イソップの宙返り・7
        
漁師とニシン
漁師が網を引き上げて、ニシンをとりました。
ニシンが命乞いをして言いました。
「まだ小さいので逃して欲しい。ずっと大きくなってから、とるべきです。」
漁師の言うのには、
「手の中にある儲けを放り出して、不確かな希望を追いかけるのは、うつけ者のすることだ」
寓意・たとえ小さくても、現にある儲けは、不確かな将来の儲けより望ましい。
           
これは日本人の知恵とは、反対ですねぇ。
少なくとも寓意としては・・・
        
小さい魚まで取り尽くすのは収奪漁業。
これで思い出すのは、「レバノンの杉」。
ローマ時代では、中東のレバノンには鬱蒼とした杉の密林があったと記録されています。この大きな杉は地中海を制覇する軍船の資材になりましたから、レバノンは戦略地域だったとか。
でも、今は砂漠。
         
軍船用に伐採して、後を植林しなかったから、乾燥して砂漠になったらしい。
ものの本には「放牧した羊が実生の新芽(落ちた種から自然に生える芽)を食べたからだ」と言っていますが、本当かなぁ。
羊を杉の林に放牧することってあり得ないのでは?
         
日本人は昔から植林をしてきました。
万葉時代からある檜原とかの地名は檜の植林に由来する、って言いますね。
植林は子孫のためにですよね。
「子孫に美田を残さず」って、中国から伝わった諺があります。
でも、日本人は、あの諺を言葉通りに「そうだ」と思っているかなぁ。
      
ボク達都会生活者は水田耕作から遠ざかっていますから、美田って言ってもピンとこないですが、つい先頃までの日本では水田は生産手段でした。
先祖から受け継いだ水田が、悪田ならば良田に、良田ならば美田にして子孫に伝えようとしてきました。
できれば、「子孫に美田を残したい」ってのが日本人一般の悲願ではなかったですか?
美田を残すあてのない、ボクなんかは「子孫に美田を残さず」って、自分を慰めていますが。
       
儒教は「親に孝」ですね。
「親に孝」ですから、子孫のことを考えての植林は考えてこなかったと言いますね。
そのセイで、儒教国の中国、朝鮮半島では山は禿げ山。
           
黄河上流の黄土台地も上古には大森林だったといいますね。
今は砂漠になって、雨のたびに畑が崩れています。
日本人の感覚では、先祖から伝えられた畑を失うのは、とても親不孝な事だと思うけど、植林をして畑が崩れるのを防ぐなんて、儒教のヤカラは考えないらしい。
            
まあ、この世には色んな考え方があります。
いまでも、鳥取の砂丘を通ると複雑な思いになります。
戦後、砂丘が拡がって水田が埋もれはじめました。これの砂防をかねて松の植林をしました。今は、これが成功して砂丘が狭くなりましたね。
        
そのうち、水田が歓迎されなくなり、観光「資源」としての砂丘が歓迎される世の中になりました。
せっかく緑化したものを、もう一度砂丘に戻す作業が始められているそうですね。
鳥取を通ると、なんとも、複雑な思いになります。
          
それにしても、「不確かな将来の希望を追いかけるのは、うつけ者のすることだ」ってのが、イソップ寓話の生まれた中東、ギリシャ世界の常識らしい。
        
でも、美田どころか、国民一人あたり600万円もの国の借金を子孫に残すのは、心残りですね。
日本は、何時から、イソップ的な世界になってしまったのでしょう。