いろはガルタ・十二
     
京ガルタの「き」は「義理と褌かかねばならぬ」
大阪ガルタも同じ。
「義理とフンドシ欠かされぬ」のほうがわかりやすい。
「かかねばならぬ」は「雪に変わりはあるじゃなし・・・」的な表現。
文法的に真面目に読むと反対の意味にもなりかねないけと、まあ、ゴロがいいから、そうなっている。
フンドシってのは男は必ず締めねばならないものであったことによる。
で、今度は風俗学的に厳密に解釈すると、女は義理を欠いてもいいことになる。
義理って、「やりたくないこと」の別名。
義理で一番いやなのは「あとのまつり」「死んだあとのまつり」。葬式のこと。
あれ死んだ本人への義理で行ってるのか、遺族への義理で行っているのか、よくわからないところがあるけど、夏場に路上で出棺でも待つのつらい。
先日、よぼよぼの老人が、友達の葬式だから、って無理して出席なさって、そのまま寝付いて、数日後に亡くなられました。家族は出かけられるのを、相当反対なさったらしいけど、年寄りって聞がないよね。
周りからは、何故行かした、とかって非難があったけどね・・・
      
江戸ガルタの「き」は「聞いて極楽、見て地獄」
「見ると聞くとの大違い」とも言う。
まあ、それだけの意味かなぁ。
        
京ガルタの「ゆ」は「幽霊の浜風」
足のない幽霊にきつい浜風が吹いたら、ふらふらして頼りないことおびただしい。
おアシのないのに不況の風はキツイ。
でも、お宅の御主人を、そんな風によばないでねぇ。
      
大阪ガルタも江戸も「ゆ」は「油断大敵」
油断の語源は万葉言葉にもある、「怠る」って意味の語源になった「由多爾(ゆたに)」で、ゆったり構えること。
「ゆたに」の当て字で油断らしい。
でも、車で走っていてガス欠になって、油を断ったって意味で遣うと、字づらそのままで実感がでる。
マージャンやっていて、役満になぞ、放り込んで「油断大敵、火がボウボウ」なんて、周りからバカにされたりしてぇ。
          
「め」は京ガルタでは「盲の垣覗き」
えげつないいい方ですねぇ。
絵画めくらが名画展に出かけること。
でもねぇ、女性って名画の前に立つと、どうしてあんなに美しいなるのかなぁ。
あれからすると、美人って、やっぱり内面の問題だと思う。
新聞って自分とこの主催でやる名画展の提灯持ち記事を、これでもかとばかり連日やるでしょう。
見ないと人間失格みたいにね。
名画と教養とは、どんな関係になるのかはわからないけど、「名画を見た。教養が豊かになった」って満足感が、女性を美しくすることだけは確か。
それにしても、京ガルタは人間をシビァーにみているなぁ。
        
大阪ガルタも江戸ガルタも、「め」は「目の上の瘤」
ガミガミ親爺なんて少なくなったねぇ。
僕なんか、息子や娘に、オベンチャラ言っているもんね。
ご機嫌を損じると「孫、レンタルしないぞ」なんて脅かされるもんね。