いろはガルタ・十
       
京ガルタの「こ」は「これに懲りよ道才棒」
道才棒は道斎坊とも書くようですが、意味のない、ただのゴロ合わせ。
ですから、「これに懲りよ」って言うばあいに京では使ったものらしい。
語尾のゴロ合わせといえば、「畏れ入谷(いりや)の鬼子母神」とかは今でも遣う人がありますね。お酒を注いでもらうとき、照れ隠しの洒落として気が利いてますからね。
よく遣われるのには、「とんだところに北村大膳」「おっと、がってん承知の助」なんてのもありますか。
         
大阪ガルタの「こ」は「志は松の葉」
お礼の物を下さるのに、「寸志」とかの意味で「松の葉」って書く人がありますね。
箱の中に松葉が入れてあることもありますね。
あれは、「松の葉で包めるほどの僅かなものでございます。」って意味らしい。
そりゃあ、柏餅の柏の葉でもわずかなのに、松の葉じゃあ僅かでしょうね。
って書いたけど、松の葉で包める?
すごい謙虚な表現。
今は若い人の中には「これ良い物だから、あげる」って下さることがあります。
こんな時には、西洋風にすぐ開けて、中身を見て喜んであげるものらしい。
よく、「人に物をくれるのに粗末な品とか書く」のはおかしい、って言う人があるけど、あれは「お返しに気を遣わなないで下さい」っていう配慮。
だから、「良い物だから、あげる」って西洋風なプレゼントをしていただいたら、これも「お返しは西洋風にいらないよぅ」っていうシグナルでしょうね。
         
江戸ガルタの「こ」は「子は三界の首っ枷」
三界流転って言葉があるから、仏教語らしい。
この世の首枷だけでなく、死んだあとまで、首っ枷になるものらしい。
そりゃあ、子供のことは親は心配もし、心残りなものですよ。
子を持って親の有難味がわかりますね。
私の父親なんて「あんまり偉くなるなよ。戦争に負けて絞首刑になるからなぁ。」まで心配してくれていた。
親は子供や子孫のことを心配するもんだから、死んだらすぐ別嬪さんの天女に迎えられて、ほいほいと浄土に行ってしまうようには思えない。
近くの山の上から子孫のことを心配して見守ってくれているような気がする。
遺伝子生物学的には、僕の体のなかに先祖すべてが居てくださっていることになるのかなぁ。
ああ、これの方が実感としてわかる。
        
次は「え」
京ガルタは「縁と月日」
「縁と月日は末を待て」とか「縁と浮き世は末を待て」とも言う。
「良縁とか好機は焦らずに月日を待て」って意味らしい。
結婚の縁は、焦らずに月日を待てば良縁にも恵まれる、って意味。
でも、あんまり選り好みしているとアガワしてしまわないとも限らないよ。
          
大阪ガルタの「え」は、「閻魔の色事」
似つかわしくないこと。
でも、閻魔が色事をやっているは想像するだに楽しい。
こないだから、裁判官の色事が続いていますね。
チカンやら、少女買春やら。
なんやねん、アイツら。情けなくなる。
日本の組織のすべてから腐臭がしてきている。
職業裁判官に裁判は任されませんでぇ。
陪審裁判がぜひ必要。
  
江戸ガルタの「え」は「得手に帆を上げ」
得意な手に乗ってどんどん進むことらしい。得手には順風って意味もあるからね。
でも、何で得手に続いて帆になるか?
手で帆をあげる意味ではないらしい。
「て」の音に続いて帆になるのは、疾風(はやて)、追い風(おいて)で風を「て」とよむからでしょう。
得手の「て」を風と読んで、帆となったらしい。
ところで、「手」って訳のわからん遣いかたがされるでしょう。
          
そこで、手の蘊蓄考。
むかし話になるけれど、鬼平犯科帳で、駕篭かきに「酒手をはずむ」ってのがでてきたでしょう。
あの「手」の意味はわかりませんねぇ。
まさか握手でチップを誤魔化すわけでも、なさそう。
あそこで遣われる手はむつかしいのよぅ。
昔の布を意味する「たへ」(木偏に考、だけどATOKにないので想像してぇ)が訛って「て」になったらしい。
それに「手」を当て字したとか。
で、なんで布がチップになるかと言うと、昔は貨幣よりも布が交換財だっかことから、お金を意味することになった。
手当、手形は同じ意味。
それにしても、しつこい話になったなぁ。すみません。