イソップの宙返り・9
        
狐と木こり
猟師に追われた狐が木こりに助けを頼みました。木こりは小屋に隠れさせてくれました。
まもなく猟師がやってきて、「狐が来なかったか」とたずねました。
木こりは、「見ていない」と言いながら、手振りで狐のいるところを教えました。
ところが猟師は、手振りに気がつかず行ってしまいました。
助かった狐は挨拶もしないで、去ろうとしました。
木こりは「命を救ってもらったのにお礼も言わないで、いくのか?」と非難すると、
狐は「あんたは手振りで教えたのに、猟師が気がつかなかっただけだ」
と言いました。
寓意・口では立派なことを言いながら、賤しいおこないをする人たちがいる。
           
極東の凡俗が思いまするに・・・
結論の寓意は立派なことをいっているのですが、話の筋にはなんとも、引っかかるんですね。
「手振りで教えた」なんて言いがかりも甚だしい。
教えるつもりなら口で教えるんじゃあない?
はっきり教えれば、猟師からお礼ぐらいもらえるかも知れないって。
それとも、狐の一族の復讐をおそれたのかなぁ。
でもこう云う狐の言いがかりは、「ゲスの勘ぐり」って言わない?
      
これで、思い出すのは、光明皇后が施療院を作られた伝説に「あれは善意からでたものではない」って言う「歴史の真実」実話。
「病人のウミを口で吸われた」なんてのは後からの作り話だと思うけど、施療院を作って病人を救おうとされたのを、怨霊を畏れた罪滅ぼしだと言う説は、どうかと思う。
              
たしかに、夫、聖武天皇は、粛正した兄弟とかの怨霊を怖れて宮殿を転々とされましたね。
まあ、「大仏建立が怨霊防ぎのミサイル基地だった」、てのも面白い説ではありますが、日本で記録に残っている限り、光明皇后の施療院は、最初の医療福祉事業でしょう?
今でも、福祉事業とかをやる人を、人気取りだとか、下心があるなんて勘ぐる人があるけど、人気取りでもいいじゃあない。
みんなが助かれば。
        
恩讐がもとであっても、僧禅海が青ノ洞門を掘ったことは菊池寛だけでなく、日本人は感激して感謝しますよ。(詳しくは菊池寛著「恩讐の彼方に」を読んでください)
     
親鸞は感謝を宗教にまでしましたよね?
ボクは宗教には、あんまり興味がない方ですが、やっぱりすごい思想だと思う。
でも、感謝の念は日本人皆が持っている素朴な思想ではありません?
別に門徒さんでなくっても。
            
お礼も言わないで立ち去ろうとした狐は、感謝の気持ちに欠けた不幸なヤツだと思うのが日本人の共通した考えではない?
少なくとも、感謝の心がない狐を教訓的な寓話の主人公にはしないのでは?
            
腹のふくれた狐
腹を空かせた狐が、牛飼いが置いていった食べ物を木の洞穴にみつけました。
腹いっぱい食べたので、出られなくなりました。
連れの狐が言うことに、
「お腹が小さくなるまで、中にいることだ。」
寓意・困難は時が解決することがある。
      
極東の凡俗が思いますことに・・・
困難は時が解決すること「も」ありますが、後のことを考えて物事をすべきである。なんて考える。
口賤しい凡俗は、たまに旨い物にありつくと、食べ過ぎて後で後悔することってよくありますねぇ。
あんまり食いしん坊狐を嘲えない。
寓意・食べ過ぎは程々にすることだ! こんなの、寓意にもならないかなぁ。