イソップの宙返り・164
        
ディオゲネスと禿げ頭 
哲学者ディオゲネスが、ある禿げ頭の男に悪口を言われたときに、こう言いましたとサ。
「わしは悪口なんか言いかえさないよ。わしは君の頭の毛は賢いと思うよ。君の髪は悪い頭のてっぺんにおさらばしたんだからな」
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いやー、ボクの髪はバカなのかなぁ。わるい頭に、半分しがみついているんだからなぁ。
それにしても、髪が半分抜けて逃げたのは頭が半分悪いセイかなぁ。
       
日本人のハゲは額が後退して頭頂部に毛がなくなるでしょう?
まわりはふさふさしているのに、頭頂部だけがハゲてきている人が多い。
あれを見ると、チョン髷って、頭頂部ハゲを逆手にとっているように思える。
ええ、チョン髷は日本の封建社会が老人社会であったことの象徴だなんて珍説までありますね。
        
でも、中剃りして頭頂部に毛を残さないのは室町以降のことだそうですね。
髪形は博物館の人物埴輪(はにわ)では額の中央から左右に分け、耳のところで8字形に結び留めていますねぇ。
ええ、「あげみずら」と「さげみずら」って云う美豆良(みずら)ですね。
飛鳥(あすか)時代以降は官吏は冠をかぶっていますから、髪型はよくわかりませんが、庶民は、簡単に束ねて紐(ひも)で留める髻(たぶさ)風の結髪をしていたようですね。
でも、あの髻(たぶさ)風の結髪は、後の時代の絵描きが描いたものが多いから、当時がそうだったと断定はできないとは思いますが・・・
            
博物館の絵解きでは、冠帽の下の髪型は、公家(くげ)では、冠下髻(かんむりしたのもとどり)。
武家は、烏帽子下(えぼしした)の一つ髻(もとどり)が結ばれていたとしていますね。
この髪形は頭髪全体を脳天(百会(ひゃくえ))のところで、そろえてから髪を切り、紐や元結(もとゆい)で巻き上げていたんですが、巻く紐の色、何重に巻くかは、身分に差があったらしいですねぇ。
      
頭頂部に毛をなくする月代(さかやき)って、鎌倉時代になって、戦乱が長引き、これにともなって兜の下の頭髪が蒸れるのを防ぐことから始まったと言いますね。ええ、武士階級でね。
ところが、いったん戦乱がおわり、室町時代になってから、また月代(さかやき)の毛を伸ばして冠下髻や烏帽子下に戻ったらしいですね。室町の有職故実(ゆうそくこじつ)にはそう書いてあります。
でも、15世紀後半、応仁(おうにん)の乱からは、武士は戦乱絶え間なくなって兜を常時かぶることになり、いつも月代(さかやき)をあけておくことになったらしい。
          
16世紀末には月代(さかやき)が一般化して、後頭部で脇の髪をまとめて紐で巻き立てる茶筅髷(ちゃせんまげ)が一般的な風俗になったとか。
あの髷はカラスの形だといいますねぇ。ええ、ヤタガラス。
月代(さかやき)も、はじめは剃刀(かみそり)で剃(そ)るのではなく、毛抜きで毛を抜いていたらしい。
ええ、髪結い床(どこ)でね。
でも、ヒタイ後退性のハゲだと髪結代はかからなかったと思うけど、今の理髪店でも髪がほとんどないからといって散髪代をまけてくれないもんねぇ。
冗談に値切ってみたら、「髪の探し代ダ」と言われたなぁ
       
チョン髷だと、散髪代が安くつくように思うけど、髷は毎日整えなければならなかったようで。
それに髪形にもいろいろ流行がでてきて、唐犬額(とうけんびたい)、奴髷、蝉折(せみおり)なんてオシャレな髷だと、とても素人では整えきれないですから、まいにち髪結い床(どこ)でねばっていなければならなかったようですね。
落語の「崇徳院」を聞くと、そんなことを言っていますね。
         
いまでも、相撲取りも横綱になると大銀杏(おおいちょう)ですから弟子では間に合わず、専門の髪結いが居るようですしね。
そうなると額がハゲ上がった、後退性脱毛症だからといって、月代(さかやき)風髷を結おうにも、床屋でねばる時間もないし、散髪代にも事欠くボクら庶民は困るしね。
ヤッパリ、露頂性ハゲのままで辛抱しますか。