イソップの宙返り・20
    
兄弟げんかをする農夫の息子
兄弟喧嘩ばかりする息子達がいました。
親が、兄弟仲良くするように、言って聞かせようと思いました。
棒を持ってこさせて、束にして、折ってみるように言いました。
いくら力を入れても、折れませんでした。
今度は、束をほどき一本ずづにしました。
やすやすと折れました。
親が言いいました。「心を一つにしている限り、敵も手が出せないが、内輪もめばかりしていると、容易に敵の手におちるぞ」
          
寓意・内輪もめしていると弱く、一致団結していると強い。
         
この話、ピンと来るのは老人世代だけらしい。
それで、説明をします。
戦前には学校で修身って言う、道徳教育、愛国教育の時間がありまして、この修身の本に「毛利元就の三本の矢」が載っていました。
毛利元就が三人の息子達を集めて、三本の矢を持ってこさせて、束ねて折ってみよ、と言いました。「束ねられた三本の矢は折れないが、一本ずつにすると容易に折れる。兄弟は仲良くして力を合わせるように」って遺訓したと書いてありました。
        
兄弟仲良くとの遺訓がなかったというわけではないのでしょうが、三本の矢を持ち出しての遺訓の話は、真っ赤な嘘らしい。
       
実は・・・の裏話。
毛利元就の三人の息子達は、毛利本家、吉川、小早川。
関ヶ原の戦いでは、小早川が東軍についたがために家康は、辛くも勝ちました。
戦後処理で、西軍の大将に祭り上げられていた毛利は、廃絶ってことになります。
毛利本家が廃絶では、困ります。
小早川は一計を案じまして、「父毛利元就が28年前の死に際して(1571年)3人の子供を集めての遺訓がある」と家康にうったえました。
そして、一夜にして3家では揃って、三本の矢の遺訓を書いた多数の掛け軸を、作っただけではなく、襖にまで書いたらしい。
3家揃って掛け軸を掛けたのですから、小早川の強談判を断ると、3家そろって、徹底抗戦の構えですよね。
関ヶ原で勝ったと言えども、家康は、政権安定にまで行っていませんから、妥協して毛利を長州一国に押し込めるだけで、妥協しました。
           
で、この「三本の矢の遺訓」は急ぎ作った、まあ、言うなれば偽作。
しかも、この出典はイソップ物語。
当時は、伊曾保物語って、子供用の童話でした。
だれでも、知ってる幼稚な童話を「遺訓」だといって、見え見えの偽作をしてきた毛利3家は、「徹底抗戦するゾ」の明白なデモンストレーションですわな。
家康側にすれば、他の解釈の余地なし。
しかも、「兄弟仲良くせよ」は、どこの親でも、何時も言っていることですから、「なかよくせよ」との遺訓が「なかった」なんて証拠はないでしょうしね。
         
それにしても、イソップ童話を、麗々しく遺訓に仕立てあげたチエ者は、誰だったのかなぁ。
エラい。