いろはガルタ・七
    
京ガルタの「む」は「馬(むま)の耳に風」
馬耳東風ともいいますね。
まったく聞こえてない。相手に受信機がないって意味でしょうか。
司馬遼太郎のエッセイに
「鉢物の花をさしあげたい」っていう人に
「私は不在がちで、世話ができないので」とくどくどと断りをいったのに、翌日そのひとから鉢物の花が届いた、ってのがありました。
花を枯らせることが、どんなに心苦しいかが、わからない人には受信機がないのだから、どんなにくどくどしく説明しても、伝わらないですわな。
        
大阪ガルタの「む」は「無芸大食」
宴会になっても、芸もなく、ただ食って飲むばかり。
でも、芸のないのはつらいのよぅ。
それにしても、京のお茶屋って、食う物も出さないで、芸のない田舎モンを、あそこまでバカにせんでもええ、と思うけど、あんた、そんな目にあったことない?
       
江戸ガルタの「む」は「無理がとおれば道理ひっこむ」
さすが、政治都市。庶民の見る目はたしか。
こう並べてみると、京、大坂、江戸のカルタは、それぞれ土地柄を反映しているんですねぇ。いままで気がつかなかった。
            
京ガルタの「う」は「氏より育ち」
氏といえば、血筋を誇れるのは天皇家、出雲の千家と冷泉家ぐらい?
京ワラベは、程度の悪い貧乏公家を見てきたからこそ、「氏より育ち」なんて実感していたんでしょうね。
いまでも尊種信仰をいうひとがあるけど、日本では尊種信仰は稀ですね。
モノクラス(単一階級)社会の爽やかさ。
それにしても、一人の貴人が5人の子供さんを次々生み続ければ、14代で5の13乗。人口1億2千万人を越えるんですからね。計算上は。
でも、公家はスケベエだから子供は5人どころではない、って貴方おもっている?
公家がスケベだというのは、あれ、あらぬ疑い。
江戸時代に流行ったポルノの男役では公家眉に人気があった。
公家眉が長いのを出してやっているのは、いかにも間の抜けた顔で、ユーモラス。
公家はスケベだと思っているのは、曾祖母ちゃんの嫁入り道具の枕絵の見過ぎ。
          
大阪ガルタの「う」は「牛を馬にする」
これは、今になるとわかりにくい諺ですが、昔は好都合の方に乗り換えるって意味の「牛を馬に乗り換える」って慣用句があったらしい。
力のある方につくのは政商でなくとも庶民の生きる知恵。
でも、このカルタ歌は節操なく都合の良いほうに乗り換えるのを揶揄した雰囲気をもっていますね。
          
江戸ガルタの「う」は「嘘からでたまこと」
大言壮語していて、それをほんとに実現する人ってありますよね。
近頃はやりの「成功をイメージしていると、本当にそうなる」っていう成功術のノウハウものってまんざら嘘でもないみたい。
        
「ゐ」の京ガルタは「鰯の頭(かしら)も信心から」
節分には門口に鰯の頭とヒイラギを飾る風習が残っているところがありますね。
お正月の飾りを灰にして、屋敷の周囲に置いてまわる風習もおなじ疫ばらいなんでしょうね。
京は宗教都市だけあって、こんな信心のカルタ言葉がおおいですね。
            
大阪ガルタの「ゐ」は「炒り豆に花が咲く」。奇跡のことですよね。
これはまともに遣うんではなく、「炒り豆に花が咲く心地して・・・」なんて江戸時代の物語の常套句にでてきます。
京ガルタの「瓢箪から駒」も似たような意味があるのかなぁ。
奇跡なんて硬い言葉よりいいですね。
           
江戸ガルタは「芋の煮えたのご存じない」
芋が煮えているか、どうかは箸でつきさせばわかること。
こんな知恵もない人への悪口。
ここで言う知恵は学術教養ではなく、世情に疎いことをいっているらしい。
まあ、「生きる知恵」のないこと。
           
「の」は京ガルタでは「鑿(のみ)といえば槌」
「ツーといえばカー」
気配りのするどい人のこと。
ところで、「気のまわる人って、気が利かない」って言葉知っていますか?
僕の母はこんな知恵をよく教えてくれました。
商人の出だったせいらしい。
人を外見だけで、判断する知恵らしい。
よく「宿屋の番頭は履き物で客を見る」っていいますね。
少々贅沢しても履き物までには気を遣えない。
昔の移動手段は歩くことでしたから、履き物は大事なことだった名残でしょうか。
「気のまわる人」の話に戻りますが、言葉そのままにとってくれればいいものを、変に気をまわして悪意にとる人って時々あるでしょう。
あれ見ていたら、肝心の配慮はたりない人であることがおおいですね。
人の性格の不思議。
      
大阪ガルタの「の」は「野良の節句ばたらき」
野良はのろまのことらしい。
節句まで際限もなくだらだら働くのを野良間(のろま)っていうらしい。
「よく働き、よく遊べ」ともいいますが、なかなかそうはいかないのでして、ぼくなんか土曜日まで働いていたことがあります。
土曜の半日なんか通勤の時間からするとほとんど無駄だとわかっていても、周りがそうしていると、思いきって休めなかった。
少し意味が違っていますが、「ダラズ(怠け者)の節句働き」ともいいますね。
試験の前夜に、あせって一夜漬けするのも、同じ意味かなぁ。
これなら、大いに経験がある。
       
江戸ガルタの「の」は「喉元すぎれば熱さ忘れる」
これ日本人だけのことかと思っていたら、アメリカ人もそうでしたねぇ。
こんどのアラブ過激派の攻撃。
98年にはアフリカの米国の施設が特攻攻撃をうけたのに「喉元すぎれば熱さ忘れて」、サリバンからは宣戦布告をうけていたのに油断していたんですね。
テロだなんてごまかしていたけど、あれは戦闘行為としてのゲリラですよね。
まあ、何とか、よその戦争だけにしてぇ。
それにしても、日本のマスメディアの好戦気分、どう?
昨日までの平和主義はどこへ行ったの?