イソップの宙返り・19
         
農夫と犬
農夫が嵐に閉じこめられて、外に出て食料を手に入れられなくなりました。
はじめに羊を食べました。次に乳をだしてくれる山羊を食べました。
三番目には畑を耕す牛まで食べました。
これを見ていた犬たちは、こう言いあいました。
「畑を耕す牛まで食べたんだから、次は犬が食べられる」って
       
寓意・身内の者に不正を働くような輩は、誰よりも警戒しなければならない。
        
これとよく似た話に、越王句践(こうせん)と范蠡(はんれい)との話が司馬遷の史記にあります。
句践は臥薪嘗胆ののち、呉を撃って越の王になります。
功績者范蠡は「山に鳥がいなくなれば、犬は煮て食われる」と、せっかく得た大夫の位を捨てて、一家を連れて身一つで逃げ出します。
てっきり、謀反をでっち上げた越王句践の騎馬兵が、命からがら国境の渡しをわたる范蠡一家の背後に迫っていた、と言う話。
その後、范蠡は、斉の国に逃げて、鴟夷子皮(しいしひ)と名乗り、陶の国に移って朱公と名乗りました。
徳を積み、「陶朱公」は経済人の鑑の代名詞になっています。
     
ところで、また余談を始めますが、後醍醐天皇が隠岐に流されるあとを慕って、児島高徳が岡山の院庄で桜の幹を削って書いたとされる歌があります。
「天、句践をむなしうするなかれ、時に范蠡なきにしも非ず」
後醍醐さんは、教養人でしたから、史記も読んでおり、句践と范蠡の結末も知っていましたでしょうね。
         
後醍醐さんは、隠岐から復帰すると、妾とか貴族には手厚く報いますが、てっきり、田舎侍の児島高徳には報いませんでした。
児島高徳は、自分を忠臣范蠡になぞらえたんですから、後醍醐さんにすれば「おまえは、煮て食われる犬にして欲しいのか」、って思ったんかなぁ。
それで、報償をあんまりくれなかったのかなぁ。
この話は、当時の武士が無教養だった例えによく出されるけど、そんなの酷いよね。
        
この話、これだけではすまないんです。
戦時中には、児島高徳さんは「忠臣」の一人に担ぎ上げられまして、「句践、范蠡」は詩吟とかに歌われましてね。
それ自体でもおかしいのに、昭和天皇は北朝の末裔でしょう。
昭和天皇からすれば、南朝の忠臣高徳は、北朝の逆臣ですよね。
二重に変な歌を、いまだに歌う人がいるんだから、日本はアッケラカンとしていて面白い。
     
「ジハート(聖戦)」とか復讐だなんて、息巻く人たちは、爪の垢でも飲んだらどう。