イソップの宙返り・150
        
蜜蜂と黄蜂のはなし
黄蜂と蜜蜂が出逢って、こんなことを話しました。
黄蜂が「世間の人は皆、黄蜂を嫌って、蜜蜂を愛するのはどしてだろう?」と不審がりました。
「お互いに姿形も似ているし、気にいらなければ人を刺すことも変わらないし、ボクはときおり人の家にも入って、食器にとまるなどして、君にくらべれば人に親しくしているが、人はボクを憎み、殺そうとまでする。
ボクにひきかえ君は疑の心深く、人とは疎遠なのに、世の人はかえって君を愛し、君のためには巣箱を作り、冬の間も世話して養うのは何故なんだ?」と言いました。
蜜蜂は「君が人のために益をなさず、かえって人をわずらわすゆえに、世の人は君が近づくのを好まないのだ。ボクは毎日いそがしく、人のために蜜を集めている。ところが、君は人の好まないところへ、ムヤミに出しゃばる。時間を無駄に費さないで、その暇をもって、何か世のためになることに勉めなさい」といいましたとサ。
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「世のためになること」言うと、福祉事業とか、社会奉仕を連想しますが、人のためになる、って難しいですねぇ。
人のためになるって、まあ人に恩恵を与えること。これは難しい。
どうしても、「親切にしてやっている」なんて傲慢な気分になってしまう。
まあ、人間の弱さなんでしょうねぇ。
          
最近、琵琶湖の湖畔にある休暇村で目にしたこと。
その日は夕日が美しい夕べでして、ホテルの客室からも、よく見えるんですが、玄関を出たところにあるテラスに、何人かの人々がでていました。
その中に奥さんを車椅子に乗せた老人がいまして、「足の不自由な奥さんをこんな辺鄙なホテルまで連れてきた夫って、やさしいなぁ」と感心していました。
それに、部屋からでも見えるのに、わざわざテラスまででしょう?
そのうちに、車椅子に乗せてもらっている奥さんが100メートルほど下の湖岸まで車椅子を押して、連れてってくれと頼んだんですよ。
いやいや、これが実は頼んだんではなく、命令したことがすぐにわかりました。
        
この夫は急な下り坂を車椅子を前にして、下りはじめたんです。奥さん、腕を振り回して怒りましてね。
車椅子を押して、急な下り坂を前向き下るものではないらしい。
そりゃあ、乗ってる方は怖いでしょうねぇ。そう言えば、テレビの介助の番組でも、そう言っていましたね。
ご主人の方は謝りながら、転回して後ろ向きにソロソロと、湖岸までの100メートルを下っていきました。
ところが、湖岸では見通しがきかないですから、奥さんの方は、すぐに帰るように命じたらしく、また急坂をエッチラ・オッチラと車椅子を押して帰ってきました。
        
湖岸より、テラスのほうが見晴らしがいいと、あの夫も下りる前から、そう思ったはず。
ボクだったら、わざわざ100メートルも下の湖岸まで車椅子を押して、連れていってやることはないだろうなぁ。
「ここの方が、よく見える」なんて決めつけるだろうなぁ。
この話を知人達にすると「よっぽど若いときに悪いことをして引け目があるんやデェ」なんて言うのと、「尻に敷かれているんヤ」なんてのの二色にわかれましたね。
ええ、何でも勝ちと負けとの二元にわける人がいますよね?
まあ、人は自分の価値観でしか物を観られないもんですがね。
            
老人施設に行くと、老人を幼児扱いしているところがありますね。
一定の時間に、集合場所にみんなを集めて、「むすんで、開いて」なんお遊戯をさせていますね。
あれは自尊心を傷つけられるだろうなぁ。ああいう施設で「奉仕活動」をしていると、人を辱めるのが平気になるのかなぁ。
         
車椅子を押してもらうのも気兼ねだし、老人施設に行って、幼児扱いされて、自尊心を傷つけられるのもイヤだなぁ。
ある日突然ポックリと死にたいって、ポックリ寺がハヤルるのはわかるなぁ。
人に迷惑をかけず、自尊心を傷つけられることがなく、生涯を終えたいと思っている人って多いように思う。