために家康は、辛くも勝ちました。
戦後処理で、毛利本家は一旦は廃絶ってことになります。
小早川は一計を案じまして、「父元就が28年前(1571年)の死に際して3人の子供を集めての遺訓がある」と家康に談判に及んだそうです。
そして、一夜にして三家は揃って、三本の矢の遺訓を書いた無数の掛け軸を作り、襖にまで書いたとか。
三家揃って掛け軸を掛けたのですから、小早川の強談判を断ると、三家そろって、徹底抗戦の構えですよね。
関ヶ原で勝ったと言えども、家康は政権安定にまで行っていませんから、妥協して毛利本家を長州一国に押し込めるだけで妥協したんでした。
毛利の「三本の矢の遺訓」は当時から誰でも知っていたイソップ寓話から、急ぎ作った、まあ、言うなれば遺訓の偽作。
それにしても、イソップ童話を、麗々しく遺訓に仕立てあげたチエ者は、誰だったのかなぁ。エラい。
          
でっちあげの遺訓って、使い道があるんですねぇ。
法事や葬式で、車を運転して行っているのに、酒を無理強いする人ってあるでしょう。
「オレの注いだ酒が飲めないのか?」なんて、シツコいヤツがね。
こんな時には、「母親の遺言で、陽のあがっている内は酒を飲まないことになっていますのでね」って断る方法をボクは時々使います。
       
まあ、「オレの酒が飲めないのか?」なんてところまで泥酔しているヤツが、何時でもこの言い訳で無理強いをやめてくれるとは限りませんがね。
もうこうなると、こっちも喧嘩腰で「親の遺言を破らせるのか?」なんて言ってやると、たいていのヤツは、ぶつぶつ言うだけであきらめてくれましたね。
それにしても、車を持っていると言っても、「まあ一杯だけ」なんてシツコイのがいますよね。世の中には。
         
ボクはほどほどには酒を飲む方ですが、日本人の3割は肝臓にアルコール分解酵素のない人がいるんだそうですね。あっても一種類の人がね。
なかには、極端な人もあって微量のアルコール分でショック性の中毒症状になる人があるようですね。
だから、どんなことになるのか分からないから、人に酒を無理強いするのはやめた方がいい。
大学の新入生には酒を飲んだ経験がないのがいますからね。本人も、どの程度飲んだらアルコール・ショックを起こすか知らないですしね。こわいよ。
こんなことも知らないで、運動部の監督を引き受けている教授もいるんだから、油断ならない。