いろはガルタ・十四
       
いろはガルタの「も」
京ガルタの「も」は「餅は餅屋」
素人では専門家にかなわないところがあります。
ひと昔前は、餅はそれぞれの家でついていました。
ですから、だれにでもできることでした。
ところが、餅つきのプロが搗いたものはひと味ちがうんですね。
          
大阪ガルタの「も」は「桃栗三年、柿八年」
今は栽培種がでているから、果実がなり始めるのは、この年数とは限らない。
だから、今では園芸情報にはならないようですね。
まあ、カルタで園芸情報を言ってもはじまらないでしょうからね。
これは「石の上にも3年」と同じ趣旨の諺ともとれる。
何事も持続って大事なんですよね。
        
江戸ガルタの「も」は「門前の小僧、習わぬ経を読む」
大阪ガルタには、これの反対の「習わぬ経は読めぬ」ってのがあります。
こうして京、大坂、江戸のカルタを並べると、土地の気風の違いが良くわかりますねぇ。このカルタ随筆を書き始めた時には、こんなおもしろい土地柄談義をするつもりは、なかったんですよ。
並らべだして初めて知りました。
特に、宗教にたいする態度の土地柄。
         
京ガルタの「せ」は「せんちで饅頭」
今は京都でも、「せんち」とは言わないで「せっちん」と言うようです。
雪隠は便所のこと。
ウマイ物を隠れて、独り占めすること。
なんとも、いじましい話柄。
「手は多いほど良い。口は少ないほど良い。」ともいいますよね。
手は働く。働く時には人数が多いほどいい、けど、口は食べるときで、これは少ない方が当たりが多くなりますから、「口は少ないほど良い」ですわなぁ。
だから、「雪隠で饅頭」っていっても、別に京都人だけが、いじましい証憑(しょうひょう)にはならないですよ。
          
大阪ガルタの「せ」は「背戸の馬も、相い口」
「人喰らい馬にも、相い口」のほうが、チトわかりやすいけど、馬なんて居なくなった今日では、ピンとこないですね。
背戸は裏口のことらしい。裏口に繋いでおくしかない暴れ馬でも扱いかたでは御(ぎょ)すことができる、って意味。
どんな組織にでも扱いのむつかしい人っていますが、不思議に気の合う人があるもんですね。
でも、こんな人って「背戸の馬」ですから、巧く持っていけば、すごい実力を出してくれることっておおいですねぇ。
さすが、商都。人の扱いの格言は正鵠(セイコウ、正しくはセイコク)を射ている。
        
江戸ガルタの「せ」は「背に腹はかえられぬ」
さし迫った苦痛を逃れるためには、犠牲もやむをえない、って意味で遣われますね。
でもね、医者が勝手に「さし迫った苦痛」と判断するのは迷惑ですよ。
インフォームド・コンセントで、患者が理解できる正確な情報を与えたうえでの同意をとってほしいですね。
でも、僕たちでも、ひとに親切のつもりでするときには、受け手の気持ちを考えないで、押しつけがましいことをしてしまうこと、ってありますねぇ。
「親切の押し売り」って気をつけなければ・・