いろはガルタ・十三
    
京ガルタの「み」は「身は身で通る」
身分そうおうの暮らしをすれば、それなりに生きられる、って意味らしい。
いかにも、京都の庶民のいいそうなこと。
       
大阪ガルタの「み」は「箕売りが古箕」
「紺屋(こうや)の白袴」も同じ意味。
でも、オシャレな服屋では店員さんは、みんなオシャレをしていますねぇ。
あんまり不細工な服装をしていると、客のほうでは、着ていった服で「まあ、これでもいいか」って気分になって、買わずに帰ってしまうんでしょうね。
それにしても、オシャレ店に行こうと思うと、一張羅委を引っ張り出して着ていかない?
あれうっとうしい。
       
江戸ガルタの「み」は「身からでた錆」
そう言われてしまえば立つ瀬がない。
薄情な言い方。
         
「し」は京ガルタでは「吝(しわ)ん坊の柿の種」
いえいえ、ピーナッツの入ったお菓子の「柿の種」ではありません。
本物の柿の種は食べようとしても、何にもならない。
梅干しの種は、割ると中に天神さんが入っていますがね。
カボチャも、スイカも種の芯はウマイですね。
        
大阪ガルタの「し」は「尻喰らえ観音」
苦しい折には観音さんに頼むくせに、余裕ができると、「尻喰らえ」なんて、勿体ないことを言う。
これは観音信仰だけでなく、人の世話になっておきながら、恩を忘れたヤツのことにも遣います。
      
江戸ガルタの「し」は「知らぬが仏」
仏さんって、何でもご存じのはずなのに、何でこんな諺があるのかなぁ。
でも、僕らは無意識に遣っていますね。
ところで、陶器の出来損ないのことをホトケとか、オシャカっていうでしょう?
あれ、焼くのに「火が強かった」を、江戸訛ではヒがシになるので、「ヒが強かった」が「シがつよかった」になり、4月8日になった。
4月8日はお釈迦さん降誕日。
それにしても、もったいないダジャレ。
           
いろはガルタの「ゑ」は京ガルタでは「縁の下の舞」
これは由来がわからないから、辞典に頼りました。
それで辞典の援用。
「むかし陰暦2月22日に大阪の天王寺で、聖徳太子聖霊会で行われた舞楽。舞台の下で舞った。」
これから、だれも見てくれないところで苦労すること、の例え。
大阪ガルタの「ゑ」の「縁の下の力持ち」もほぼ同じ遣い方をしますねぇ。
         
江戸ガルタの「ゑ」は「縁は異なもの」
これに続いて「・・・味なもの」って遣いますね。
考えると、夫婦の縁なんて異なものですが、味なものでもありますね。
退職離婚を言い出す奥さんに聞かせたい諺。
           
次は「ひ」
京ガルタの「ひ」は「瓢箪から駒」
冗談が本当になることに遣いますね。
あの男と、あの女はいい釣り合いだなんて冗談半分に言っていたら、何時のまにか本当に結婚することになった、なんて嬉しい「瓢箪から駒」が時々ありますよね。
「炒り豆に花が咲く」は、ありえないことにつかいますが、「瓢箪から駒」はあってほしい時に遣いますね。
         
大阪ガルタの「ひ」は「貧僧の重ね食(じ)き」
ガツガツ、明日の分も食べるよね。
中華料理を割り勘で食べるのに、朝飯を抜いて行ったら、空腹で気分が悪くなって、ちっとも食べられなかった、なんていう悲劇もありますがねぇ。
隣の岡山には「ほいと(乞食)にぬく飯(温メシ)」なんていう言葉があります。
何か物をあげる、なんて言うと、いかにも嬉しそうに揉み手をせんばかりにやってくる人のことを嘲って言う。
気をつけなければ。
         
        
江戸ガルタの「ひ」は「貧乏暇なし」
暮らしに追われて暇がないことをいいますが、今時は失業して暇で困っている人が多いですね。
一方では、経営不調で人減らしをしたがために、残った連中は、めちゃめちゃ忙しくなって、過労死寸前の状態になっている職場がありますよね。
あれ、何とか知恵のある政策がないものかねぇ。